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2015年5月13日 (水)

竹内整一「『かなしみ』の哲学」(1)

人間を「かなしい」存在としてとらえるには、日本人の人間存在の受けとめ方として、ごく一般的なものである。文学のみならず、たとえば西田幾多郎は、「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言い切っている。また、「宗教の問題」も「人生の悲哀という事実」を深くみつめるところから起こっているのだ、とも。我が国の歌や物語や種々の芸能の主題として、どれだけ多くの涙や「かなしみ」がとりあげられてきたか。

以上のことを確認したところで、大事な問いが問われてくる。つまり、それらの哀感、「かなしみ」は、かならずしも厭うべきもの・触れたくないものとしてのみ描かれてきたのではないということ、むしろ、ある意味で日本人は、この感情を積極的に享受し表現してきた、ということへのあらためての問いである。「わび」や「さび」、また「やさし」とか「幽玄」といった日本人の美意識の成立にしても、こうした「かなしみ」という感情のあり方をぬきにして考えることはできない。本来、否定的な感情であるはずの「かなしみ」に深く親和してきた日本人の心のあり方は、どのような他者や世界の受けとめ方に基づいているのか、それは、主として何に向けられ、それにどう対応する姿勢を示すものなのか─。こうした問いが主題的に問われてくるということである。

本書のテーマはこのような問いを考えるところにあるが、あらかじめの大きな見通しを述べておけば、日本人の精神史においては、こうした「かなしみ」を感受し表現することを通してこそ、生きる基本のところで切に求められる、他者への倫理や、世界の美しさ、さらには、神や仏といった超越的な存在へとつながることができると考えられていたのではないか。つまり、「かなしみ」とは、生きていること(死ぬこと)の深くゆたかな奥行きをそれとして感じさせる感情なのではないか─。

「かなしみ」とは、まずは、「みずから」の有限さ・無力さを深く感じとる否定的・消極的な感情であるが、しかし、そうしたことを感じとり、それをそれとして「肯う」ことにおいてこそ、そこに「ひかり」(倫理、美、神・仏)が立ち現れてくるという、肯定への可能性をもった感情としてあるということである。

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