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2015年5月 9日 (土)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(20)

トマスによると、受動的に発生する「感情」もまた一つの「行為=活動」である。様々なものからのはたらきかけを「受動」し、感情を抱くことによって、我々の心は、内発的な運動のみによっては得られないような仕方で、多様な外界の事物・人や出来事によって豊かに触発され、活力を与えられていくことができる。人間の心は、受動的感情における他者や他の諸事物との出会いによって活性化される。我々の生をその深淵において不安定化させる感情が、まさにそれゆえに我々の生に豊饒な可能性を与えていくというダイナミズムがある。トマスによると、存在者は、「善さ」や「完全性」を欠いている程度に応じて、自らの存在の保持と発展のために種々の関係性を取り結ぶ必要があり、また、「善さ」や「完全性」を有している程度に応じて、自在に豊かな関係性を取り結ぶことができる。前者を「欠如に基づいた活動」、後者を「充実に基づいた活動」と名付けることができよう。神に当てはまるのは「充実に基づいた活動」のみである。他方、人間には「欠如に基づいた活動」しか存在しないわけではない。「欠如に基づいた活動」と「充実に基づいた活動」の両者が絶妙に結び付いて存在しているところに、人間存在の特徴が見出される。感情論の文脈に応用すると、人間が「受動的感情」を抱くことは、「欠如に基づいた活動」に他ならない。人間は、外界との関係─他者や他の諸事物との関係─から切り離されて、自己自身のみで自足することができない。他者や他の諸事物との関係によって満たされなければならない欠如を原理的に有している。他者や他の事物との関係を必要とする弱さを、自らの存在そのもののうちに抱え込んでいる。そして、他者や他の事物からの働きかけを被ることによって、様々な「受動的感情」は「欠如に基づいた活動」なのだが、だからといって「受動的感情」を抱くこと自体が好ましからぬことなのではない。人間は、「受動的感情」のなかで構築される外界との豊かな関係構築を通して形成される自己の活力の高まりに基づいて、今度は、自ら能動的に他者や他の事物との関係構築に進んで行き、「意志の単純な運動」としての「愛」を抱けるようになる。とはいえ、このような能動的な「意志の単純な運動」としての「愛」に関しても、自らの意志とは無関係に存在している諸対象の魅力から触発を受ける受動的な要素は人間の場合には完全に抜きにはできない。「受動的感情」と能動的な「意志の単純な運動」が切り離しがたく存在しているのが、感覚的世界に存立せしめられている人間の本質的な在り方なのである。

 

このような人間における情念の重層的構造─受動的な「感情」と能動的な「意志の単純な運動」との絡まり合い─と対比させるならば、神における「受動的感情」の欠如─神の「不受動性=無感情性」─という伝統的教説は、この世界の苦しみや不完全性に無関心で超然とした神の在り方を意味しているのではないことをトマスのテクストは浮き彫りにしている。

「自存する存在そのもの」である神は、「純粋現実態」であり、常に既に十全な仕方で活動しているから、受動的に変化させられることによって、更に現実的・活動的になることはありえないし、またその必要もない。神は、あまりにも活動的、あまりにも能動的なので、どのような変化も、神をより能動的・活動的にさせることはできないのだ。神とは異なり、「受動性」と「能動性」、そして「可能性」と「現実性」の複合体である人間は、或る時には活動的になり、別の時には非活動的になる。また、或る時に受動を通じて不安定になったり、善からぬ方向へと動かされたりするが、他の時には受動を通じてこそ達成されるより完全な在り方に基づいて、他者への充実した愛を能動的に発動させたりもする。だが、神は、常に変わらぬ在り方で、純粋な現実態そのものとして、世界の諸事物との関係性を積極的に取り結ぶことができる。神の「不受動性=無感情性」「不変性」という属性は、一見、否定的な属性であるようにも見受けられるが、実際には、神が「純粋現実態」であり「自存する存在そのもの」であるという究極的に積極的な事態によって基礎付けられた肯定的な属性なのだ。こうして、神の不受動性・不変性と神の愛や関係形成能力には対立があるどころか、むしろ、神は、不変な仕方で不受動的=無感情的であることによってこそ、自らの豊かさに基づいて、安定的・持続的に他者や他の事物に能動的に関与することが可能になっている。神は、欠如のない徹底的な自足的存在であることによってこそ、徹底的に関係的な存在たりえているのだ。「自存する存在そのもの」や「純粋現実態」や「不受動性」「不変性」といった、一見自己完結的・静的な属性であるかのようにも見える伝統的な神の諸属性は、神を静的で非活動的なものとして表現するどころか、徹頭徹尾動的に世界と関与する神の在り方を人間的言語に可能なかぎりで鮮やかに表現している。

このように、我々は、不受動的=無感情的な神の在り方について語ることを通じて、それと照らし合わせながら、自らの受動的=感情的な在り方を、より広い視野のなかで位置づけなおすことができる。本質的に不完全で受動的で弱い存在である人間は、弱さ、受動性、不完全性を無理に否定するのではなく、容認し、受け容れることによってこそ、より完全で能動的で強固な在り方へと自らを柔軟に高めていくこともできるようになるのだ。

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