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2015年5月21日 (木)

竹内整一「『かなしみ』の哲学」(5)

第4章 他者に向かう「かなしみ」

きに概観した「かなしみ」の問題点とは、われわれは、なぜ本来否定的な感情である「かなしみ」に親和し、それを感受し表現することにおいて、そこにむしろ、ある種の安定なり救いなりを見出しえていたか、ということである。まずは、となりの他者への倫理感情として発動する「かなしみ」を考えてみよう。独歩の言い方でいえば、「同情の哀感」という「かなしみ」のあり方である。

たえがたい「かなしみ」にあるとき、人はただぶつぶつとつぶやくだけではなくして、思わず知らず、声を上げて「ああ、かなしい、かなしい」と言うものなのだ。それはとどめようと思ってもとどめがたく溢れ出てきてしまうものであり、そのほころび出た言葉は、自然と長く延びていき、あるかたち(あや)をそなえたものになっていく、それが、つまりは歌だと、宣長は言う。それは、とどめようとしてもとどめられない、という意味で、「おのずから」「自然に」そうなるものだと説明されている。そうすることによって「かなしさ」を晴らすことができるのだし、あるいはこのうえなく慰められるものなのだというのである。

柳田國男は、物語を語れ、一人の物語を創れ、というとを提唱している。とりわけ死という事態を前にした時、それまでの人生でバラバラであった出来事を一つのストーリーにまとめて物語にし、「ああ、自分の人生ってこういう人生だった」と思いえたときに、人は、みずからの死を受け容れやすくなるのだというのである。歌にしても物語にしても、ある思いを表わすということである。そうした表出において人は、思いを何らかのかたちにまとめあげることができ、そのことによって、心を慰めること、「かなしみ」を晴らすことができるということでもある。

宣長はさらに、このように表出しても心が晴れない場合があると、続けて言う。たえがたい思いは、ただ独り言で言い続けても、なかなか心の晴れないことがある。そのとき、その思いを人に語って聞かせれば、心の晴れることがある。さらにその人が「ほんとうにおつらいでしょうね」などと共感してくれるならば、いよいよこちらの心は晴れるものなのだというのである。それは、すでに一種の救いでもある、と。国木田独歩は「同情の哀感」について、「痛み」それ自体というよりも、「痛みなでさする」他者がいることによって、人は泣く。泣き、「かなしみ」を訴えることによってこそ、それに耐えうるというのである。それは、「人情の自然」であって、人と人との「同情」が「相発露、融化感応する」ことなのである。「共-苦」あるいは「共-悲」としての「かなしみ」ということができるだろう。

 

しかし、「同じように感じる」「共に感じる」とは、その感じるもの同士の感情が、まったく「同じ」ということではない。「同じように感じる」と「同じに感じる」では微妙に違うし、「共に感じる」ことには、その感情がまったく「同じ」であることがかならずしも前提ではない。同一音でなければ共鳴しないわけではない。そもそも、まったく「同じ」であるならば、「自分のことのように親身になって」とか、「思いやる」という想像力も必要ないことになる。「同じように」の「ように」、「共に」には、そうした微妙なニュアンスを読み込んでおかなければならない。これに関しては、日本人の「思いやる」倫理を代表する「やさしい」という感情に触れる必要がある。

「やさし」とは、もともと「痩せる」の「やせ」と同じところから出てきた言葉であり、「見もやせ細る思いがする意」がもともとの意味である。「やさし」には、そうした弱さ・傷つきやすさ・恥ずかしさといったものが、その原点にある。そして、それが転じて「遠慮がちに、つつましく気をつかう意。また、そうした細やかな気づかいをするさまを、繊細だ、優美だ、殊勝だと感じて評価する意」へと変わってきて、さらにその延長に、今われわれが使う「親切だ」「情け深い」というような意味合いが中世の終わりから登場してきたという歴史を持っている。

ところで、そうした歴史をになってきた「やさし」や、類語の「情け」には、ある種の作為性・演技性が含まれている。その点は「思いやる」ということにおいて大事なポイントになっていると思う。まずは、「情け」の方から見ておくと、「情け」という言葉は、「為す+け」ということで、「け(げ)」とは、見た目・様子の意の接尾語である。さびしげ、楽しげの「げ」と同じで、そう見えるということである。つまり、「情け」とは、為すように見えるということであり、「他人に見えるように心づかいするかたち」の意味で、したがって「表面的で嘘を含む場合も」あるとされていることばである。しかし、だからといって、それは偽善だと否定されてきたわけではない。むしろ古来、「情け」は、日本人の理想的人間像の要件の一つであった。

その「情け」は、かならずしも「まことの情」とか「真情」などといわれるものではなく、その場、その時においての「他人への心づかい」である。あるいは、いってしまえば嘘であるようなことも、そこには当然ふくまれている。場をふまえ相手をおもんぱかって、そうしたことを「よく言ひつづけ」うることが、光源氏のような人々にとっての「情け」であり、それはそれとして大事な「倫理」であり「文化」でもあったということである。それを、嘘だから嘘だと批判することは無論できるし、またそうすべき場合もあるだろうが、そうでない場合もあるということである。「誠」や「正直」だけが、倫理なのではない。このような「情け」のあり方は、そのまま「やさし」のものでもある。「やさし」といわれるものの中にも、そのように多少とも無理してやってやること、演じるということが含まれている。また、それそうしたことがそれ自体大切な人間関係をつくり保つということである。以上のような「やさし」「情け」の倫理にふくまれている、いわば距離感は、さきに述べた「同じように感じる」「共に感じる」というときの大事な距離感の問題にかかわっている。人は、簡単に「同じ」ではありえないのであって、そこを安易に「同じ」としてしまうとき、偽善や押しつけがましさといったことが起こってくる。「同情するな」「情けはいらない」「あわれむな」といった拒否反応は、それを感じとったところに生じるのである。

 

「同情」についての「同」「共」については、以上の点を確認したうえで、宣長の「物のあはれ」論や独歩の「同情の哀感」の「かなしみ」論にもどりたい。その「かなしみ」には、他者への表現ということを通して、他者に聞かれ、受けとめられることにおいて、そこにある呼応が生まれるという経緯があった。ある倫理性の成立であるが、九鬼周蔵は、そのことを次のように説明している。

この世のあらゆるものは有限であり、かぎりある自己とかぎりある他者とから成っている。「もののあはれ」とは、そのかぎりあるということから、おのずから湧いてくる哀調、「かなしみ」の調子のことである、と。自分一個の「哀れ(かなしみ)」が、他者への「憐れみ」へと互いに連動・制約し合いながら成り立ってくるゆえんがそこにあるというのである。つまり、かぎりある自己の有限性と、かぎりある他者の有限性とが、「ああ」と呼びかけ、「はれ」と呼びかけられる、そうした感情の展開として「あはれ」と「あはれみ」はつながっているということである。九鬼は、そうした有限性のあり方を、とくに偶然性というあり方の中に見出す。われわれは、確固とした意味や必然性をもって生まれてきたのではない。人との出会いも、今こうして共に生きていることにも、他のいろいろにありうる可能性のほんのひとつの現実としてそうであるにすぎないのだ、と。そうした偶然性というものをぬきに、人と人との倫理性を考えることはできない。それぞれが偶然的な出来事としての自他の存在や、出会いというものをそれとして受け入れ、それを大切に生き抜くことによって、そこに人と人とのかかわりというものをあらためて根源的に考え直してみようとしたのである。

自分一個の「あはれ(かなしみ)」が、他者の「あわれみ」へとつながる経緯は、「いたむ」という言葉が、「いたましい(いたわしい)」へ、そして「いたわる」という言葉へとつながっていく経緯と対応している。「いたましい(いたわしい)」という言葉は、「いたむ(痛む)」の形容詞化したもので、「本来、自分自身の肉体や精神の苦痛について言」っていたのが、やがてその「対象を、自己以外の相手や第三者に広げて、そういう人たちのふりかたを見て、自分が精神的苦痛を覚えたり、心を労したりすることを言うのにも、用いられた」とされるものである。現在では「いたわしい」は、後者の意味でのみ使われている。さらには、そうした「いたわしく感じる行動・動作をいうのが「いたはる」という動詞である」。つまり、「いたましい(いたわしい)」という思い、「いたわる」という営みは、その根底に、自己自身の「いたみ」があるのであり、その「いたみ」が相手の「いたみ」と呼応するということである。

「いたむ」という言葉自体に、「いたましさ(いたわしさ)」や「いたわり」の意味がふくまれていたように、じつは「かなし」という言葉自体にも、すでに、他者の「かなしみ」へのまなざしがふくまれている。つまり、「かわいそうだ」「哀れだ」の意味で使われているということである。

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