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2015年5月 3日 (日)

山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(14)

引用と区別とは、全く別の方法なのではなく相互に深くつながっている。権威は、それによって問題の解決が直接的に与えられるような根拠として引用されるのではない。トマスは、様々な問題について考える手がかりを得ようとする場合、まず、その問題に関して伝統的に提示されてきた見解を列挙していく。だが、単純にそこから解答を演繹的に導き出すことはしない。従来の諸見解は一枚岩ではなく、あるしゅの緊張関係のうちに現前してくるからだ。実際、しばしば、対立するはずの異論と反対異論の双方が、同等の権威を持った古典的著作からの引用に基づいている。古典的著作からの引用は、問いに対する出来合いの解答を与えられるのではなく、むしろ、問題を錯綜させ先鋭化させることによって、問題の核心を浮き彫りにし、細かく詰めた議論を可能にさせる手がかりとして機能する。トマスは、引用される先行者たちの見解に対して単純に白黒つけようとするのではなく、無念の意味の場合分けや区別を通して、一見相反する先行者たちの見解を併存させうるような新たな地平を開こうと試みている。当時の大学における「討論」のシステムに類似した議論を形式を著作形態として採用することによって、先行者の見解を土台に新しい視野を切り拓きつつ、複数の先行者の見解の見所をできるだけ肯定的に取り出し解釈しなおしながら新たな地平を切り拓くことに成功している。絶妙な区別の導入によって、引用されるそれぞれの権威にふさわしい場を与えつつ、自らの全体的な視野の中に位置づけなおしている。中世スコラ学の時代は、現代と比べて、はるかに、読むべきテクストや、引用されるべき権威が共有されている時代であった。そうした学的共同体のなかでは、典拠の引用は、権威の共有による類同性を高めるとともに、その同じ権威をどのような全体的配置のなかでいかなるニュアンスを込めて配置するかによって、それぞれの著者の独自性を、共通性を背景に浮き彫りにできた。スコラ学においては、「権威=典拠」とは、単に抽象的な意味における権威や威信を意味するだけでなく、権威あるテクストそれ自体、または、研究と模倣に値する公に認められた著作からの引用を意味している。そのような「引用」の形式の多用することによって、トマスは、伝統の肯定的かつ創造的な受容に成功している。

我々が他社の見解を紹介し、批判的に吟味するさいには、引用以外にも他者のテクストの要約的紹介という方法もある。「引用」と「要約」では、何が異なるのであろうか。一言で言うと、「要約」の場合には、要約されるテクストのニュアンスや息遣いは消去され、要約者の文体へと還元される。それに対して、「引用」の場合には、引用者の論旨や文体へと還元し尽くすことのできない残余が現存し続ける。的確な解釈とともに引用されることによって、解釈によって置き換えられえない言葉固有の魅力が響き出す。要約の場合には、要約されるテクストは著者によって限りなく完全に統御されている。それに対して引用の場合には、引用されるテクストは、引用者であると著者にとって異質な要素を孕むものとして留まり続け、常に新たな解釈を促し続け、常に新たな解釈を促し続けるような能動的な力を持って、引用する著者と、その著者による引用に触れる読者とを、触発し続ける。引用するとは、他者によって既に語られたこととして、何事かを語ることだ。だが、それは単なる反復ではない。他者による言明を、他者による言明として明示せずに、あたかも自分自身に由来する言葉であるかのようにして語るならば、それは単なる反復ではない。引用という行為においては、たとえ著者が引用された言説に最終的に同意する場合でさえ、引用された他者の言説と最終的に同一化しうるのは、そもそも、出発点において、著者が、その他者の言説と距離を取れているからこそなのだ。我々は、ここで、引用の両義性とでも言うべきものに注目する必要がある。引用される見解に対する同意がどれだけ強くても、引用という行為自体によって、引用者は、引用対象から一定の距離を設定することになる。典拠の引用と解釈によって、探究されている事柄の真相が照らし出されるのみではなく、典拠の深い意味自体が照らし出される。それとともに、同時に、あくまでそういった照らし出し方がその言葉に対する一つの解釈なすぎず、その言葉に対する一つの解釈にすぎず、その言葉はそのような解釈に還元されない更なるポテンシャルを持つということが、まさに引用という形式それ自体によって明示される。トマスは、権威とされるテクストを対話的に取り上げつつ、文脈に応じて、特定の観点に力点を置いた解釈を下していく。それは必ずしもテクストに対する傾向的な解釈を下すということではなく、むしろ、テクストの孕んでいる意味の深みが、文脈に応じて新たな相貌の基に浮かび上がってくるという出来事なのである。引用される言葉自体が、同じように引用されている他の諸権威との全体的配置のなかに置かれることによって、新たなニュアンスを獲得する。トマスは、伝統から孤立して思索しているのでも、伝統に盲従しているのでもなく、伝統の反響を響き渡らせるような仕方で思索し、伝統同士を、そして同じ伝統に掉さしながら思索している者同士を、その不共鳴をも合わせ含みながら、共鳴させている。そもそも、伝統や権威自体、はじめから確固とした形を持って客観的に存在しているのでは必ずしもなく、過去の多様な言説の集積と批判的吟味という地道な作業の中ではじめて現れ出てくる。スコラ学と時を同じくして生まれてきた大学という制度は、そのようないちなみを支える共同的な基盤として機能していた。伝統的な教説とは、単に受動的に引き継げる所与ではなく、多大な努力によって再獲得すべきものなのだ。そして、トマスが伝統を引用しつつ自らの思索の運動の中に摂取同化していくための方法が、「区別」という方法であった。

 

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