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2015年5月 6日 (水)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(17)

第2部 神学という光源

人間の哲学的探求は、個人の心という孤独な空間のなかにおいて徒手空拳で行なわれるものではなく、他者の言葉に触れることによって賦活される。トマスにおいて、そのような他者の言葉は、アリストテレスやアウグスティヌスと言った哲学者の言葉であるのみではなく、何よりも、聖書の言葉であった。

キリスト教神学の中では、伝統的に、聖書の言葉は「神の言葉」として受け止められてきた。ここで気をつけなければならないのは、神の言葉、人間が既に抱いていね既存の問題に対して安直な解答を提供するものとして機能するのではなく、人間に対して新たな問いを突きつけてくるものと受けとめられていた点だ。

神の言葉は、その言葉と出会う人間に対して、心の安定や知的な満足の拠点として安住しうる固定的な何かを与えるのではない。それどころか、人間は、既存のものの見方を揺り動かされるような衝撃を与えられる。人間の側の思いや把握を超えて働きかけてくる「神」と呼ばれる他者の語りかけに直面して、人間は、「答え」を与えられるどころか、新たな「問い」を与えられる。自らに語りかけてくる何者かをとりあえず「神」と呼ぶことにしても、その「神」がどのような存在であるのかは、いっこうに明らかでない。「答えとしての神」ではなく、「他者としての神」「問題としての神」が、聖書に表現された神の基本的な在り方なのだ。そして、人間は、「神の言葉」との格闘のなかで、既存の世界理解や自己理解を相対化する知的探求へと促されていく。

トマスにおいて「信仰」とは、「希望」「愛」と並ぶ「対神徳」─人間を神との関係において完成させる徳─の一つである「徳」とは、人間の「能力」を完成させるものであり、それぞれの徳は、どのような能力を完成させるのかという観点から、人間論の中に位置づけられている。その際、「意志」を完成させる徳である希望や愛と異なり、信仰は「知性」を完成させるものとされている。信仰は、知性と異質なものであるどころか、知性を完成させる徳として、最初から知性とのつながりにおいて把捉されている。「信仰の理解」というスコラ学の標語は、あたかも、非理性的・非論理的な信仰に対して、外から理性的な概念装置を適用することによって、或る程度、信仰を合理的・論理的な理解へともたらそうとしている、という印象を与えがちだ。だが、トマスの場合、信仰は非合理的なものと捉えられていない。「知」と区別され対比される「信仰」自体が、知的性格を有するものとして語られている。

現代では、「信仰」は非理性的・反理性的なものと捉えられることが多いが、トマスのテクストには、そういった考え方とはきわめて異なった信仰理解が現れている。「神」という他者の言葉は、理性と反するどころか、理性的な哲学のいとなみに新たな探究の領野を開示する契機として機能しうる。それは、理性の徹底的ないとなみが、理性のいとなみであるままに、理性を超えたものへと開かれていくという自己超越的な在り方を可能にするものなのだ。啓示の言葉をも探究の視野ののなかに収めることによって、知的探究は、非理性的で硬直化したものになってしまうどころか、新たな刺激と探求材料を与えられて豊かになる。トマスにおいては、この世界を超えた神について知ることは、我々の眼前にあるこの感覚的世界を知ることとかけ離れた作業なのではない。感覚的世界に関する豊かな認識を得ることが、神についての知へとつながり、翻って、神学的な洞察という光のもとで、この感覚的世界の構造が、新たな観点から浮かび上がってくるという生産的な循環構造が成立している。

トマスは、理性や感覚に基づいた万人に通用しうる仕方で人間本性に対する肯定的な態度を根拠付けることによって、宗教的・超越的次元の事柄をも肯定的に位置づけなおすような視座を開くことに成功している。また、超越的次元の事柄をも肯定的に捉えることによって、逆に、感覚的世界に生きる人間をより一層肯定的に捉える光をも獲得している。神学という学問は、狭い意味での信仰者のみにとってしか意味を有さないのではなく、人間に関する普遍的な洞察を与えてくれるもう一つの「光源」ともなりうるのだ。

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