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2015年5月23日 (土)

竹内整一「『かなしみ』の哲学」(7)

第6章 「われ」という「かなしみ」

「自分の力ではとても及ばないと感じる切なさ」という有限感情としての「かなしみ」は、日本の精神史においては、より一般的には無常感という感じ方としてあった。けっして常ではありえない人間存在のあり方を「かなしみ」として受けとめるという感じ方のことである。無常という考え方は、もともとは仏教の考え方であって、あらゆるものは移り行く、かわらないものは何ひとつないという冷徹な哲理として、ふつうは無常観と記せられている。それが日本に来て無常感になったといわれているが、この「観」から「(哀)感」への受けとめ方の変化は、無常と言うことの理解そのものの変化でもある。

『万葉集』を代表する歌人たちも、無常感としての「かなしみ」を数多くよんでいる。それらの中には、典型的な対象喪失の「かなしみ」でありながら、それだけではなく、同時に、この人間存在のあり方全体の「かなしみ」といったものに広がり深まっている。ものがある。そこでの「かなしみ」は、かならずしも、いわばひりひりとするような絶望的な意味合いのものではなく、そう受けとめる自己限定のなかに、ある種、確かな肯定の手応えを含むものと考えることができる。この大伴家持ら万葉の歌人たちの無常感は、たしかにあらゆるものが移り変わるという無常の働きの受けとめであるが、それと同時に、そこに重ねて、ずっと変わらない自然の働き、「おのずから」の働きの受けとめでもあったということができる。そこでの「せむ術なき」「かなしみ」というのは、嘆きでもありながら、事に対しての、それ以外の仕様のなさというものの承認でもあり、それをそうあらしめている大いなる働きの感受ということでもあったということである。そのことは、結局、基本的な枠組みとしては、これまでに見てきた宣長や親鸞らの発想と同じであるし、独歩の「天地悠々の哀感」ともつながってくる感じ方であろう。

日本人の無常観には、そのうちに「敏感な秩序の自覚」というものが備わっており、それが人生の無常を嘆きながらも「けっこう安定した自然を見出していた」理由だというのである。無常のリズムそのものに「安定した自然」のリズムを重ねて感じとっているということだ。「おのずから」という言葉が、かつては、自然の成り行きのままで、という現代の使い方と同時に、とりわけ死を意味する「万一に」「偶然に」という無常の意味でも使われていたということは大事な日本語の知恵である。我々からすれば、無常あるいは偶然だと思われる事態も、より高い次元である宇宙的地平から見れば、あたりまえの「自然」なこと、「おのずから」のことだと納得しようとする知恵がそこにはめ込まれているのである。

このような無常感・自然感から、「みずから」の有限性の感得と同時に、自然・宇宙の無限性の感得につながる。そのような自然景物を通して、その大いなる場においての「かなしみ」ということが出てくる。つまり、この「かなしみ」は、たしかにある種の形而上的な自然感情ではあるが、それは、まずは感じとっている「われ」の感情であるということである。つまり、その「かなしみ」は、「そればかなしき」「きけばかなしき」という、そうした自然景物を見たり、聞いたりする主体としての「われ」が前提の、その「われ」の感情でもあるということである。仏教の無常という考え方では、そうした主体(われ)の損座区を認めていない。むしろそうした主体(われ)をとどめる発想こそが迷いであり、「われ」を解体し「無我」に向かおうとするところに、無常観としての厳しさがあるのである。そこでは、「かなしみ」は消える。一方、無常感としての「かなしみ」においては、どこまでも「かなしむ」主体がとどめられている。あらゆる物の移り行きを受け止めながらも、受け止めている自分もまた、その中の「ひとつ」としてあるという認識である。その「ひとつ」としての主体をとどめながら、この大いなるものの中にあらためて位置づけていくところに、「かなしみ」という感情が、またその可能性があるのである。

 

磯部忠正は、『無常の構造』で、我々の当面の現実は「無常」として現れ、それに従わざるをえないが、それは同時に、ある「大きな自然のいのちのリズム」のようなものの、その「一節」としていき死んでいっているのであり、そう受け止める一種の「こつ」をわれわれは心得ている、それは「無常観を基礎とした諦念」である、と。「一節」とは時間的な表現であるが、空間的な表現で言えば、「一隅」であり、「一滴」「一角」である。家持らの歌でいえば、「ひとり」「ひとつ」ということである。磯辺のこの指摘は、日本人の無常感一般に、またさきに見た本居宣長の「安心なき安心」論などにもそのまま適用することができる。宣長は、死を含めて悪いことに出会うのも、すべて神々の定めた仕組み・働きにおいてそうなのであり、それらは、われわれには「せむ術なく」「かなしい」ことであるが、その「かなしみ」を「かなしむ」ことにおいて神々の働きに従うことになると言っていた。それは、まさに、「生きるのも死ぬのも、この大きなリズムの一節である」という、ひとつの「あきらめ」ということになるであろう。「あきらむ」とは、もともとは「明らむの語意の転」で、ものごとを明らかにして、はっきりと認識・判別し、処理するというのが原意である。仏教などで「四諦」というと、四つの真理ということである。しかしわれわれが日常語として使っている、またここで問題にしている「あきらめ」「諦念」は、そうした「諦め」ではない。「明らめ」という原意を残しながら、「仕方がないと思い切る、断念する」の意味の「あきらめ」である。「諦」と「あきらめ」の違いは、無常観と無常感の違いにも重なってくる。つまり、すでに述べたように、無常感や宣長の「安心なき安心」論では、どこまでも「かなしむ」自分、「われ」というものがとどめられているが、無常観や仏教の言う「諦」では、そうした「われ」はむしろ迷妄とされている。したがって、そこに「かなしみ」などは漂ってはいない。ただ、いかに「かなしむ」「われ」をとどめる「あきらめ」にしても、それはそれなりに、どうにもならないことをどうにもならないことと明らかにして、それを受け止めているというかぎりでは、本来の「明らめ」の意味合いもどれほどかは、そこにむくまれているということは、いうまでもないだろう。

 

この後も数章が続きますが、これ以上の展開はなく、したがって結論にまとめられてはいません。この後の数章は、様々に「かなしみ」を分析していく、バリエーションのような内容で、興味深いところも多々あるものですが、ここで終わることにします。興味のある方は一読をおすすめします。この著者はこのような横展開が基本で、議論の展開や深まりをストーリー的に楽しむ人には、もの足りないかもしれません。私も、ちょっと欲求不満が残りました。

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