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2015年5月14日 (木)

たまたまの妄言

晩年のトルストイの短編などを読むと教父時代の原始キリスト教のような禁欲的な、「貧しきものは幸いなり」を実践するような内容に驚く。そんな考え方になったが故に、自らの地主の身分から逃げだして、放浪のような生活をおくり、行き倒れた、という伝記的事実が納得できる。

残すために仕方なく行うもので、快感を得ることは変態的な倒錯にほかならず、姦淫の大罪にあたるという。同じように、食事は生命を維持することが本質的な目的であり、それ以外のもの、例えば美味しさを感じるというのは、本来の目的から外れたものということになる。

敢えて、敷衍すれば、後年マルクスが生活の手段として仕方なく労働という手段を選んだはずだったのに、いつのまにか、労働に生活を支配されてしまうことになるという「疎外」という概念に通じるものだろうか。

禁欲的すぎて、窮屈すぎるとは思うけれど、謹厳居士というわけでもないけれど、趣味とか快楽とかいうことには、生存ということから乖離していくものということは、頭の片隅に残ってはいる。

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コメント

労働が苦役である、というのはときに正解だが、かならずそうであるとは限らない。
労働が生きがいであることもしばしばある。今は子供が学習を苦役である、と捉えてその対価を求める時代になった。

OKCAHNさん、コメントありがとうございます。私の説明が舌足らずで申し訳ありません。マルクスは人間を類的概念として捉えているので、ここの労働者が労働を苦痛と感じるかどうかは、疎外という概念では考えていないと思います。労働者という類(≠階級)が労働に対して主体的であるはずなのに、労働に支配される転倒的な事態が制度化されてしまうことをいうので、詳しく、お知りになりたいようなら、「経済学・哲学草稿」(岩波文庫)が手頃です。

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