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2015年5月 8日 (金)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(19)

情念に関わる言葉が、「意志の単純な運動」として神に使用されうるさいには、「愛」や「喜び」といった肯定的な情念の場合と、「悲しみ」や「怒り」のような否定的な情念の場合とでは、大きな違いがある。そのことを、トマスは、我々にとってより身近な「受動的感情」の構造と対比させながら説明している。

感覚的欲求の感情においては、質料的要素と形相的要素を区別できる。質料的要素とは身体的変化のことであり、形相的要素とは「欲求」のことである。例えば、「怒り」の場合には、素材としての質料的・身体的は「心臓周辺の血液の沸騰」である。他方、「怒り」を「怒り」たらしめ、「怒り」という現象の説明原理を規定する形相的要素は「復讐の要求」である。しかるに、形相的要素のうちには、「不完全性」を含意するものとしないものがある。不完全性を含意するのは、欲望や悲しみにおける形相的要素であり、不完全性を含意しないのは、愛や喜びにおける形相的要素だ。「欲望」は、「所有されていない善」に関わっている。欲望は、未だ実現していないからこそ欲望なのであり、その意味で、未達成・非所有という否定性・不完全性を含意している。それに対して、「善が気に入ること」と定義される愛の場合には。何の欠如性・否定性・不完全性も含意されていない。ところが、形相的側面において不完全性を含意しない愛や喜びという情念であってさえ、その質料的側面においては神にはあてはまらない。ましてや、形相的側面において不完全性を含意する「欲望」や「悲しみ」や「怒り」といった情念を本来的な意味で帰属させることはできない。これらの不完全性を含意する情念が神について語られるのは、「結果の類似」ゆえの「比喩的な仕方において」でしかない。

トマスによると、「我々の知性は、被造物からから神を認識するのだから、被造物が神を表現しているかぎりにおいて神を認識する」。そして、我々は、そうした認識に基づいても被造物に対して使用する表現を、その創造者である神についても適用する。その際、被造物の何らかの完全性を含意する表現は、その完全性の程度を最大化する仕方で神について使用できる。たとえば、「在るもの」「善きもの」「生けるもの」といった名称である。これらは、「固有な仕方において」神について語られる。神は「最大限に在るもの」「最大限に善きもの」「最大限に生けるもの」なのだ。情念に関わる言葉に関して言えば、「愛」や「喜び」といった完全性を含意する情念は、その完全性の程度を最大化する仕方で、固有な意味において神について使用できる。神のうちには、最も大きな愛や最も大きな喜びという肯定的な感情が存在しているのだ。これに対して、「神は獅子である」といったような、物体的に存在するものに基づいた表現は、「神は最大限に獅子である」といった意味では解されえない。物質的なものは、大きさに関しても持続性に関しても限界があり、その意味で不完全性を含意している。そして、不完全性を含意しているかぎり、「完全性」をその本質とする神に固有な仕方においてあてはめることはできず、「比喩的な仕方において」神の力強さや堅固さを意味していると解されなければならないからだ。感情に関わる表現に関して言えば、「欲望」や「悲しさ」や「怒り」といった不完全性を含意する情念は、「結果の類似」ゆえに神について使用されているものと解されなければならない。

聖書の中では、たしかに、「神の怒り」という表現が使用されている。だが、トマスによると、そうした表現が存在する。だが、トマスによると、そうした表現が存在するからといって、実際に神のうちに「怒り」という情念が存在するわけではない。「受動的感情」としての「怒り」が存在しないのはもちろんのこと、「意志の単純な運動」としての能動的・自発的な「怒り」も存在しない。なぜならば、神のうちに「怒り」が存在すると認めると、神のうちに不完全性が存在すると認めることになってしまうからだ。それでは、「怒り」を神に述語づけている聖書の言葉はどのように解釈できるのだろうか。人間は、「怒り」を抱くと、そのきっかけとなった相手に対して「報復」である「罰」を与えようとする。「怒り」が「原因」となって、「罰」という「結果」が生じてくる。「罰」は「怒り」の「徴」なのだ。こうして、「怒り」と「罰」という二つの概念は人間の場合に非常に密接に結び付いているので、人間の言葉によって不完全ながらも神について語ろうとするときに、「怒り」という分かりやすい表現を使うことによって、実際には、それと密接に結び付いた「罰」そのものが意味されているのだ、とトマスは述べている。これが「結果の類似」に基づいた比喩的な表現の成立根拠だ。神が悪人に「罰を意志する」際に起こっているのは、悪人のふるまいによって心を揺り動かされてどうしようもなく「怒り」が煮えたぎるといった事態ではない。そうではなく、罰の実施が正義の秩序の維持のために必要だとの観点から、正義の維持のための手段である罰の実施を正義の秩序への愛に基づいて意志する神の在り方が、比喩的な仕方において神の怒りと呼ばれている。それは我々の認識によってより身近な対象であり、感情に関わる我々の言葉がそこに由来する人間の場合に、罰が怒りの徴となっているからだ。

このように、情念のうちには、「受動的感情」と「意志の単純な運動」の両方が存在するが、神のうちには「受動的感情」は存在せず、「意志の単純な運動」のみが存在する。だが、人間の感情と神の情念の相違はそれだけではない。人間において「受動的感情」として存在する諸情念のすべてが、一対一で対応するような仕方で、神のうちにおいて「意志の単純な運動」として存在するのではない。神に本来的な意味で存在するのは、愛や喜びといった不完全性を含意しない情念のみであって、欲望や怒りのような不完全性を含意する情念は、比喩的な仕方において語ることができるのみなのだ。

トマスのこの論述で注目に値するのは、「欲望」が不完全性を含意する情念に分類されている点だ。「欲望」は「善」との関係から「愛」「喜び」と並んで「肯定的な情念」として分類されていた。つまり、ここで「肯定的か否定的か」という分類と、「不完全性を含意するかしないか」という分類は、区別しうる。つまり、「欲望」は「不完全性を含意する肯定的な情念」なのである。人間が欲望を抱くのは、欠如を抱えているからだ。人間が自己充足的な存在ではありえず、自らの外にある「善」との関係性を構築していく必要があるからこそ、人間は欲望を抱く。それに対して、自己充足的な存在である神は、自らの外にある「善」との関係性を構築していく必要性に促されて行為するのではなく、純粋に内発的で自発的な愛に基づいて被造物との関係構築を実現している。もしも、人間が、神のように完全な存在になろうとして、不完全性を含意する情念である欲望をできるかぎり抱かないように努力するならば、その人は、より完全なるどころか、より不完全な存在になってしまうであろう。自らの欠如を補ってくれる他者との関係構築に関する欲望を失ってしまえば、その人の人間関係は徐々に貧困化してしまうであろう。また、食欲や金銭欲のような基本的な欲望を抱かないようになってしまうならば、その人はより完全な存在になるどころか、基本的な生存すら危ぶまれるほどに不完全な存在に成り下がってしまうであろう。人間は、自らが自己充足できない存在だと認め、健全な欲望を抱き、欠如を充たしていくことによって、はじめて、充実した生を送り続けていくことができる。不完全性を含意する欲望は、克服の対象となるどころか、大切に育んでいくことができる。不完全性を含意する欲望は、克服の対象となるどころか、大切に育んでいくべき心の動きの一つなのであり、「善」との関係構築を可能にさせる肯定的な情念だと言える。人間は、自らの不完全性を否認することによってではなく、それを受け容れることによってこそ、より完全な存在になっていくこともできるのだ。

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