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2015年5月12日 (火)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(23)

「感情」と訳されるpassioが同時に「受動」を意味することからも分かるように、感情を抱くことは、自分の思い通りにはならないような仕方で他のものから心を動かされることを意味する。そうした意味で、完全な存在である全能の神には受動的な感情は存在しないとトマスは述べている。感情を抱くことは、外界の影響に無防備にさらされてしまう傷つきやすさを含意しているからだ。外界の出来事によって心を受動的に動かされてしまうことは、徹頭徹尾能動的な「父なる神」には存在しない「弱さ」であり、その意味で、「欠陥」と言われうる。それは、キリストが「真なる人間」であるかぎりで、すなわち我々普通の人間と同じ人間本性を共有するかぎりにおいて、それなしでは存在し得ないような「欠陥」なのだ。キリストにおいて、理性的存在である人間の存在の目的を適切に実現することを妨げる負の可能性が食い止められるような仕方で感情の運動が存在していたことによってこそ、「感情」の存在意義、感覚的世界との豊かな出会いを実現するという意義が、十全に実現されていた、とトマスは理解している。

「私の意志ではなく、あなたの意志を」というゲッセマネの祈りに関して、我々は「キリストの魂」という私秘的な場所での諸能力間の葛藤が秘かに行われていた、と解釈しがちだ。そうした見方では見えてこない次元が、スコラ的な霊魂論には存在している。「本性としての意志」と「理性としての意志」という霊魂の理性的部分のうちにおける「理性の意志」の二つの分節化は、単なる「内面的な」心理学的概念として捉えると、不毛な概念的区別としか思えないであろう。だがそれは、ゲッセマネのキリストにとって、この世界全体が、そして、差し迫った自らの受難という出来事が、どのように現象していたかを語り出すための区別なのだ。

否定的な仕方で自らに現象してくる事態を、人間は、感覚的欲求に現象してくるのとは別の仕方で、また、自然的欲求に現象してくる在り方を超えて、受け取りなおせる。否定的に現象してくる事態に正面から直面することによって、その否定性が、単なる否定性としてではなく、何らかのより肯定的な事態を実現するための不可欠な契機として現象しなおしてくるように、事態を受けとめなおせる。そのとき、その不可欠な契機は、単なる否定的契機ではなく、同時に、目的の善さが、その否定的契機自体のなかに分け持たれていることが見てとられるようになる。苦難を単に甘受するのではなく、苦難を含んだ出来事の全体を新たな欲求対象にしていくことができる。諸動物には存在するとは考えにくい、人間固有のこうした柔軟な状況対応力こそ、「理性としての意志」という概念で語られている内実なのだ。人間は、理性的な分節化の能力を有していることによって、この世界のなかに新たな欲求可能性を読み込む力を持ちえている。「本性としての意志」によっては欲求対象となりえないことが、「理性としての意志」によっては、欲求対象に含まれうる。「理性としての意志」にとってのふさわしい在り方は、「幸福」を必然的に目指す「本性としての意志」の直接性を超えて、より分節された目的手段連関のなかで事態を捉えなおすことによって、より具体的かつ重層的な仕方で状況を把握しつつ、善を達成していくことなのだ。それ自体としては欲求されるはずのない苦い物質が、健康になるになるためという目的手段連関のなかに置きなおされることによって、欲求されるものとして、新たな仕方で分節化されて立ち現れてくる。そのとき、その薬は、健康という目的を達成するための必要悪というよりは、むしろ、健康という善を達成するためのかけがえのない手段として、目的の善さを反映させながら、それ自体、善きものとして現象してくる。長らく薬の開発を待ちわびていた難病患者に対して薬がどのように現れるかを考えてみれば、そのことは明白であろう。そして、そうした新たな立ち現れは、人間の側の主体的な目的手段連関の構築に基づいたものでありつつも、だからといって恣意的なものではない。主体的な目的手段連関の構築によってこそ、この世界自体がもともと有していた豊かな欲求可能性が、欲求者の在り方に応じて新たな仕方で分節されてくる構造になっている。こうした意味で、理性は、単に感覚的欲求をコントロールする力でもなければ、普遍的・抽象的な概念を認識する力でもなく、この世界の欲求可能性が新たな仕方で分節的に立ち現れることを可能にさせる能力だと言えよう。達成されるべき善が状況に応じて自在に分節化されて現れることを可能にさせている「理性的な意志」の柔軟な状況対応能力こそが、理性的存在である人間の有している真の卓越性なのであり、キリストはそうした卓越性を最高度に実現させていた、とトマスは捉えている。

ゲッセマネにおけるキリストの複合的な意志の運動を、神に従おうとする善い意志と困難から逃避しようとする悪しき意志との葛藤として捉えるのではなく、様々な意志のそれぞれが、それぞれの領分を守りながら、各々にふさわしい仕方で善を欲求していたとの極めて特徴的な解釈を下すことによって、トマスは、心身複合体である人間存在の全体を肯定的受けとめなおすことのできる視座を切り拓いている。これにより、「単なる人間」である我々にとっては、受動的な感情を通じたこの世界との関わりは、「無感情性=不受動性」という在り方では得ることのできない豊かな在り方を実現させる契機となる。さらに、キリストにおいては、不受動的な様態で受動すること、すなわち、「理性」が感情によって支配されることがない仕方で感情の運動を通じた感覚的世界との出会いを経験することが可能になっていた。そして、それは「単なる人間」である我々とは全く無縁な在り方なのではない。感覚的欲求や「本性としての意志」の固有で積極的な役割を認めつつ、その負の可能性が食い止められるような在り方が、我々の模範ともなる仕方で提示されている。「本性としての意志」においては、人間は、単純に魅力的なものに引き寄せられ、好ましからざるものから遠ざかる。状況の関数として自ずと動いてしまう。それに対して、「理性としての意志」においては、人間は、自ら能動的に状況を分節化する。自分の周囲の状況を単に反応するだけではなく、何かを通じて他の何かを達成するという意味での理性的な対応を為すことができるとの自覚が生まれてくる。そして、そうした能動的な分節化の果てに開示されてくるのが「受難」という受動の極みの選択肢だという点に、キリストにおける「理性としての意志」の特徴がある。「感覚的欲求の意志」や「本性としての意志」にとっては不本意な事態に直面しても、その否定的な事態に完全に巻き込まれたり圧倒され尽くしてしまうことなく、それをも包み込むような仕方でより大きな善へと向かいうる状況打開力─「理性としての意志」に基づいた柔軟な反発力─が人間には元来備わっている事実を、ゲッセマネにおけるキリストの意志の在り方は指し示している。それは、「単なる人間」である我々にとっても無縁な在り方ではない。ちょっとした不調和、感覚的欲求の微細なぶれが、蟻の一穴のように、人生という構築物全体を台無しにする可能性がある。逆に、否定的な事態に直面しても、それを自己肯定感の全体へと波及させないような柔軟な反発力が、元来備わっている。我々のなかに埋もれているそうした力を顕在化させていくことが求められており、またそれが可能であることを、ゲッセマネにおけるキリストの姿は、我々に指し示している。

キリストの精神がそうした回復力・逆境対応力を安定的・持続的に保ちえたのは、「単なる人間」ではなく、同時に神であり、キリストのうちなる「人間本性」が、その「神的本性」と常に不即不離の仕方ではたらいていたからであった。キリストの「人間本性」は、「神的本性」と融合も分離もせずに一致し、「神的本性」の真の姿が罪による妨げなしに輝き出ることが可能になっていた。否定的な感情の動きによって理性が圧倒されてしまう負の可能性から守られていることによって、キリストの「人間本性」は、「人間本性」が有する肯定的な可能性を十全に発露させることができていた。キリストの受肉と受難は、単なる「神秘的」な出来事に過ぎないのではない。神の受肉であるキリストは、人間にとってどのような在り方が可能なのかを「単なる人間」である我々に伝達する、すなわち、人間本性の真の姿を明示する存在だ。そして、キリストの受難は、人間本性の根源的な善性を逆境のただなかで明示するものとして、人間に、自らの内的な善性を根源的な仕方で覚知させるものなのだ。

 

最後に結論の章になりますが、あと興味のある方は、本著作を直にあたることをおすすめします。

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