無料ブログはココログ

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(17) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(19) »

2015年5月 7日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(18)

第5章 神に感情は存在するか

トマスのテクストには、あらゆるものを認識して言語によって語りつくそうとする方向性と、この世界の全体は認識されず言語によって語りつくせないことを徹底的に強調していく方向性との両義的な緊張関係が見出される。人間の認識能力と言語表現能力に対する徹底的な信頼と、それを超えた実在の豊かさに対する畏敬の念が、緊張関係を絶妙に保ちつつ統合されている。

同時に、トマスのうちには「神」の言表不可能性や把握不可能性という立場を相対化しようとするはっきりとした態度が見受けられる。「神」が人間の言語では「語りえぬもの」であること、言表不可能な超越性を有すること、トマスは、このような事実を認めることにやぶさかではない。実際、トマスのテクストは、そうした言明によって充ち満ちていると言える。しかし、「神」の「超越性」や「言表不可能性」をあまりに強調することは、かえって「神」の卓越性を制約してしまう─「神」の「超越性」や「言表不可能性」をむしろ弱めてしまう─とトマスは考える。というのも、神の「内存在」や「言表不可能性」を捨象して「超越性」のみを強調することは、一見、神を人間による理解の、そして人間の言語の制約から解放するように見えて、実のところは、人間によって理解されたかぎりでの「超越性」という思いこみのなかに「神」を限定してしまうことになるからだ。逆に、人間は、把握し尽くせぬ神について、身近な感覚的世界に由来する様々な概念装置を組み合わせながら可能な限り語る努力を積み重ねて行くことによって、この世界自体の構造についてより深く認識するためのもう一つの光源を獲得し、新たな角度から認識を深めていける。神は「語りえぬもの」と最初から決め付けてしまうことによっては得ることができない豊かな洞察が、「語り尽くせぬもの」である神について、可能なかぎり人間的言語を積み重ねながら語る試みによって、獲得できる。そして、この神の言表可能性と言表不可能性との絶妙な緊張関係が最も尖鋭化した仕方で表現されている問題の一つが、神の「感情」をどのように語ることができるのか、またはできないのか、という難題だ。

 

キリスト教神学では、基本的な教えが確立された教父時代以来、伝統的に、神は「不受動的」な存在として語られてきた。「神」という言葉で名指されてきた何ものかが実在するのであれば、それは「全知」「全能」であるはずであって、人間のように、外界から、意に反して思いがけず他のものの影響を「被る」とか「受動する」事はないとされてきた。神に「受動」が欠落しているということは、神に「感情」が欠落しているということにほかならない。

だが、20世紀以降、こうした神の「不受動性」という教説に疑問を抱く多数の神学者や宗教学者が、神の「受動可能性=受苦可能性」を認めるべきだという考えを打ち出している。そして、「受動可能論者」と、伝統的な「神の不受動性」の教説を維持する「受動可能性=受苦可能性」という考え方が打ち出されるようになってきた背景には、二度にわたる世界大戦や、アウシュヴィッツに象徴される全体主義体制によってもたらされた凄惨な歴史的現実を前にして、「全知全能の善き神による世界全体の摂理」という伝統的な有神論的言説の妥当性が疑われるようになってきた事実がある。類似した観点から、神の「受動可能性」という表現以外にも、神の「弱さ」といった言い方がされることもある。

 

トマスは、『神学大全』のなかで、「神において愛が存在するか」という問いを立てている。トマスは、「神は存在するか」というような類の問題も立てているので、実際に神の存在や神における愛の存在を疑問視しているのではなく、より深い議論を進めていくための出発点として、まずは基本的な点の確認から話を始めていると解することもできよう。そして、実際、最終的には、それぞれの箇所で、神の存在や神における愛の存在は肯定される流れとなっている。

この問いに対して、トマスは受動的な感情とは異なる在り方で神における愛は存在しているという帰結を導き出している。その議論でトマスが紹介する異論で重要なものは、次のものだ。

神において愛は存在しないと思われる。というのも、神においては、いかなる受動=感情も存在しない。愛は受動=感情である。それゆえ、神において愛は存在しない。

Passioというラテン語は、「受動」「感情」「受難」「苦しみ」といった意味の広がりを有している。「受動」と「感情」という日本語だけで考えると大きく異なっている二つの概念が、一つの言葉で捉えられている。それは「感情」は心の中から自発的に生まれてくるというより。外界からの影響を受動的に被ることによって生まれてくるという事実に基づいている。ところが。全能の神は、徹頭徹尾能動的な存在であり、また、非身体的・非物体的な存在だから、外部からの影響を受動的に被って変化させられることはない。全能の神には、対象からの影響を否応なしに被ってしまうという意味での不完全性を意味する「受動的な能力」は存在せず、「能動的行為の原理」である「能動的な能力」のみが存在する。トマスは『能力論』の中で、神は能動的な力を有しているというよりは、むしろ、本質的に、能動的な力そのものだという。それゆえ、受動性の影すらない徹底的に能動的な存在である神には、受動的な感情は存在せず、Passioの一種である「愛」もまた存在しないことが帰結する。

これに対してトマスの与える解決は、「感覚的欲求の活動」としての「受動的感情」と「知性的欲求」すなわち「意志」の活動とを区別することである。この後者の活動を、トマスはしばしば、「意志の単純な運動」ないし「意志の単純な活動」と呼んでいる。それは、「受動的感情」とは異なり、純粋に内発的で能動的な心の動きだ。そして、神のうちには、「受動的感情」としての愛は存在しないが、「意志の単純な運動」としての能動的な愛は存在する。「神は、一にして単純で常に同一の仕方に留まる意志の単純な活動によって、万物を愛する」

トマスによると、「受動的感情」と「意志の単純な運動」との区別は、「愛」のみではなく、他の諸々の情念についてもあてはまる。トマスによると、非身体的な純粋知性的存在である神や天使において存在する「情念」は、「意志の単純な運動」のみであり、非知性的存在である諸動物において存在する「情念」は、「受動的感情」のみだ。それに対して心身複合体である人間の場合には、「受動的感情」と「意志の単純な運動」の両方がある。

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(17) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(19) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(18):

« 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(17) | トップページ | 山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(19) »