小川千甕 縦横無尽に生きる(2)
『釣人』という作品です。日本画では珍しく水平線をしっかりと描き込み、それによって空間をはっきりと描き分けて、画面構成を意識的に行なっている作品です。まず、画面の外形が横長の長方形で水平線が目立つ画面になっているのが特徴です。釣り人を描くような場合、掛け軸のような縦長の画面に、釣竿をもって立っている釣り人の姿が、岸辺の立木などを背景に描かれることが多いように思っていました。しかし、この作品は、茫洋とした海面の広がりのなかにポツンと海面に突き出た櫓に釣人が一人描かれているだけのシンプルな画面です。それだけに水平線の目立つのです。しかも、この水平線が画面の下三分の一ほどの位置にあります。これより下の位置に水平線があれば空の広がりが印象的になり、反対に、水平線が二分の一より上の位置にあれば水面が強調され、それぞれ空間の広がりが印象的になるのですが、そのどちらでもない。ちょうど、そういう効果の生じない、最も凡庸とも思える位置に水平線があります。それだけに安心感を与える安定した空間の割り振りと言えます。それがゆえに海面の奥行きをある程度描くことができるようになって、その向こうに広がる空も広がりとして描かれています。日本画としては珍しいほど、絵の具が濃く、厚塗りのように波が、とくに白波がたてて描き込まれていて、その大きさが遠近的な、画面奥になるに従って小さくなっていくので、否が応でも奥に向かって広がっていく海が印象付けられます。しかし、そんな中で釣人は水面に立っているのではなく、櫓の上の少し高い位置にいます。しかも、立ち姿ではなく、櫓の上に座った、身をかがめた姿を背後から描いています。これによって、釣人は、海と空という水平方向と奥行きという方向に広がっていく面としての空間に対して、立ち姿の縦線ではなく、面の広がりも線の延びもない点になっています。また、櫓の上にいるということで、空でも海でもどちらの空間に属していない、空間から浮いた姿となっています。さっき、水平線の位置が凡庸とのべましたが、この釣人がいる水平線から突き出た櫓のてっぺんの位置が画面の上三分の一にして、画面が縦に三分割されるような位置関係が、意識した構成として考えられていた結果ではないかと思います。これにより、釣人が空間から浮いて、独立した姿、孤独な姿が強調されます。釣人は後姿で、肩を落として蹲っているように見えるのが、なおさらその風情を際立たせています。この画面を縦に三分割したのは、この作品を描いている視点が、ちょうど真ん中あたりで、水平線を見下ろしていながら、櫓の上の釣人は見上げる視線になっているということです。これにより、釣人の画面の位置がいっそう特異なものになり、その存在が際立たせられています。これは、さきほどの『浅草寺の図』で人々の位置関係で空間を想像させるということをしているのと同じように、釣人と言う人物自体を描き込むのではなくて、釣人の位置する空間の位置関係によって描くものを想像させることをしているのです。しかも、『浅草寺の図』の場合と同じように、『釣人』でも視点を一点に統一することで、作者の主体がはっきりさせられています。つまり、ここでは釣人を描く視点が明確にあるということであり、作者は釣人と一体ではなく、どの角度から描くかを明確にする客観的な姿勢でいるのです。そのため、この作品では釣人が自立した存在となって、海にも空にも属さない、孤高な姿を描いているといえるにしても、感傷が混ざっていないのです。それは、たとえば若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青 海のあをにも染ずただよふ」という歌に感傷性とは対照的に映るのです。
これらのようなユニークな空間を扱った作品を制作することのできる画家でありながら、『西洋風俗大津絵』という作品も描いています。これは、ヨーロッパ遊学の際に描いたスケッチ風の作品で、挿絵かカット用のものでしょうか、それでもダンスをしている女性の躍動感とユーモラスな姿、そしてそれでも造形が崩れないのは上手い人であるのが分かります。この巧さとか、軽妙洒脱さというのが、便利というのでしょうか、挿絵の注文が増えたということでしょうか。小川も食べていかなければなりませんから、そこで画家として生活できる方向性を見出していく、それが、この後から晩年に向けて「俗画」と自称する南画と解説されるような作品を描いていくことにつながっていったのでしょうか。小川は、求められて挿絵や漫画といったものを数多く制作して、売れっ子ということになっていったといいます。生活の糧と言うのは、切実なことで、霞を食って生きていけるわけではありませんから。それにしても、私には小川という画家は、芸術家タイプで自分の芸術をつきつめて追求するタイプというよりは、絵画を目的としてまつりあげるのではなくて、絵画を介したコミュニケーションを、むしろ好んでいるのではないか、つまりは、作品を見て人々の喜ぶ姿を見たいタイプなのではないかと思いました。
泉屋博古館分館は展示室がニ室あって、その間にロビーがあるという建物なのですが、これまでの作品は第一展示室とロビーに展示されていた作品で、第二展示室に入ると、作風は一変します。『炬火乱舞』という作品です。院展に出品した作品で、小川が南画のような表現に可能性を見出した契機となった作品ということです。こんな感じの作品がこっちの展示室にたくさんありました。こうなると、構図とか構成とかいったことをキッチリ考えるということがなくなって、筆の赴くままに融通無碍に描いているよう見えます。これまで見てきたような、構成によって空間を感じさせ、それが表現に結び付いていくという、比較的明瞭でキッチリしたものがなくなってしまっているように見えます。多分、このような方向を、味わい深いとか滋味豊かとか、逆に感じる人が多いということなのでしょう。鞍馬の火祭りを描いているということですが、中央の炎の赤と、寺の山門の赤がまわりの夜の闇の黒と対比的にみえる、と言ったらいいでしょうか。
『蘭亭曲水』という掛け軸の作品です。こうなると、構成とか、視点とか、描写とかいったものはどうでもよくなって、崩しの味わいといったところに興味が行くということでしょうか。こういうのを愛でるというは、否定しませんが、私にとっては対象外になったという感じです。あえて誤解を避けずに言えば、もはや絵画ではなく、骨董とか室内装飾とか、そういったもの、私は分類します。それだけのことで、私が偏狭なのは、わかりますが、かといってこの作品を貶めるつもりは全くなくて、例えば、手塚治虫の作品原稿を美術館や博物館で見たくないのと同じような心情です。
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