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2015年5月11日 (月)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(22)

状況打開力を有する人間の意志の構造は、ゲッセマネにおけるキリストの意志に着目することによって、より具体的に取り出すことができる。この場面、キリストの人間的意志には、神の意志に従う善き在り方をしている「理性の意志」以外に、神の意志に従おうとしない悪しき在り方をしている「感覚的欲求の意志」や「本性としての意志」があり、この意志の葛藤がしばらく続き、キリストはこれを克服して、自らの思いではなく、神の意志の実現へと心を固めていく過程としてゲッセマネの祈りを解釈し、その過程を、苦難に直面する人間にとっての模範と位置づける理解はゲッセマネの祈りに関する一つの典型的な理解の仕方と言える。

しかし、トマスは、キリストにおいては、克服の対象となるような意志の葛藤は存在しなかったと解する。そもそも、あらゆる欲求や意志は「善」に向かう、より厳密に言えば「善と把捉されるもの」すなわち当の欲求や意志に対して善いものとして現れているものに向かうというのがトマスの根本的な洞察だ。一見「悪」が欲求されているように見えても、そのような「悪」は善の観点のもとに欲求されているとトマスは捉えている。そうである以上、「感覚的欲求の意志」と「本性としての意志」と「理性しての意志」のはたらきの齟齬は、「善」へと向かうか「悪」へと向かうかに関する齟齬ではありえず、むしろ、それぞれの意思に対して何が「善」として現象しているかの区別だと考えざるを得ない。

最も「神の意志」に反する在り方をしているように思える「感覚的欲求の意志」に関して言うと、トマスの述べていることは次のように解釈できる。すなわち、「感覚的欲求の意志」にとってのふさわしい在り方は、感覚的欲求を充足する対象を求め、感覚的欲求の充足を阻害する対象を避けることである。たとえば、食欲を満たす栄養分豊かな食べ物を欲求することは、「感覚的欲求の意志」にとってふさわしい在り方であって、他方、自己保存を長期的に傷つけてしまう麻薬を求めることは、「感覚的欲求の意志」にとってふさわしい在り方ではない。そうすると、「感覚的苦痛を避ける」在り方をしていたキリストの「感覚的欲求の意志」は、自己の保存を感覚的に毀損する悪を避けるとの意味で正常に機能していた、すなわち、ふさわしく善い在り方をしていたと言える。「感覚的苦痛を避ける」という「感覚的欲求の意志」の在り方は、葛藤を経て克服されたのではなく、十字架に至るまで、キリストのうちに持続し続けていた。しかも、望ましくない在り方が部分的に残存していたのではなく、感覚的存在である人間としての健全で望ましい在り方として持続し続けていたのだ。

 

「本性としての意志」と「理性としての意志」との対比は、「動物的な意志」と「人間的な意志」との対比でもなければ、「無自覚的な意志」と「自覚的な意志」との対比でもない。なぜなら、キリストが、動物的・無自覚的な意志によって人類の救いを意志していたと解するのは、非常に奇妙なことだと言わざるを得ないからだ。理性的・自覚的な意志であってはじめて、「人類の救いを意志する」ことは可能となるはずである。それでは、同じく霊魂の理性的部分のなかにある「本性としての意志」と「理性としての意志」は、どのように区別されるのだろうか。

「理性としての意志」に特徴的なのは、事態を目的手段連関のなかで捉えなおし、実現しようとすることだ。そして、なぜそうした目的手段連関の構築が要請されるかと言えば、それは、単に意志するだけでは実現されない多くのことが、この世界には存在しているからである。何らかの困難への直面が、「理性としての意志」という仕方での意志のはたらきを呼び起こしてくるのだ。

そもそも、欲求や意志は、常に現実的な仕方で働いているのではない。トマスの見解をより分かりやすくするために、身近な例を挙げてみよう。たとえば、或る人が、恋人に会いに行くために、神田神保町を歩いているとしよう。その人の欲求は、ひたすら恋人へと向けられている。そのとき、ふと、古書店の軒先に、以前から探していたトマス研究書がその人の目に飛び込んでくる。そうすると、「その本を買いたい」という欲求がその人のうちに湧き上がってくる。そのような欲求、その人がもともと有していたものではあるが、その時点までは現実化していなかった、習慣的な仕方で保有されていた欲求だといえよう。その際、「その本を買いたい」というその人の欲求は、単なる感覚的欲求ではなく、理性的な欲求ではあるが、特別な目的手段連関を構築しなければ達成できないような大げさな欲求ではない。その人は、その本を手に入れることを、単純に意志する。その古書との出会いによって活性化されたその人の欲求は、トマスの言葉を使えば、「本性としての意志」なのである。だが、その人がその本を手に取り、それが予想以上に高額で、手持ちの金銭では購入できないことに気付く。そうした困難に直面すると、その人は、その本を手に入れるために、何らかの目的手段連関を構築せざるをえなくなる。たとえば、「恋人から金銭を借りることによって本を買う」といったように。こうした仕方で分節的に媒介された欲求が、「理性としての意志」なのだ。

そして、久しぶりに会った恋人に対して、いきなり「本を買うためにお金を貸してくれ」と言い出すその人に対して、恋人は、「この人は私より本の方に関心があるのか」と思い、不快感を抱くかもしれない。或る状況に直面して、どのような欲求が活性化されてくるのかは、単に偶然的なのではなく、その欲求が活性化された当人の人柄を反映したものであることが、この例から読み取れるだろう。また、我々は、一度には一つの欲求しか抱いていないわけではなく、状況に応じて現実化されてくる多様な欲求を習慣的な仕方で同時に所有しているという事実も、この例から読み取るべきもう一つの重要な点だ。つまり、「本性としての意志」と「理性しての意志」といった多様性があるのではなく、「本性としての意志」自体が、そして、「理性としての意志」自体が、多様なのである。

キリストにおいては、「感覚的欲求の意志」と「本性としての意志」と「理性としての意志」が、それぞれにふさわしい在り方をし、かつ、それぞれが互いの領分を侵さずに共存していた、とトマスは捉えているのだ。ゲッセマネにおける祈りの積み重ねの中で葛藤が次第に克服されていくといった時間的経過を強調した解釈をトマスは下していない。そうではなく、感覚的欲求が自然な運動を行ないながらもそれが理性のたがを外れない在り方をキリストは終始一貫して持続させていたのだとの解釈を下している。そうすることによってトマスは、ゲッセマネの物語をキリストの魂の究極的な調和の表現として読み直している。それは単調でのっぺらぼうな調和ではなく、多様な意志がそれぞれに豊かな動きを示す動的な調和なのである。

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