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2015年5月 2日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(13)

スコラ的方法の活用という観点に着目しながらトマスのテクストを読解することによって、スコラ的方法の活用が、どのような仕方で、「感情」に関するより繊細でバランスのとれた考察を可能にしているのかを明らかにしたい。

トマスは異論の提示の後、主文の中で主張している。その中で注目すべきことは、感情の対象が、感情にとって、「形相」のような位置にあるとされていることだ。感情の対象という言葉を聞くと、感情を抱く人間の心とは離れたところにある何ものかを我々はイメージしがちだが、そうではない、とトマスは述べているのだ。アリストテレスに由来する「形相」という概念は、「質料」と相関的に用いられる対概念である。世界のあらゆる現象をこのニ原理の相関関係によって説明するアリストテレスの立場は、「質料形相論」と呼ばれている。簡単に言えば、「形相」は限定する原理であり、それに対して、「質料」は限定される素材のようなものだ。そこでは、感情の対象抜きに感情はありえない。対象は感情を抱く主体から切り離されたところにあるのではなく、感情を抱く主体の、そして感情それ自体の本質的な構成要素なのだ。感情は、単なる何らかの内面的な状態にすぎないのではなく、外部の状況・もの・人─対象─との関係を、本質的な構成要素として含みこんでいる。何かの対象に感情を抱くことは、その感情の対象が、自分とは無関係な、自分から切り離された風景のようなものではなくなり、自分が誰であるかを語るためには、その対象との関係を含みこんだ形での自分の在り方を新たに記述しなおさなければならないような仕方で、その対象が自分の心の内奥に構成要素として入り込んでくることだ。「感情」を抱くことは、「受動」的な仕方で自己の境界が何らかの対象の影響によって揺るがされ、その対象が自己の構成要素にまでなるという事態なのだ。ギリシャ語やラテン語では、「感情」を意味する語と、「受動」や「受難」を意味する語は、同一の単語である。日本語だけで考えると一見無関係にも思われる「感情」と「受動」という二つの概念が同一の単語によって捉えられているという事実は、とても興味深い。「感情」と「受動」という二つの事柄の間に密接な関係があるからこそ、一つのラテン語で表現されているのだということを、我々はトマスの論述から読み取ることができる。「感情」は単に内発的に生じてくるのではなく、外界の事物や人物や出来事のはたらきかけを「受動」することによって生じてくるのだ。人間が外界から被る受動には、「身体の受動」と「魂の受動」があり、このうちの後者が「感情」と呼ばれる。

個々で注目すべきは、受動的に発生することをその基本的な特徴にしている「感情」が「行為=活動」として捉えられている事実だ。通常我々は「能動」と「受動」を対立させて捉え、更に「行為」や「活動」は「能動的」だと考えがちである。「能動的」行為や「能動的」活動と殊更に修飾せずとも、「行為」や「活動」は「受動的」なものではなく「能動的」なものだと決めてかかっている面がある。だがトマスによると「受動」的に発生する「感情」もまた一つの行為であり「活動」なのだ。

それでは、どのように意味で、感情は「行為=活動」だと言えるのであろうか。トマスにおいて、「行為=活動」とは、何らかの能力が現実化している状態を意味する。人間が感情を抱くことは、外界の何ものかのはたらきかけを受動することによって、受動する人の感覚的欲求能力が現実化へともたらされることに他ならない。感情を抱くことは、外界のものが自らの心の構成要素となるまでに深く入り込んでくることを意味するのだから、たしかに、自己の心の安定をかき乱す出来事だと言える。だが、そのような或る種の危険を孕んだ対象との受動的な出会いによってこそ、我々の心は賦活され、新たな能動的行為のための原動力も与えられていく。その意味で、「受動的」な感情それ自体が、我々の能力を現実化する一種の「行為」であり、「活動」だと言われているのだ。

感情は、人間の心の中から自発的に生まれてくるというよりは、むしろ、対象からのはたらきかけを受動することによって生まれてくる。対象というと、まず人間が何らかのものに着目して、そのものへと能動的にはたらきかけることによってそれを対象化する、といったイメージを我々は抱きがちだ。だが、それとは逆に、トマスが述べているは、対象の方が能動的にはたらきかけて我々の心を差異化し現実化させてくるという話なのだ。それゆえトマスの感情論は、対象によって差異化される私が、私の心を差異化し現実化させた対象を概念的に腑分けして区別していく、という構造になっている。

感情発生の経緯に関するこうした説明を踏まえると、対象が感情発生の原因だといえるようにも思われる。ここでトマスの「怖れの原因について」の議論を見てみよう。怖れの対象は、恐れという感情から切り離されているのではなく、むしろ恐れという感情の中核的な構成要素として、怖れの原因であるというよりは、怖れの形相なのである。では怖れの原因はどのように特定されるのであろうか。怖れの場合には、対象は、容易に抵抗できない切迫した未来の悪と評定されるものである。それゆえ、怖れの対象の原因は、作用因─怖れという感情が或る人の心の中に生まれてくるように作用しはたらきかけるものという意味での原因─の観点から言えば、こうした悪を課すことのできるものである。例えば、子供にとっては、罰を課しうる親が、作用因としての怖れの対象の原因ひいては怖れそれ自体の原因だ。それに対して、質料的態勢─怖れという感情が発生するために必要な主体側の準備状態─の観点から見れば、それによって、或る人が、或るものがその人にとって悪であるように態勢づけられるところのものが怖れの対象の原因ひいては怖れそれ自体の原因である。そしてこのような質料的態勢の観点から言うと、愛が怖れの原因である。我々は何らかの善を愛しているからこそ、その愛している生命という善を脅かしてくる未来の悪を怖れる。生命という善を愛しているという質料的態勢があってはじめて、生命を脅かしてくる作用因は怖れの原因たりうる。その意味で、愛が怖れの原因なのだ。

我々は、何かに好感を抱くから、すなわち何かを愛するからこそ、それを手に入れたいという欲望を描く。そして、愛する何かを手に入れることができれば、喜びを抱くし、手に入れられなければ悲しみを抱く。肯定的な感情であれ否定的な感情であれ、すべての感情は、愛を基盤にしてはじめて生じてくる。怖れに関しても事情は同様だ。

第一章や第二章で述べたように、諸感情の連鎖の構造は、指摘されてみると或る意味当たり前だが、トマスによる区別の明示が為されるまでは我々にとって必ずしも自明ではない、という性格を有している。そして、当たり前とも言える区別の積み重ねを通して、トマスは、けっして当たり前ではない命題を取り出してくる。それは、愛という感情が、愛以外のすべての感情の原因である、という命題だ。

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