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2015年5月15日 (金)

竹内整一「『かなしみ』の哲学」(2)

第1章 「かなしみ」という問いの原点

現代社会をおおっている、はてしなく続くとも思える争いも、一神教的な宗教同士の対立の、一つの神様(考え方)が正しければ、他の神様(考え方)が正しくないと考える、そうした一神教的発想が構造的にはらんでいる問題である。「絶対」というのは対(相手)を絶することであるから、両方が正しいということはできない。争いの感情は、怒りである。そしてまた、それが溜まって、憎しみ・恨みになっていく。紛争地域の人々の表情には、怒りが渦巻き、憎しみ・恨みが滞積している。怒りというのは、正義という問題もふくめて、人が誇りあるあり方を求めるにおいてはきわめて大切な感情であり、それゆえまた、大きなエネルギーを生む感情でもある。しかし同時に、怒りは人間の大きな罪でもある、諸宗教は教えている。怒りという感情は、何かが起きたときに、その対象を特定し、それが悪いせいだと、もっぱらそちらへとだけ突き進んで行かせることのできる「魔術」なのである。とすれば、怒りだけではなく、そこにさらに何が必要か。むろん、より高い知性なり思想なりが求められているのであるが、それがややもすれば、ふたたび─自分の考えが正しければ、相手の考え方は正しくない、という─悪循環をもたらしてしまう。

9.11当時多発テロをふまえて、吉本隆明が、「存在倫理」という新しい考え方を提出している。要するに、イスラム原理主義が主張していることも迷妄であるし、またアメリカが振り回す自由と民主主義ももうひとつの迷妄だ、と。そうした迷妄同士の突き合せでは、相手を殲滅するまで闘う以外になくなってしまう。もしそれを超えることができるとすれば、そこには、「人間が存在する自体が倫理を喚起するもの」としての「存在倫理」といったようなものが考えられるべきだと、こう言っている。

きわめて当たり前な、しかしそれこそが難しいといえばむずかしい根本的な問題が提出されているように思う。「人間が存在すること自体が喚起する」倫理性、相手が「いる」ことそれ自体から引き出されてくる倫理のあり方の問題である。「かなしみ」という感情は、吉本がここで提出している「存在倫理」の、ひとつの可能性を問うものとして考えることができないか─。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』において、ジョバンニは「たったひとりのほんとうの神さま」を信じて、女の子のいう神さまに、「そんな神さまうその神さまだい」というが、「あなたの神さまってどんな神さまですか」と問われて、ジョバンニは、「ぼくほんとうはよく知りません」と答える。どこまでも「たったひとりのほんとうの神さま」というものを求め続けながら、しかもそれ自体が迷妄といわれないように、ある攻撃的な固さに入り込まないとすれば、どうありうるかという、そうしたためらいの問いを問い続けているようにも見える。そうした姿勢は例えば、こうした言い方にも素朴に出てくる。「みんながめいめいにじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとん議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。」その勝負のつかなさを耐えつつ、しかしなお「ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれる」ことを受け止めていこうとするところに、宮沢賢治の、ある独自の場所、また可能性があるように思う。それは、かなりはげしい「法華経」信者として、銀河世界に働く、大いなる「まことの力」の絶対性といったものを信じつつ、なおそれを受けとめきれていない自己の「修羅」性を見つめ揺れ動いていくところの問題でもある。賢治の「修羅」意識は、「はぎしり燃えてゆききする」といった、どうしようもない「怒り」でもあるが、同時にまた、どうしようもない「かなしみ」でもある。

 

西田幾多郎の思想の根底にあって、それを推し進めさせたのが、人生の悲哀、人の生きることがいやおうなく持っている「かなしみ」という問題であった。アリストテレスにさかのぼるまでもなく、哲学のもっとも基本的な動機・理由は「驚き」が一般的であった。が、西田は、そこに「驚き」ではなく「悲哀」を置いているのである。西田において「悲哀」とは、いってみれば、死なざるをえないものとして生きる(いつまでも生きたいがけっして生き続けられない)人間の自己矛盾した存在のあり方に必然的にともなうものとして考えられている。

西田は生娘を失った友人について、かわいい娘が亡くなって白骨になってしまった。しかし西田は、けっして人生とはこれまでのものだとはやり過ごさない。その「かなしみ」というものを見つめていくことの中に、そこにあらねばならない「深き意味」を考えようとしたのである。われわれの生というものを死を介して見つめなおすことであった。注目すべきことは、その凝視が、積極的・肯定的な事態を可能にするものとして受けとめられ、語られているということである。「かなしみ」とは、まさに「…しかねる」という有限性として、「運命」「諦め」「不可思議の力」「己の無力」を知らしめるものである。が、そうした有限性の認識を介してこそ、「人心を転じて」、「無限の新生命」に接することができるようになってくるという論理がそこにはある。西田哲学は、有限性を深く感受する「かなしみ」においてこそ、ゆたかな無限性がひらかれてくる、という、「かなしみ」の思想展開として、構想されていくのである。

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