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2015年5月10日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(21)

第6章 キリストの受難─肯定の哲学の原点─

神の受苦可能性・不可能性の問題は、多面的な広がりを有している。その全貌を明らかにするためには、神の受動性・受動不可能性の問題を背景に置きながら、キリストの「受動=感情(passio)」について考察していく必要がある。キリスト教の正統教義において、キリストは、「人間」であるとともに「神」である。つまり「人間本性=人性」と「神的本性=神性」の双方を有するとされてきた。神と人間の接点であるキリストの感情についての考察は、人間の感情について新たな角度から考察する手がかりを与えてくれる。トマスにおいてはpassioという語が、「受動」という意味と「感情」という意味が区別されつつも密接に絡まり合った仕方で用いられていることは既に繰り返して述べた。実はそれだけではなく、もう一つ「受難=苦難」という意味でこの語は用いられている。とりわけキリスト論のなかでは、この三つ目の「受難」の意味が軸となって、受動的感情のテーマがそこに組み入れられている。トマスは、多層的な意味を持つpassioというラテン語の意味の焦点について、受動的に生じてくる感情は、思い通りにはならない出来事、すなわち悲しみや怖れを伴う受難=苦難においてこそ、その鮮烈な力をありありと発揮してくる、と指摘している。だが、そうした破壊的・否定的な感情が発現せざるを得ない場面でこそ、人間の感情の、そして人間の本性自体の、決定的な善性と肯定的性格が浮き彫りになる、とトマスは捉えている。

 

トマスのキリスト論は、スコラ的方法に固有のさまざまな「区別」の積み重ねによって構成されている。その中でも最も基本的な区別の一つは、「単なる人間」と「真なる人間」との区別である。キリストは「真なる人間」であったが、「単なる人間」ではなかった、との捉え方がトマスのキリスト論の基本的な枠組みを成している。ここで注意しなければならないのは、「真なる人間」とは、「キリストこそ本当に人間らしい人間であった」とでもいうような価値的な概念ではない点だ。理想的な人間という意味ではない。キリストが、あたかも人間のような姿形をしていたが、本当は人間ではなかった、すなわち「にせものの人間」または「見かけ上の人間」にすぎなかったとの異端的な見解を否定して、「キリストが人間である」という命題の真実性を十全に認める際に使用されるのが「真なる人間」という用語である。他方、「単なる人間」とは、人間である以外の何ものでもない人間、すなわち、普通の人間のことだ。キリストは、たしかに、「見せかけの人間」ではなく、「新なる人間」であった。だが、だからといって、「単なる人間」であったわけではなく、それ以上の存在であった。キリストは、「新なる人間」であったとともに、「真なる神」でもあった。人間本性と神的本性の双方を有する存在だったのだ。「真なる人間」と「単なる人間」との区別は、トマスのキリスト論の全体に一貫した大きな枠組みを提供している。トマスによると、キリストは、神的本性を有することによって、普通の人間とかけ離れた超人間的存在になってしまったのではない。むしろ、人間本性の輝きが、罪や悪に妨げられずに、最も純粋に露になったのがキリストの生涯だとトマスは捉えている。そして、キリストの人間本性の輝きが最も顕著にあらわれた局面が、受難に直面して彼が抱いた「悲しみ」や「怖れ」といった感情の動きなのだ。

 

「私の願いどおりではなく、御心のままに」というキリストのゲッセマネの祈りの言葉は、直訳では「私が意志するようにではなく、あなたが意志するように」となる。ここに表われているのは、キリストの意志と父なる神の意志との葛藤だ。ところが、トマスは、キリストには真の葛藤や意志の対立は存在しなかったとの特徴的な解釈を下している。トマスは、苦しみや悲しみを抱えながらもそのような感情に打ち負かされずに否定的な状況に立ち向かっていく人間の状況打開力を表現したものとして、この祈りの言葉を解釈している。

トマスがキリストの意志について詳細に論じているのは、『神学大全』のなかでも「意志に関するキリストの一性について」においてである。「意志に関するキリストの一性について」という問題設定の中で解決すべき課題となっているのは、キリストのうちに複数の意志の存在を区別しつつ、同時に、それらの複数の意志が絶妙に統合されていた事実を示すことだ。まずこの問題の第一項では、「真の神」であり「真の人間」でもあるキリストには「神的な意志」と「人間的な意志」の二つが存在することが肯定される。それを踏まえた上で、第二項では第一項で肯定されたキリストの「人間的な意志」を理性の意志と感覚的欲求の意志の二つへの分節が肯定されている。さらに第三項では第二項で取り出された「理性の意志」が「本性としての意志」に区分されている。それでは、「本性としての意志」と「理性としての意志」との区別は、どのように理解すればよいのであろうか。この両者の区別は、キリストにおいてのみ成立していたのではなく、人間一般についてあてはまる話だとトマスは捉えている。

たとえば、幼児が注射をされるとき、その注射の目的や必要性を理解できない幼児にとって、痛みを与える悪として現れていると言わざるを得ないだろう。だが、注射の意義と目的を理解できる大人は、針を刺されることを、「健康のための注射」というより大きな目的手段連関のなかに明示的に位置づけなおすことによって全体的に善い出来事と受け止め直せる。これが「理性としての意志」のはたらきだ。人間にとって、自分の欲求や望みを直接無媒介的な仕方で実現で来る場面は、必ずしも多くはない。「水を飲む」のように欲求を持つこととその実現のあいだにほとんど距離がないような意志だけではなく、間接的媒介的な仕方で時間をかけてのみ実現できるような多くの意志を人間は持っている。「注射を受けて健康になる」といった意志の在り方だ。こうした意味で、トマスは、意志を抱くことがそのままその実現に直結するような意志の在り方を「本性としての意志」と呼び、それに対して、間接的媒介的な仕方で分節的に実現される意志の在り方を「理性としての意志」と呼んでいるのだ。そして、トマスは、「本性としての意志」と「理性としての意志」は別々の能力であるのではなく、同じ能力のはたらき方の違いだと繰り返し述べている。

人間が理性的存在者であることは、分節化された欲求構造を有しうることを意味している。何らかの困難に対する直面が、理性的に分節化された欲求構造の構築へと人間を促す。困難によって触発された「理性しての意志」の発動が、否定的な事態をもより大きなパースペクティブのなかで肯定的に包みこむような仕方で、人間を、状況全体の柔軟な打開へと導いていく。本書においては、トマスの哲学を「肯定の哲学」として捉えてきたが、それは単なる現状肯定の哲学ではない。自己を脅かすような否定的な性格を往々にして顕在化させている一つ一つの状況が潜在させている積極的な可能性を肯定することによって、現状の前向きな打開を可能にさせる哲学なのだ。それは単なる理想論ではない。既に顕在化しているもののみが現実なのではなく、実現しうる可能性をも捉えてはじめて現実の全体を捉えたと言いうる。状況を「完結した現実」と捉えるのではなく、将来の積極的な展開可能性をも含めてより根源的な仕方で捉えなおし、そのような認識を状況打開力へとつなげていくトマスの発想は、より深い意味で現実的な肯定の哲学といえる。

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