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2015年5月20日 (水)

竹内整一「『かなしみ』の哲学」(4)

第3章 「かなし」という言葉の歴史

日本語の「かなし」の語源、つまり、「かなしみ」の「カナ」とは、「…しかねる」の「カネ」と同じところから出たものであり、何ごとかをなそうとしてなしえない張りつめた切なさ、自分の力の限界、無力性を感じとりながら、何もできないでいる状態を表わす言葉だということである。現在では失われた「愛し」という用法でも、基本は「どうしようもないほど、いとしい、かわいがる」で、ここでもやはり、「…しかね」ているのである。つまり、何をしても足りないほどかわいがっている、あるいは、どんなにかわいがっても足りないという及ばなさ・切なさが「愛し」なのである。この「愛し」以外でも、現代では使われていない用法が、「かなし」には多くある。

一方、漢字の「かなしみ」についても見ておこう。もっとも一般的な「悲」と「哀」の成り立ちは次のようである。

 非は、羽が左右に反対に開いたさま。両方に割れる意を含む。悲は「心+非」で、心が調和統一を失って裂けること。胸が裂けるようなせつない感じのこと。

 衣は、かぶせて隠す意を含む。哀は「口+衣」で、思いを胸中におさえ、口を隠してむせぶこと。

このように「悲」と「哀」とでは、多少ニュアンスが違うが、しかし基本的に、一般的なSORROWGRIEFの意味で使われている。が、もう一点、大事な意義がそこにはある。それは、いずれも「あわれみ」の意味があるということである。

 

以上のように見てくると、やまと言葉の「かなし」には、今のわれわれには失われたさまざまな使い方があったことに驚かされる。今われわれは、かつてはかように幅広かった、また奥行きの深かった言葉の、ほんの一部の意味だけしか使っていないということである。こうした経緯をふまえて、柳田國男が批判をしている。

柳田は、「カナシ」、あるいは「カナシム」というのは、もともと感動がもっとも切実な場合、あるいは、見にしみ通るような「強い感覚」を表わす言葉であったのが、徐々にその意味内容が限定されてきて、今われわれかぜ標準語として、ふつうに使っている「かなしい」という用法だけになってしまったのだ、と言っている。柳田は、さらに「泣くことをことごとく人間の不幸の表示として、忌み嫌いまたは聴くまいとしたこと」への批判をしている。「今日の有識人に省みられておらぬ事実はいろいろある中に、特に大切だと思われる一つは、泣くということが一種の表現手段であったのを、忘れかかっているということである。言葉を使うよりももっと簡明かつ適切に、自己を表示する方法として、これが用いられていたのだということは、学者がかえって気付かずにいるのではないかと思われる」さらには、「いろいろの激情の、はっきりと名を付け言葉を設けることのできぬもののためにも、人間は泣いている。むしろ適当な言語表現がまだ間に合わぬがゆえに、この特殊な泣くという表現法を用意していたので、それで相手に気持ちが通ずるならば、実は調法と言ってもよかったのである」。

泣かなくなった代わりに、それを表現する言葉なり文化なりがあればいいが、まだそうしたものは確としてあるわけではないのだから、そうした点についても歴史をふまえてきちんと反省しておかなくてはならないと警告しているのである。

 

柳田と、ほぼ似たようなことを本居宣長が指摘している。宣長の指摘は、直接「かなし」に関してではないが、「あはれ」という類語についてのものである。

たとえば、みごとに咲いている花、あるいは、清らかな月を見たときに、「ああ、きれいだなあ」「みごとだなあ」と思う、そのような心が動くこと、それが「あはれ」ということだ、と。「あはれ」という言葉は、「ああ、はれ」であり、「ああ」も「はれ」も、ともに間投詞・感動詞である。ものごとにふれて「ああ」と感ずること、「はれ」と思うこと、それらは、すべて「あはれ」ということなのである。つまり、うれしいことでもおかしいことでも楽しいことでも、ああ、うれしいなあ、楽しいなあ、と感ずれば、それは「あはれ」である。時に、きれいなもの・立派なことに対して「あっぱれ」と賞することかあるが、この「あっぱれ」も「あはれ」と同じ言葉である。そして、そのように、当面する事柄のおもむきや風情をよく知って理解し、うれしいことはうれしい、かなしいときはかなしいというように、それぞれの場面ごとにしかるべく心動かすことができるのが「物のあはれを知る」ということなのである。もともと「あはれ」というのは、このような広がりを持つ言葉として使われていたと、宣長は指摘する。しかし、その「あはれ」が、「あはれをさそう」とか「あはれな行く末」といった、ある限定された意味の言葉としてのみ使われるようになってきていたという経緯がある。

こうしたい、こうなりたいという、そうしたプラスの思いにそったかたちでの情動、それはたとえば、うれしかったり、おかしかったり、楽しかったりする情動であるが、そこでの感動の深さは、あまり深くはないのだ。それに対して、「かなしき事、こひしき事」など、こうしたい、ああなりたいと思うのに、そうできない、かなわないという、願いに逆らうときの方が、心を動かされることはずっと深いのだ。そこでとくに、その深く感じる「かなしい」情動の方を、とりわけて「あはれ」というようになったのだ、という解釈である。

 

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