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2015年6月

2015年6月30日 (火)

山内史朗「天使の記号学」(21)

第5章 存在の一義性と媒介の問題

ここまで、媒介と生成をめぐる問題について見てきた。天使主義やグノーシスを扱ったのは、こういった問題に潜んでいる陥穽を探り出し、歩むべき道を見つけるためだった。媒介とは異質のものを結びつける接着剤のようなものなのか。問題は、媒介ということに違いないのだが、もしかすると、媒介されるべきものにあるかもしれない。どんな強力な接着剤でも接着できない場合、接着剤を疑うより、素材の方を調べたほうが良い。水と油をくっつける接着剤は存在しそうにないのだから。媒介が成立しにくい典型的な例とは、両者が共通の成分を持たない場合だ。それはちょうど、二つの数の間に共約数を持たないような関係だ。その関係が「共約不可能性」である。共約不可能な関係は、媒介を持ち得ないのだろうか。もし媒介を持ちうるとしたら、媒介の可能性を示すことができるかもしれない。

1.媒介と共約不可能性

共約不可能性とは、越えがたい深淵があることだ。それを、人と人との間にあるものとして考えてもよい。そうすれば、コミュニケーションの可能性ということの結び付きも見えてくる。

人間と人間の間に共約不可能性があるといっても、「人間」という共通性は成り立っているはずだ。また、コミュニケーションの場面でも、<会話をしたくない>ということを姿勢で示すことで、既にコミュニケーションを行なっていること、つまりコミュニケーションを拒絶することもコミュニケーションであるし、いかなるディスコミュニケーションにおいても、お互いに理解していない、ということぐらいは共通了解できる。人間相互の間にいかなる共通性も存在しないということはあり得ない。ということは、共約不可能性を人間関係に持ち出すのは誤用か、日本語能力の不足でしかないようにも見える。

だが、私が「共約不可能性」ということで考えているのはそういう次元のことではない。共約不可能性とは、概念の共通性の非存在ということではなく、共通性を求める操作の一歩先に現われるもの、もう少しで手に届きそうになりながら、常に指先から逃れ去ってしまうもののことだ。事実的な共通性が人間の絆にならないことは、日常の中に溢れている。「人間」という共通性が共同体の成立に寄与することは皆無ではないとしても、事実的にも理論的にもなかなかありそうもない。論理的な普遍概念が共同体を成立させるわけではないからだ。概念的な共通性は、それ自体で絆として機能するのではなく、共通性として同意されて始めて絆として機能する。共通性は常に求められなければならない、いや求められ続けるような共通性しか絆とはなり得ないことだろう。では、共同体を成立させる普遍は、合意によってそのつど設定されるものにすぎない、つまり一種の唯名論が主張されるべきなのか。もちろんそうではない。共同体性は、事実的な合意の総和によって成立しているのではなく、また予め合意などと無関係に成立していた概念的統一性によって成立しているのでもない。むしろ、原初的合意が共同体が成立した、いや原初的にでも合意が成立したからには、それに先立って何らかの共同体が成立していたはずだ、という議論、つまり、「タマゴ」が先か「ニワトリ」が先かに類する議論においては、始源の状態を取り出すことにより、そのつどの状態が一種の始まりとしてあって、常にどこまでも共通性が求められなければならない、という構造を取り出したほうが賢明だろう。終点となる共通性、議論・論争を打ち止めにする共通性がないこと、これが「共約不可能性」に近いものと私は考えている。イメージで語れば、漸近線と座標軸の関係、つまりどこまでも接近しながら、決して一致することのない関係が、共約不可能性のイメージとして適当だろう。だから、複数の人間がともに求める点において、メタレベルでの共通性が準備され、コミュニカビリティが成立するという言い方もできる。要するに。共約不可能性とコミュニカビリティは矛盾対立するものではなく、相補的な関係にあると言いたいのだ。その際、コミュニカビリティの方が共約不可能性を際立たせるということもあるのだろう。その結果、事実的な共通性はそれだけでは、何ら絆とはならず、突如として意味の失われた世界が迫り来ることもあり得ることとなる。

例えば精神と肉体の場合を取り上げれば次のようになる。人間の精神は肉体の厚みと不透明さによって覆われているために、記号を使わなければ精神は交流できない。ところが、この記号というのは知性的かつ感性的なものであり、必ず、すくなくとも二つの層から成り立っている。記号は、目や耳や触覚において感覚されるために、感覚しうる性質・物質性(紙とインク、音声、凸凹など)を有している。ところが、物質性はそれ自体では意味を担い得ない。例えば、いかに深淵な書物であろうと、文字が読めなければ、紙とインクの塊でしかないことを考えればよい。解釈するための規則が定まっていて、記号を受容する人間の方に、意味を見出す能力・解釈する能力が備わっていなければならない。実に当たり前の話である。ところが、物質の側面(質料的側面)と、意味の側面(形相的側面)が結び付くことは自明でも簡単なことでもない。両者の側面を結びつける規則が、恣意的であるということもある。さらに、記号の質料と形相は、人間の精神と身体の関係と同じように異質のものだ。一方は、感覚可能であるのに、もう一方は感覚可能ではない。なぜこのように異質のものが媒介されるのか。

記号を使用できるためには、精神と身体という異質のものを人間は持たねばならないのかもしれない。精神と身体の存在は、記号使用の必要条件なのだ。では、肉体が障碍としてあるために記号を使用せざるを得ないのか、記号を使用できるためには、肉体を備えていなければならないのか、どちらなのだろう。記号そのものは共約不可能性を内含している。そして、共約不可能性が記号使用の条件となっていることだ。共約不可能性とは、記号の使用やコミュニケーションを不可能にするものではなく、共約不可能性の方がコミュニケーションの可能性を準備しているのだ。共約不可能性を障碍と見て、直接的に飛躍しようとするものとしての「天使主義」であった。

共約不可能性とは、とりあえず共通性を持たないことである。共通性は共通の要素・性質を持つことによって生じる。共通の要素があるならば、共通の要素を含むものからなる、より包括的な集合があるということだ。例えば、人間とゾウが哺乳類という上位の類(外延)に含まれること、言い換えれば、同じ上位の類を有していることと同義である。したがって、上位に共通の類があれば、共通性を有することに成り、共約不可能性は成立しないことになる。

ところが、この世界に存在するものはすべて<存在>ではないのか。<存在>という言い方が気に入らなければ、<存在者><或るもの>でもよい。すると、すべてのものにとって、<存在>が上位の類である以上、すべてのものは<存在>という点で共通性を有することになる。最も上位の類とは内包が最も稀薄であり、規定・内実を最小限にしか有さないはずである。すると、<存在>は最も空虚な共通性ということになりそうだ。このような考え方は、中世哲学では否定される。

その理由の一つは、神と被造物とは、<存在><非存在>よりも大きく異なるとされていたことだ。すると、神と被造物との両者を包摂するものなどない。<存在><非存在>は、最大の差異にも思われるが、神と被造物は<存在>という名を共通に有しているが、その内実は異なると、落差を守りながら、落差を埋め合わせる論理を別に探るものとして、「存在のアナロギア」という発想があったが、ここではそれに対抗するものとして立てられた、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの<存在>の一義性という思想の方だ。一義性とは、名だけでなく意味も同じだと言うことだ。すると<存在>が一義的だというのは、平明で分かりやすい考えにも見える。しかしその一方、神と被造物の乖離を媒介するように見えて、最も空虚な、「名のみ」の媒介を設定していることになるのではないか。

もう一つの理由は、<存在>は類ではないということだ。たとえ、仮に<存在>が神と被造物に共通であっても、<存在>は統一する類にはならないというのだ。類でないことの背景に踏み込むことは煩瑣になるので、結論だけ示せば、<存在>が類でないことは、<非存在><存在>の外部にあるものではない、ということと等価である。一義性は、一般には、例えば「脊椎動物」という類に関して、カエルもクジラもワニという種も一義的である、というように、類が種の述語となる時、個体が種の述語となる時に語られることである。すると、ここで取り上げたい<存在>の一義性説は、伝統的権威に正面から反対して、<存在>を類として捉えていると見えないわけでもないし、そして、実際にそのような批判もされてきたわけだ。

コーポレートガバナンスそもそも(12)

日本でのコーポレートガバナンスをめぐる動きには、これまで3つの大きな波があったという。

第一の波は1990年代、カルパースが日本企業に対して株主として申し入れをするスタンスを表明したことを契機として、日本の機関投資家の中に安定株主を返上しようとする変化の兆しが生じたが、株式持ち合いや安定株主などの現状維持勢力に押し返されてしまった。

第二の波は2005年の会社法施行前後に企業価値をキーワードに企業と投資家の対話の機会が生まれた。しかし、アクティビストの活動が前面に出過ぎたことも影響して、世論は非常に警戒的になり、軋轢ばかりが強調され、買収防衛策の議論にすり替わってしまった。

そして、第三の波が現在だという。ちょうど10年に1回のスパンで波が来ている。では、今回を逃すと10年後と言うことになってしまうと、そんな間に日本企業の再興が最早できなくなってしまうのではないか。そのような危機感を持ってほしいという議論。すごく、説得力があると思う。

2015年6月29日 (月)

山内史朗「天使の記号学」(20)

5.肉体と<かたち>

肉体が<>をもつのは、自明なことだ。その<>には、外形、髪型、姿勢、身のこなし、服装、表情、化粧等が含まれるわけだが、それらは個々人の行為の目的にとって、付随的・偶有的なもののように見えて、むしろそういったものが決定的な役割を果たすことは少なくない。しかし、<>における、微妙な差異が決定的な違いを産み出すことも少なくない。<>は幾何学的な形状における類似性や感覚刺激における類似性によっては分類されない差異を宿している。<>では微差しかないのに、一方が生命力に溢れ、別のものが死んだものに見えるのはどういうことなのだろう。説明の仕方は様々ありそうだが、<>のレベルにとどまらず、その<>を産み出した人間の内面にあった<かたち>ということを考えると説明しやすいだろう。<かたち>に含まれる力が、何ものにも遮られずに発露し<>に定着するとき、躍動感が生まれるのだろう。つまり、<>は、<かたち>から成立してきた、生成の跡を宿しているが故に、<>の手前にあるものを表現しているが故に、様々なものを伝えられるのだ。

<かたち>がイデアのように、純粋に知性的なもので、<>は感覚的なものと捉えればよいのだろうか。イデア論的に考えればそうではない。イデアも本来そうであったように、<かたち>は、純粋に知性的・天上的・抽象的なものではなくて、そこから<>が生まれてくる基盤・母体のようなものだ。知性的なものと感覚的なものとの枠組みで考えれば、両者を媒介するものだ。<見えないもの>から<見えるもの>が生み出されてくる場合の媒介であって、見えることを成立させるものであるが故に見えないものであるようなもの、それが<かたち>なのだろう。ちょうど、光はものを見えるようにするが、それ自体は見えないものであるのと同じような意味で。

肉体には<>があるからこそ、模倣することができ、そばにいることができ、抱擁することができる。しかし、<><かたち>を備えていない限り、<から>のものとなってしまう。そう、肉体は<からだ>となってしまう。肉体は絆・媒体となるものだが、それだけでは十分なものではない。<かたち>ということで語られるのは、媒介性のことだ。知性と感性、精神と身体、<見えるもの><見えないもの>といった二次元的対立、いや二次元的落差がある場合、その二次元性を消滅させる最も簡単な方法は、両者の乖離を跳躍して、直接的に両者を重ね書きしてしまうことだ。もちろん、一方を仮象、他方を真実在として、一次元的世界を作ることもできる。たとえば、イデアの世界のみを真実在として、物質界を仮象とするように。しかし、いかなる一次元的世界観も完全に一次元性に安住してはいられない。純粋なイデア論者も、肉体の空腹は無視しえないし、純粋な唯名論者も精神のようなものを認めずにはいられないから。さらに、二次元性を最小限のものにとどめる行き方も考えられる。昔も今も常識的思考とはそんなものだろう。中世世界においては、実在論であろうと唯名論であろうと、二次元性が大前提されていた。それは架橋しえないものであった・その一つの極が神と被造物の関係にあった。媒介し得ない落差、二次元性がある場合、そしてその落差が架橋しえないものだとした場合、一番陥りやすい錯誤は、存在論的跳躍を行なって、二つのものを重ねてしまうことだ。媒介なき乖離は落差なき直接を生じやすい。哲学と信仰、此岸と彼岸を全く別個のものとする「二重真理説」なおいて、二重性は往々にして重ね書きされて一次元的世界が現われてきてしまう。二次元性を維持したまま、そこに踏みとどまることは、実は容易なことではないのだ。

天使主義は、二次元性・二元論を母体としながらも、その一方を消去しようとするために、かえってずぶずぶの一元論に陥りがちだ。天使主義、つまり直接的二元論は、分離すると同時に結合する媒介を持たないために、きわめて不安定なものになるしかない。言葉も、欲望も、肉体も、対立してある二元性のうちの、消去されるべき一方の項なのではない。対立する二元性をそこに見出すこと、しかも媒介を欠いた直接的二元性を見出すことも誤りだが、その一方を消去することは、さらに誤謬なのだ。

真の実在は、二元性のいずれかのうちにもない。真の実在は、一なるものでも多なるものでも、精神の内にあるのでも精神のそとにあるのでも、質料の内にあるのでも形相の内にあるのでもない。

コーポレートガバナンスそもそも(11)

ガバナンス・コードの序文8項では中長期目線の投資(ペイシェント・キャピタル)を促し企業の持続的成長を支えることを期待するということを述べている。そして、基本原則として、持続的な、中長期的成長を目指す経営方針や具体的な経営戦略を示し、市場に積極的に説明し、対話をする、ということを述べている。一般的な解説では、実際の企業のIRの場で説明されている中期経営計画について、こうすべきという説明が為されることが多い。この時の“中長期”とか“短期”というのは、単に期間のことを言っているとは限らないと思う。短期だろうが中期だろうが企業が利益を追求するのは当然のことで、中長期的に将来を見据えると言っても、利益を追求しなくてもいいというわけではない。理想論かもしれないけれど…。その点では、短期と中長期とは質的な違いではなく、量的な差といえる。では、短期と中期の違いとは何か。短期というのは利益を求めるために何をどうするかというスタンスで、中長期では利益を求めるだけにとどまらず、得た利益をどうするかというスタンスと言えるのではないか。例えば、得た利益を再投資してさらなる成長を目指すとか、賃上げをして従業員のインセンティブを上げて生産性を上げていくのか、あるいは配当とか自社株買いとかの株主還元策を進めるということ。多分それらは、その結果がフィードバックして利益が高まったり、利益効率が高まったりしていくことになる。逆に言えば、何のために利益を求めていくかということになる。だから、それこそが経営方針であり、それを具体化した経営戦略ということになる。そうであれば、必ずしも数値目標ということにはならない。

2015年6月28日 (日)

山内史朗「天使の記号学」(19)

4.肉体とハビトゥス

通例、ハビトゥスは習慣と訳されるが、意味がずれるところがある。習慣とは、外に現われた行為や生活の型であるが、ハビトゥスとは、むしろそういった型を産み出す能力であり、しかもさらに重要なのは、個人の生活の中でなされる行為の型よりも、むしろ他者との関わりの中で行なわれる行為を産み出す能力なのである。ハビトゥスとは身体化した能力であるとすれば、そこには<身体図式><身体イメージ>が関わってきて、案外複雑な構造が待ち構えていると予想される。

日本語において、プラトン、アリストテレス以来の伝統を蓄えたハビトゥスに対応する概念は見出されないという気もしてくる。というのも、ハビトゥスとは、理性的能力を基体として形成されるものであり、学知と徳・卓越性に代表されるものだからだ。習慣を意味する「ならひ」では、学知や徳との関連はそれほど大きくない。

また、ハビトゥスには、態度、行状、衣服、装い等の意味もある。これらがハビトゥスと言われるのは、所有されるものだからだ。つまり、所有の受動的効果として考えられているのだ。とはいっても、トマス・アクィナスによれば、このようなハビトゥスは本来のハビトゥスではない。ハビトゥスでは、「持つ」ことの受動的結果、所有されるものではなく、「おのれを持つこと→状態にある」から生じるものだからだ。このような自己に帰る作用は能動でも受動でもなく、中間の中動相を表わす。この中動相的事態は、ギリシャから中世まで常に基本的位置を占めていたし、20世紀の哲学においても身体論や現象学の流れに再び登場している。人間の能動的作用が万能であるという発想がない時代・社会においては、能動/受動といった二項対立は奇妙なことなのだろう。重要なのは、この中動相的事態が何を意味するのか、ハビトゥスをそのような視点からみるということだ。この中動相的事態は、ギリシャから中世に至るまで常に基本的位置を占めていた。人間の能動的作用が万能であるという発想がない時代・社会においては、能動/受動といった二項対立は奇妙なことなのだろう。

ハビトゥスは、このように能動と受動の中間に位置する。この中動相的事態は、自ずと現われる、自然と湧き上がるという現象様式を有している。喜びと悲しさ、快さと苦しみ、それらは起こそうと思って起きるものでもなく、他なるものから起こさせられるものでもない。それらは自ずと起こってくる、そして自ずと起こってくるということが自分の感情であることの徴表となっている。悲しもう、悲しむべきだと思って悲しむことも、悲しみが外から侵入してきて悲しみが生じることも、「自分の悲しみ」のあり方ではない。感情が自分のものとなっていること、つまり己有化され、己の内奥から自然と湧き起こってくることであろう。その場合、悲しみがありながら、悲しみが浮遊し、自分とは別のところで悲しみが生き物のようにうごめくのではなく、「私」の悲しみとして、「私が悲しい」事態として捉えられるためには、<>、いやむしろ「身体の<>」を必要とする。思わず口元がほころぶ身体の<>に悲しみが宿ることはない。多分、「私」は身体<を通して>悲しむのではなく、身体<において>悲しむのだ。<において>とは、単に場所を表わすのではない。むしろ、身体に基づいた、ハビトゥスのあり方を指しているはずだ。

2015年6月27日 (土)

山内史朗「天使の記号学」(18)

3.身体図式と身体イメージ

血と肉は、身体の表象として消えつつあるが、その機能は失われているわけではない。「形」が成立してくる前提に関わるところがあるように思われる。その際の手がかりなるのが、「身体図式」と「身体イメージ」という概念である。

<身体図式>とは、自分の身体全体または身体の部分の空間的関係に関するイメージ(身体像)を成立させる意識下の働きであり、常に意識の中心にあるものではないが、それは常に身体の動き・調整・イメージの尺度を形成し、その尺度に従って、当人が引き続いて起こる変化が判断できるようにするものである。こういった一見抽象的な身体の層が持ち出されるのは、身体の身体表象の連続性・統一性が見出されるからであり、だからこそ<身体イメージ>の下に、別の身体の層が想定されたのである。この<身体イメージ>は、<身体図式>をいわば「文法」として、この図式の上に構成されるのである。自分の身体がどんな姿勢をとっているか、身体の諸部分の関係がどうなっているかは、<身体図式>の働きに基づいて意識されることとなる。そればかりではなく、着衣などの空間行動を視覚など用いないで適切にできるのは、<身体図式>のためである。<身体図式>とは、意識に上らなくても、身体を自分の身体として、身体の諸部分が相互に調整された状態で機能するものであり、現実的な身体表象や身体運動を準備するものである。この<身体図式>は、多数の感覚的経験や運動的体験が統合されて形成されるという。そして、<身体図式>が意識されるようになると、<身体イメージ>として現れることになる。この<身体イメージ>は、自分の目で直接みられる姿であろうと鏡の姿であろうと、自分の身体が外界の事物や人間と異なることに気付くきっかけを与えるわけであるから、<身体イメージ>の基礎にある<身体図式>は自己概念の基礎ともなる、とされるわけである。

<身体図式><身体イメージ>も、決して人間の皮膚に限界づけられているものではない。<身体図式>に含まれるものは、身体外にあるものだけでなく、体感、内臓感覚、運動感覚といった身体内にありながら、空間的に定位しにくいものも含まれている。<身体イメージ>の方は、とりあえず身体が我々に、主として視覚に与えられる現れ方・身体の自己現出・身体についての各自が有する三次元的なイメージであるが、これは決して身体についての感覚的刺激を統一したものにとどまるのではない。<身体イメージ>はとりあえず体位モデル、つまり、身体の位置・関係・状態に関する生理学的映像として与えられるばかりでなく、情緒的な映像も含まれている。例えば、痩せている女性が、「太った体」として感じる場合にも見られるわけだが、自己をどのように見、自己をどのように形成するかに関わるところが出てくる。情緒的な映像には、自己の身体についての感情、思考、記憶、態度等がすべて含まれているが、さらに<身体イメージ>には「リビドー的構造」があると言われる。ここで、リビドーとは性的欲望に限定されるわけではないが、リビドー的構造が<身体イメージ>に備わっているというのは、各人の<身体イメージ>が、特に思春期・青年期には、人間関係、それも性を随伴した人間関係に基づいて形成されるからである。<身体イメージ>は、当人の個人的歴史だけでなく、その人の他者に対する関係、他者のその人に対する関係の歴史に基づいているのだ。だから、<身体イメージ>のリビドー的構造がその後の人格形成に大きな影響を及ぼすことは、予想しやすいことだ。性欲には「人間的欲望の学校」という面があるのだろう。いや、性的欲望ぐらいにしか、人間の最も隠されるべき穢れを配置できなかったのだ。それ以外に考えつかなかったのだろう。ともかくも、リビドーの発達レベルは<身体イメージ>の構成と破壊の基本的要因となるわけだ。

さらに、<身体イメージ>には、生理的にまたは心理的に身体に属するものだけでなく、いわば「連想」によって自己に属するもの・属したものも含まれる。衣服・アクセサリー・化粧・仮面など身につけるものはすべて<身体イメージ>の一部となり、その他、声・呼気・体臭・糞便・尿・精液・経血なども、対外に出てもそれが自己所属性を失わない限りは、<身体イメージ>の一部をなしている。こういったものは、外部と内部の交叉・反転の生じる境位であり、身体の統一性はそういうものの文法によって成立している。これらのものは、(1)かつては身体の一部を構成していたが、身体から離れ、身体とは別の事物になりながらも、身体を起源としているために、身体のそばに留まり、だからこそ意図的に身体から離されねばならないものか、(2)長い期間にわたってか、または日常的に繰り返し、身体と接触しているか、身体と結合することによって、身体とは別のものでありながら、身体とほとんど同化してしまったものである。このようなものは両義的に身体に属している。だからこそ、<身体イメージ>の異常は、こういった、両義的に身体に属するものに関わって生じることが多い。こういった両義的なものと関連する身体部位は、穢れたものとして周辺部に配置される。周辺部は、意識において抑圧されることで周辺化されることもあれば、耳たぶや足の指のように、意識が及びにくいが故に、周辺的であるものもある。身体の統一性は、実は周辺部になされるのは多分そのせいだろう。周辺部が他者によって承認されれば、その全体が承認されることになる。全体が承認されるための徴表が成立するために、周辺部は意図的に作られるしかない。身体に穢れたところが作りだされるのは、曖昧な中心の交流を示す記号としてである。穢れたものにおいて交わるというイメージは、<身体イメージ>にとって不可欠である。性が穢れた領域とされる理由の一つは、あまりにも人間的なコミュニケーション・システムの構成のうちに見出されると思われる。そして、この不安的な内属関係は、逆に身体の維持に必ずしも重大な影響を及ぼすものではないが故に、個人好みによって様式化することができる。逆に、肉体に関する心理的イメージの方は、整形のように身体そのものに大幅な加工を施すことで変化させることは出来るが、TPOに応じて変更することはできないために、両義的なものとは対照的である。両義的なものは、かなりの自由度をもって変更できるからである。両義的なものは自由度を有すると共に、不安定なものだから、そういったものを制御するのは、身体化し、慣習化した能力(ハビトゥス)がないと困難なものである。

<身体イメージ>とは、当人の意識に映じた身体の<>なのだが、そこには他者への関わりも含まれているがために、人間関係の<>ともなっていると言える。<身体イメージ>にはいくつかの層があり、身体の形態のみならず、他者との関わりをめぐって生じる人間的欲望の<>も含まれている以上、かなり複雑な構造を有していることは予想できる。リビドー的構造は、決して狭い意味での性的欲望に関わるものではなく、自己同一性が自己の性の受容を必要とし、しかも性の受容には性化された欲望の己有化を前提とする。そして、性的欲望は普遍のみを対象とすることはできないので、対象の側での個体化と欲望の己有化という二重の個体化が求められることになる。しかも二重の個体化は、別々の個体化であって、条件が揃わない限り、同時に実現することは困難である。

このように<身体イメージ>にリビドー的構造、つまり他者との関係を含んだ側面があるとすれば、当然のことながら、<身体図式>にもリビドー的な層があるはずである。<身体図式>のリビドー的層は、他者との関係の原形式であり、そこから様々な<身体イメージ>が浮かび上がってくるはずだ。<身体図式>はコミュニカビリティという中立的なものに、方向性を与える機能を持っていると思われる。<身体図式>とは、コミュニカビリティが個別的な現実性に到達する条件なのである。性差、生地、家族環境などは、いわば「偶有性」なのだが、始源にあった中立的なものが現実化することは偶有性を受容する生地が必要となるが、その生地が<身体図式>なのだ。<身体図式>は少ししか組み替えることは出来ない。

<身体図式><身体イメージ>について、それぞれが他者との関係を含んだものであることに注目すれば、それぞれ「他者関係図式」、「他者関係イメージ」と言うこともできる。他社への関係、特に情緒的な関係は、感情といったものが時間的なものであり、しかも他の精神状態と一緒になって心を占めるものではないがために、極めて不安定なものである。ある場面で抱いた心の高まりも瞬時に消え失せることがある。絶えず消え失せるとしても、何度でも呼び起こすことができれば、そのようなものは心の中にあるものとして考えてよいだろう。何度でも呼び起こすことができること、これが「ハビトゥス」である。感情は心の状態というより、ハビトゥスなのだ。ハビトゥスが定着するには、身体、いや少なくとも身体的なものが必要だ。だから、自己の身体へのイメージ(身体イメージ)が明確になっていない場合、人は安定した感情を持ちにくい。安定した感情を抱くために、人は自らの身体を形作り、装う。しかしながら、<身体イメージ>を明確にしても、安定した心の状態が訪れるわけではない。他者との関係は、基本的に問いかけと応えから成立しているからだ。自分の眼差しに感情があるのではなく、眼差しを交し合うことに感情の現実態がある。

<身体図式>とは一つの<かたち>、いや様々な具体的な人間関係の母型であり、しかもそれが情緒的な負荷を予め担っているものだ。それは身体の形態、状態などを組み込んで成立している。情緒的な負荷が与えられているというのは、他者とは自分を保護してくれるものなのか、自分にとって敵対するものなのか、というような外的世界・人間との関係の基本的モードなのだ。他者との関係は、たとえ同一人物についてであろうと、様々な姿をとる。たとえば仕事、遊び、家族など。それぞれがひとつのコミュニケーション・チャンネルなのであるが、それらのコミュニケーション・チャンネルも、ある具体的な<かたち>を求める。礼儀作法も<かたち>のひとつだ。重要なのは、物質化し、現実性となった<>ではなく、可能性として、ハビトゥスとしてある<かたち>なのである。<かたち>とは、学ばれるものであり、学ばれた結果は意識下に沈み、あまり意識されなくなるものだ。身体は記憶の倉庫、身体はハビトゥスの座である、と言ってもよい。

セクシャリティもハビトゥスも、己を持するあり方なのである。ハビトゥスは身体に沈殿し、意識に上らないようになって、ハビトゥスとして定着する。ハビトゥスが意識に上らずに、現実化するためには、潜在性の座が必要であり、その座が身体なのである。ハビトゥスとは、「身体の技法」なのだ。ハビトゥスの特徴には、現実的な作用ではなく、ある状況の中で作用・行為を行いうる能力であるということがある。他者と関わるハビトゥスの場合、ハビトゥスが実現される状況には、当然のことながら他者が関与してくる。快楽もハビトゥスであって、しかも他者との関わりをもつハビトゥスであるとすれば、完全に私的な快楽は存在しない、ということになる。いかに私有される快楽であろうと、共有される快楽である。なぜならば、人間の欲望が、欲望への欲望という形式をとる限り、他者の快楽が欲望の対象となり、そして同時に自分の快楽になってしまうからだ。

<身体イメージ>はリビドー的構造であり、対人関係のイメージによって形成されるのであり、対人関係の中でも本人に影響力のあるのが性的関係であるが故に、性的<身体イメージ>でもあるということが要なのだ。セクシャリティとは「絆」であるといってもよい。セクシャリティが、普通の場合は、異性間の肉体関係にのみ関わりそうに見えて、実はそうではなく、他者一般との関係を規定しているものだということは、忘れてはならないことだろう。セクシャリティを充足する行為とは、結果として与えられる緊張の消滅や感覚的快楽を目的とするのではなく、充足の可能性の条件、いやそもそも充足することが可能となる資格・条件を与えるものである。性的欲望において、欲望が目指すものは、欲望の結果ではなく、欲望の前提にある。男(女)になろうとし、男(女)であり続けようとして、涙ぐましい努力を続ける人間は、可能性の条件を求めているのだ。もちろん、目的を追い求めるように文化によって飼い慣らされた人間は、この欲望をめぐる基本的詐術に気がつかないことが多い。

コーポレートガバナンスそもそも(10)

ノヴォノルディスクというデンマークの医薬品会社のアニュアルレポートには、従業員の退職率が明示されて、同業他社に比べて低いことが説明されている。これは、ひとつには採用コストやトレーニングコストが低いことで人件費の効率性の戦略であり、研究開発の継続性、そして以前に同社が生産していた洗剤が子供の皮膚アレルギーの原因とされて不買運動が起きたため工場を閉鎖に追い込まれ、従業員の大量解雇を行った。ところが、政府の正式な調査で、実は洗剤には何の問題がなかったことが明らかになった。そのため、環境や品質に対して問題を起こさないように効果的に活動している結果が、退職率の低さとなって、最終的に利益創出に結実しているという。これをレポートでは、数値目標と実績で示している。個人的には、あざとさを感じないわけではないが、日本企業であれば従業員の定着率が高いということについて、社風とか雰囲気といった言葉で終わらせてしまい、このように意識的に戦略としてストーリーとして経営が示しているケースは知らない。このような中でのHR戦略に関わる部門の意識やコミットメントは、ずっと具体的になってくるのではないか。こういうことを考えるのは経営者の仕事といえるのかもしれないが、こういうことを日本の企業内で提案できる可能性があるのは、私は例えばIR部門だったり、統合報告書を作ろうとしたら、こういうことも考える可能性もあるだろうし、中長期の経営計画のなかで考えることだってできるのではないか、と思う。これは、ひとつの例で、一般的な話ではない。私は、このような類のことを、コーポレートガバナンスの一環としても考えられないかと考えている。

2015年6月25日 (木)

山内史朗「天使の記号学」(17)

2.身体の聖性

身体は所有物なのだろうか。生命や魂であれば、個人のものではなく、預かりものという発想は古代では珍しくない。もし、身体が、同じように預かりものであるとすれば、精神と身体を結びつける絆は何になるかということだ。

その絆のあり方を見るために、「地と肉」について見ていこう。とくに血は穢れの典型的なものだ。血は公共的な場面から隠れ、血にまつわるタブーは数多い。このような血について注目したいのは、血が生から死へ、死か名への移行の媒介・臨界をなすことだ。日常「ケ」と非日常「ハレ」を分かつ標識となっていることだ。標識や徴のついたものはすべて非日常の世界に属しており、日常の世界に持ち込むことは厳しく禁じられている。血に代表される穢れが禁じられるのは、その非存在が望まれているからではない。絶対的に穢れの非存在を求めるならば、天使になるしかない。外部と内部の中間に位置するものは排除されるのだ。生を死に、死を生に結びつける血は、生と死の中間・媒介・第三項であり、排除されねばならないものなのだ。

境界の上にあること(リミナリティ)は、曖昧かつ両義的に性質を有する。このあり方は文化的空間を成立させる網の目からはみ出しているからだ。両義的なものは、内部にあるのでも外部にあるのでもない。このようなものは、区別し分類することで事物の秩序を構成しようとする精神にとっては、不気味なものである。このような両義性は、しばしば死や子宮の中にいること、不可視なもの、暗黒等に喩えられる。分類し区別するシステムが成立していない場合、カオスが登場するが、これらの象徴の意味するものは、まさにカオスなのである。カオスと言っても、秩序空間の原初に想定されるカオスと秩序空間のシステムを混乱させた結果生じるカオスとでは意味が異なる。そして、両義性とは、外部と内部の中間にある曖昧な領域というよりは、内部と外部を対立させる源泉でもある。端的に言えば、両義性やカオスは物事を産み出す源泉なのである。だからこそ、宇宙の始まりにカオスを置く神話もよく見られるだろう。

宇宙の創造は、外部と内部との往還として語られる。ところが、内部とか外部の往還を司る法則は、明文化されるような顕在的法則とは成りにくい。もし、顕在的に法則化できるならば、それはカオスとはなり得ない。法則を有し、理性のもとに収まりうるものが、あえてカオスとしてのあり方を持ち続けるための条件は何なのか、それがタブーだ。タブーとは、禁止の規則であるより、何ものかを保存するための法則なのだ。タブーとは、往路と復路を作り出すことで、可逆性・反転可能性を引き起こす装置と言ってもよい。祭りにおいて見られるように、タブーが人目にさらされ、触れられることで、聖と俗は交通し合い、反転を遂げる。タブーは、日常においては禁止法則として機能するが、禁止法則としてのみ見るのはまったく一面的である。むしろ、タブーとは、日常世界と異質の世界をつなぐ入り口であり、日常世界の入り口であると同時に出口でもある。タブーという入り口が開かれるのは、一定のエネルギーが蓄積された場合である。タブーとは特異点であり、両義性が現れる場所である。両義性が顕在化した場合、日常世界に出口ができてしまうので、日常世界では矛盾律と同一律によって両義性が表面化しないようにしておくしかない。タブーとしての開口部は、一定の備給水準まで達していない場合には、単なる禁じられた領域としてのみ機能する。

血と肉とは、多くのタブーを伴う領域であり、生と死の往還を操作しうる両義的なものである。性欲や性交がタブーとされたのは、禁止されるべきものだからではなく、両義的なものであるが故に、タブーの中で守るしかなかったからであろう。中世においては、肉体や肉体的快楽は、以上に述べたような意味でタブーであったと言えるかもしれない。

コーポレートガバナンスそもそも(9)

企業文化とか風土とかカルチャー社風とか、言い方は色々あるけれど、“自由な雰囲気”や“活力ある”などという言葉で形容されることが多い、会社の雰囲気や空気と言ったもの。これは、さらには企業の個性に結びつくだろうし、その企業の強みになっていることもあるだろう。コーポレートガバナンス・コードをめぐる議論でも、こういうことは定性的情報として中長期の投資家は有益な情報として欲しているという。そこで、企業の中でも、そういうことを見直して、認識しましょうということが議論されてきている。それは、悪いことではない。ただ、そういう“自由な雰囲気”や“活力ある”などというのは、企業の中に存在しているのを見直すというものではない、たぶん。そういうものは、日々、作られているものだ。だから、何かのきっかけで、そういうものは容易に失われる。最近では、業績が芳しくないソニーなどは、かつての技術者の自由闊達なあつまりではなくなった、というようなことを、かつて社員を主として聞かれる。そういうものは、存在していたのがなくなる、のではなくて、日々作られていたのが、誰も作らなくなってしまったので、最初から無かったことになったというものではないだろうか。ソニーであればそういうものを創業経営者たちが体現していたのを、その人たちが退場すると、引き継いで作ろうとする人がいなくなったということではないのか。だから、今、自分の会社でそういうものに気がついた時、それを作ってきた先人たち(経営者もそうだし、従業員もそうだし)の営為というよりも努力を想うべきなのではないかと思う。さらに言えば、そこまで先人たちが努力してきたその会社への想いとか愛着とか言ったものに対する敬意を感じるのではないかと思う。言い換えれば、会社には、このような強みとか個性がある、ではなくて、先人たちが会社のこのような強みや個性を作ってきたということだ。そう考えれば、そういうものが、企業の経営や戦略と具体的に関係しているストーリーは容易に見つかるだろうし、それがガバナンスと関連しているはずだというのは分かるのではないかと思う。かなり、飛躍の多い議論?

2015年6月24日 (水)

山内史朗「天使の記号学」(16)

第4章 肉体の現象学

1.魂と肉体

肉体はピタゴラス派やプラトンにおいては、「魂の牢獄」とまで語られていた。そこには、魂は本来、天上のものであり、肉体という穢れた足枷のために現世にとどまっているという発想があった。現世が、混乱に満ちた、心の平静が得られないものであるならば、人間は自分の本来のすみかが現世ではなく、天上にあると考えるはずだ。2、3世紀に隆盛したグノーシス主義もその流れを継承していた。現実を居心地のよくないものと考えれば、肉体は現世という物質的な世界に住まうしかないから、本来の自分は魂にあり、その魂はこの世界に属さず、魂の本当のすみか・居場所は別の世界や天上にあると考えるのが、人情の常だろう。ここで重要なのは、魂は本来無垢で、肉体と関わりを持つことは、「魂への陵辱」であるというイメージだ。なぜ肉体が魂を守り育てるためのすまいとして表象されなかったのか。現実世界以外の居場所という、本来あり得ない空間を作り上げるためには、そしてそのあり得ない世界への正当な市民権を主張するためには、現実世界の方が魂を暴力的に追放した、だから魂は無実・無垢・イノセントだというイメージが必要なのだろうか。

暗黒の中世が禁欲の時代であったとすれば、中世はグノーシス主義の忠実な後継者であるという理解も成り立ちそうだ。少なくとも世俗社会の中では、12~3世紀における商業・農業の発展による、物質的生活の著しい豊潤化を考えた場合、禁欲や肉体の侮蔑は言説としては流通しながらも、心性の基本をなしていたとはおもわれない。トマス・アクィナスやグレゴリオス・パルマスなどによれば、中世では、祈りに参与するのが精神だけではなく、肉体でもあるからこそ、祈りの言葉、姿勢、身振りが重視されたのだ。つまり、恩寵の対象となるのは、人間の精神だけでなく、肉体まで含めた、全体としての人間であり、肉体を切り捨てる発想は少なくとも正統的見解になったはずだ。来世のことばかりでなく、神の国を現世の中に見、現世の秩序を重んじるとすれば、肉体を軽視することなどできるはずもない。

ところが、近世に入って、人間の身体は機械と見なされるようになっていく。その際、身体が機械とみなされることは、身体が精神によって支配されない独自の組織体であって、身体も精神と同じように主体としての機能を持つという発想も可能だったはずだ。そして、機械は自分で運動するもの(オウトマン)という側面をもったものであった。したがって、精神としての身体という側面が表面化することも十分可能であった。しかしながら、オウトマンということは、人間の意思とは無関係に「自ずから」生じてくる現象、つまり偶然の一種と解されていたのである。技術の蓄積によって、ゼンマイ時計のようなものが発明されてくると、制作されてしまえば、自分で動き続けるメカニズムとして機械が捉えられるようになって行く。制作者が不在であっても、制作者の意図に即して動くもの、これが機械とされていく。近世初頭における自然観は、神がいったん世界を創造した後は、神が不在であっても、そこに内在する自然法則や力によって、制作者の意図通りに動く機械として捉えられていた。

人間の身体は精神の下す命令に従うものだ。精神こそ、身体の主人・主体である。精神の意図に即して、動く機械なのだ。精神が身体の主体であるという発想は、近世における身体論の基本的構図であった。精神が身体から作用を受けること=受動作用(passio)が、情念(passio)とされていたのだ。情念とは、精神が自分で制御できない心的状態なのである。近世の情念論の目標は、情念の虜となった精神を情念から解放し、身体における支配を取り戻すことに置かれていた。ということは、精神が身体を支配する状態、しわば、何ごとにも酔わず、冷めていること、そこに理想状態が置かれたということだろう。近世において、身体は精神の機械であるばかりでなく、精神の機械であるべしとされたのである。

だが、そこに傲慢は生まれなかったのか。人間の魂は本来天使的なものであって、肉体をまとったために、穢れに陥り、有限性・可死性が入り込んだという発想は、魂の全能感を前提しているように見える。魂は本来イノセントなのであって、肉体を持ったがために、大地に縛り付けられるようになったという神話は、傲慢の萌芽を十二分に備えている。身体は無際限の快楽など求めないからだ。無際限の快楽を求めるのは、魂の方だ。

 

コーポレートガバナンスそもそも(8)

16世紀から18世紀の西欧は宗教対立の時代と言えるのではないか。例えば、イギリスの場合、テューダー朝の下で国教会をつくって、ローマ教皇と決別した。その激しい対立もさることながら、他方でピューリタニズムが草の根で興ってくる。その対立はクロムウェルのピューリタン革命までエスカレートすることになるが、ピューリタンには、さまざまな宗派が競争するように信者獲得に励む。それは、宗派の盛衰をかけた競争であり、それを末端で担ったのは各地に派遣された司祭たちだ。彼らは信者の獲得が成績となったため、様々な工夫と努力で獲得に励んだという。それは信者獲得の自由競争の様相を呈し、まるで、市場のシェア争いを繰り広げる、現代の企業の競争そっくりだ。しかし、信者獲得の競争を宗派で繰り広げても、国教会は政府公認で教区を管理する特権的な立場にあり、自由競争を免れていた。このようなことを考えると、宗教の自由は、思想・信条の自由ということだけでなく、経済活動の自由の面もあったと言えるかもしれない。というのも、ピューリタンたちは、その自由を求めて新大陸アメリカにわたり、自由な信者獲得活動を始めるが、それが経済活動に替わっていったということだからだ。コーポレートガバナンスのことを考えようとして脱線してしまった。

2015年6月23日 (火)

山内史朗「天使の記号学」(15)

4.コミュニカビリティの文法

ベンヤミンにおいては、名前を与えることが、純粋な伝達可能性の現れとされていることを見た。そうなると、聖霊とコミュニカビリティの関係が気になってくる。

純粋な伝達可能性とは、無規定性や無性というはずもない。伝達ということは、黒い雲が雨を示そうと、表情が怒りを示そうと、単語が意味を示そうと、<自己・自ら>以外のものを示すことだ。したがって、純粋な伝達可能性にしろ、言語が自己を伝達することにしろ、自己以外の者が表現されていなければならない。すると言語が自己を伝達するというのは、そこに言語以外のものが入り込んでくるのだ。伝達することは必然的に記号を使用することであり、記号を使用すれば、そこに差異が現れる。記号とは事物そのもののあり方に、留まらない。別のあり方なのだ。純粋な伝達可能性も、差異を包含しているもののはずだ。問題は、その差異のあり方だ。しかし、始源の状態では、その差異は顕現していない。最初にある者が、最初に現れるのではなく、むしろ後になって、徐々に現れる構図が問題なのだろう。

人間が行なう表現行為は、言葉による表現でさえ、複数の層があるが、表情、身振り、態度などの非言語的コミュニケーションにおいても、多様な層が見られる。もちろん、非言語的コミュニケーションの層は、制御が難しく、その層でウソをつける人は案外少ないため、本音が出やすいわけだが、それはともかく、幾重にも及ぶ層において、表で読むか裏で読むかを色分けする。

論ずべき点はこの先にある。こういった複数の層は必ずしも同時に生じるわけではない。落ち着かない眼の動きの後に、ウソが語られることを思い起こせばよい。総てウソしか述べない人間とか、ウソとホントをランダムにまじえながら話す人間は存在しない以上、ひとまとまりの話しはシークエンスをなし、シークエンス毎にウソかホントかが定まっているのが通だ。シークエンスが転調し、ホントの話がウソ・皮肉・お世辞に移行するとき、ほとんどの場合、シークエンスを仕切るシグナルが用いられる。声色の変化でも、身振りからでも、笑い声でも、「冗談だよ」という言葉でもよい。ところが、このメタ・コミュニケーションに属するシグナルをコミュニケーションとして受け取ること、つまり言葉をすべてバカ真面目に受け取ることも十分可能なのである。転調のシグナルは瞬時に悟られる場合もあるが、話しの途中の進展の中で、時間差を置いて気付かれる場合が多いということだ。そればかりではない、話し手の方でも、自分が何を話したいのか分からぬまま、話を始めて、話が進むにつれて、なぜ自分が先ほどの話を始めたのか気付く場合もあるが、その場合、コミュニケーションとメタ・コミュニケーションの区分を制御できるわけではない。

ここから導き出されることは。予め話の筋を決め、どのような話しぶりね表情をするかのシナリオを決めておく場合、モノローグの一種なので話しは別だが、対話の場合、つまり、話の進展に応じて、語り手の意思もまた変化していく場合、初めからコミュニケーションとメタ・コミュニケーションか分離していくのではなく、渾然として融合している。この両者のレベルが融合している状態を、私はコミュニカビリティと呼びたいのだ。さらに言えば、コミュニカビリティが分節化することで、コミュニケーションとメタ・コミュニケーションに分かれてくるということだ。コミュニカビリティの自己展開としてコミュニケーションがあるという構図を読み込んでよいかもしれない。結局、コミュニカビリティの層を持ち出すのは、語ることをそもそも可能にする前提条件が、語ることに先立って存在するという装いを取りながら、語ることの中で整えられていくこと、おそらく、可能性の濃度が現実のプロセスの中で充実されていく過程があるということが述べたかったのだ。

2015年6月22日 (月)

山内史朗「天使の記号学」(14)

3.名前とコミュニカビリティ

近世に入って、<声の文化>は徐々にだが姿を消していく。<声の文化>とコミュニカビリティが密接な関係にあるとすれば、近世に入ってコミュニカビリティは忘れられていったのではないか、という予想がつく。

では聖霊についてはどうだろう。文字に拘束された、現実の教会や司祭よりも、聖霊によって鼓吹された人々を指導者とすることは、異端とされた。聖書に記された御言を学ばずに、聖霊の導きのもとに、直接的に神に至ろうとすることは、狂信・熱狂主義につながる。中世においても、宗教改革期においても、狂信と聖霊主義が同義だった。狂信とは17世紀において、進歩的知識人の最も憎むものだった。聖霊によって啓示されたと信じる者は、「自分達が確信しているから、確実である」という、訂正不可能な信念を有し、諸宗派の対立・抗争・非寛容を拡大していったのだ。このように見れば、戦略的にでも聖霊の位置を引き下げねばならないことはよく分かる。近代とは、聖霊を語る人間でさえ聖霊から離れ、そして知識人は聖霊による啓示を「狂信」として排除しなければならない時代だったのだ。もはや、聖霊は中心的位置を占めることはできない。弁護する者が最大の敵では聖霊が生き延びることはできない。それどころか、現代では聖霊が忘れ去られるという事態が生じている。

ところで、聖霊の忘却とは、キリスト教内部だけの問題なのだろうか。<声の文化>から<文字の文化>に移行したことと関係がないはずもない。<文字の文化>の成立が、聖霊の忘却、コミュニカビリティの喪失だとは言わないとしても、それに類したことはあったのだろう。

20世紀において、このコミュニカビリティを徹底的に考察したのが、ベンヤミンだ。精神的本質は、精神によって捉えられる内実のことで、「メッセージ」と考えればよい。他方、言語的本質とは、言語としての側面、言語を使用する側面だったりする。言語は、普通の考えでは、精神的本質、つまりメッセージを伝えるとされる。しかし、メッセージが伝達可能性そのものである場合はどうなるのか。伝えることは、伝えることがある場合、その伝えることが伝え得るということだ。「祈り」のように、メッセージを持たない、伝えられるべき内容を持たない、自己を伝達していると言ってよい言葉がある。自己自身を伝える言葉、コミュニカビリティだけを伝える言葉は珍しいわけではない。名前を付けること、そして名前を呼ぶこと、これはコミュニカビリティを伝える行為である。ある人が、ある対象に名前を与えるとき、その行為はその当人にとって無関係のものではない。名前を与えることは、関係と絆をつくることだ。もちろん、名前を与えなくても、その対象を使用し、関わることはできる。にもかかわらず、名前を与えるのは、伝達の回路を予め開いておくことだ。名前を呼ぶ場合は、日常会話の中で、多くの場合、メッセージのレベルではなく、メタレベルで機能する。要するに、名前を呼ぶことはコミュニケーションではなく、コミュニカビリティに関わるものなのだ。

名前を呼ぶことは、メッセージを伝えることではない。この名前は、伝達の目的ではなく、伝達の始まりに位置し、始まりを作ることだ。これは絆を作ろうとする行為である。そのような行為によって、一度結ばれた絆は、そこからすぐに退却できるものではない。名前は取替え可能な単なる符丁ではなく、それを待つ人々と結び付いているからだ。名前こそ、伝達可能性そのものを伝達するものであり、コミュニカビリティを造り出す絆なのだ。

現世利益など求めずに、神に祈るとき、そこには穢れた雑念は入り込まない。人間の場合でも、名前を呼ぶだけで、他者に悪をもたらしたり、傷つけることはない。回路そのものは穢れていないとしても、回路を流れるものは、清いものもそうでないものもある。ただし、ベンヤミンは回路の中を何かが流れていくことで、必然的に回路は汚れていくと考える。創造の言葉を離れて、人間の言葉が生まれた時、言葉は何かを伝達するものになる。言葉が、伝達可能性以外のものを伝えるようになった時、つまり、メッセージを持ったとき、言葉の堕落が始まる。ベンヤミンにとって、文学も芸術も、受容者の存在はどうでもよいことだ。それらの本質は伝達でも、伝達内容でもないのだ。文字も名前も伝達のための手段ではない。それらは、一つの、同一のもの、つまり、諸言語が互いに補いながら生じる志向の総体によって到達しうる<純粋言語>を志向しているのである。<純粋言語>とは、自らは何ものも志向せず、何も表現することなく、伝達もなされず、その前ではあらゆる志向が消滅してしまうのだ。<純粋言語>において見られる直接的伝達可能性は、堕落してしまった。

ベンヤミンはコミュニカビリティの層を見逃したり、それを人間的不完全性として取り除こうとはしない。しかし、コミュニカビリティ以外のものを伝える言葉を、すべて言葉の堕落として捉えることは、コミュニカビリティを見出しながら、その可能性以外のことを伝えることを堕落と見なすということは、無垢の始源を目指す点で天使主義に陥っている。

伝達可能なもの、つまり伝達されうるものは、事物そのものに宿っているのではなく、あくまで言葉において自己を伝達する。言葉を通してではない。もし、言葉を通してであれば、言葉は水道管のような伝達道具としてのメディアに転落してしまう。事物が言葉の領野に登場するとは、名前を帯び、事物の言語に姿を改めることによってだ。その場合に、言語、いや、伝達可能性が受肉したものとしての言語は、自己を伝達する、正確には、自己自身において自己自身を伝達することになる。その場合には、言語は純粋な意味での媒体、能動にして受動であるもの=中動相的なものとなる。自らを伝えるは、能動でも受動でもなく、再帰動詞的に表現される。中動相的な事態、反省的な自己限定でもある。ベンヤミンには、自己限定の傾向があり、純粋な始源の状態への志向が表われてきている。

ものの値段は一つではない?

ひとつの製品にひとつの価格というのが経済学の原則と言えるが、果たしてそれは普遍的なのだろうか。三越伊勢丹HDの前身である越後屋呉服店は“現銀掛値なし” で繁盛したのが由来という。定価を現金払いで売ることが、当時は画期的だったということは、そういう商習慣ではなかったということだ。現在でも神社で催されるだるま市や酉の市では決まった定価がもともとなくて交渉で価格が決まる。飲み屋(居酒屋チェーンではない)の“時価”のそういう面もある。ところが、現在、色々なところでそういうことが起こっている。例えば航空券、ホテルの宿泊予約は、日によって、予約方法によって価格が違う、というよりも、最初から決まった価格がなくなってしまったかのようだ。身近なところでも、缶ビールを買うときに、コンビニとスーパーの安売りやディスカウントストアとでは価格が違う。しかし、高くても手近なコンビニでひとつふたつを買う人は、手間をかけてひと箱まとめて安く買うことを選ばないことを納得している。ネット販売のそう。そこには、製品の価格だけでなく、わざわざ買い物に出かけたり、広い売り場で缶ビールを探して重い荷物を運ぶ手間も買い物価格に考慮されている、ということではないか。そこには、メーカーがものをつくったものが、ひとつの価格になるということが通用しなくなってきていると考えてもいいだろう。そうであれば、コストを下げることが単純に競争力を強くし、利益を高めることに結びつくということではなくなる。突き詰めれば、工業簿記という会計がメーカーにとって果たして有効なのかという疑問も湧いてくる。

2015年6月21日 (日)

山内史朗「天使の記号学」(13)

2.聖霊論の構図

第1章で見たように、祈りが神への伝達として捉えられれば、声に出す必要はないはずなのに、声に出すことが重んじられたのは、祈りは伝達できないからだと言うこともできる。祈りとは絆を作ることだ。では祈るのは誰なのだろうか。我々人間が聖霊を通して祈るのであるが、その祈りが生じているのは、聖霊の賜物によってであるから聖霊が祈っていると述べても良い。人間が聖霊を通して祈ることと、聖霊が人間において祈ることが同じだというのは何を意味するのか。聖霊は、人間の心の内に深く浸透し、心の自発的な働きと区別できないような形で内在するということだ。媒介が主体となっているのだ。ここで、人間が話すのではなく、言葉が話すというモチーフを思い出してもよい。これは、媒介と主体が相互浸透している事態の表現なのだ。

ここで、聖霊についてもう少し考えてみよう。「聖霊」とは、「聖なる霊」だが、「霊」とは何か。聖書的に言えば、人間の理解を越えた力をもって働く超自然的・超感覚的存在としての「霊」を表わす用法である。多くの場合、霊は、神自身がその超越性を保ちながら世界の中で力をもって具体的に働くあり方を表現する。端的に、神の本質は霊である、とさえ言われたりする。ギリシャ哲学が魂を中心とした思想であるに対し、キリスト教は、霊を中心とする宗教であると整理される場合もある。聖シメオンは父・子・聖霊の関係について次のように述べる。「私は言おう。門、それは子(キリスト)である。門の鍵、そは聖霊である。家、それは父(神)である。したがって、言葉の霊的な意味に細心の注意を払いなさい。鍵が開かなければ、何人もちちの家の中に入れない」。シメオンは、聖霊を光に喩えることもある。光の比喩において重要なのは、光は、<見えないもの>でもなく、見えることを生じさせるものであるということだ。隠されているから見えないのでもなく、かといって、光自身が見えるものとなっては、他のものを見えるようにすることはできないために、それ自身は見えないものとならざるをえないもの、それが光だ。見えるようにするものである以上、そのために見えないもの、言い換えれば、見えないことが見えることの原理でもあるようなもの、それが光だ。聖霊は、父(神)と子(イエス)の絆であるとも語られる。もちろん、神と人間、人間と人間の絆でもある。しかし、なぜ鍵が絆となりうるのだろう。鍵が絆となりうるのは、鍵が二つのもののどちらにも内在し、しかも同じ一つの鍵として両者に内在し、二つの鍵が一つになろうとして呼び合う場合だろう。ここにも、一なるものが一なるものとして多なるもののうちにあるという、イデア論の困難が見られる。

第二番目に触れておきたいのは、「私(=子)が父のうちにおり、父が私の内にいる」(ヨハネ福音書)という相互内在だ。分かりやすく言えば、右手を左手の上に重ねてみよう。右手が触れるものとなって、右手が触れるものとなったりもする。このような事態は、視覚においては生じにくいが、触覚においては生じやすいという。これは単なる転移現象や視点の交換といったものではなく、能動と受動という主語=実体論的枠組みが拭い難く染み込んだ日常言語をすりぬける事態なのだろう。「私(=子)が父のうちにおり、父が私の内にいる」ということにととまらず、人間が神のうちにとどまり、神が人間のうちにとどまることができるようにするのは、聖霊の故なのである。

この事態は「内在的超越」と重なると思われる。聖霊論には多様な論点が含まれ、明晰な理解を拒むものが多いが、私が聖霊論から取り出したいものは、相互内在または内在超越という論点なのだ。この論点には、聖霊論に固有なところもあるが、その中でも一般化できるところがあり、それをコミュニカビリティとして整理できると思われる。

 

コーポレートガバナンスそもそも(7)

コーポレートガバナンスについて、企業が生き延びること、企業の目的、存続と必然の関係にあるといっても、それは抽象的な、お題目にしか聞こえないだろう。会社法改正やコーポレートガバナンス・コード等の政府施策に対する議論で注目されがちなのは社外取締役の選任だろう。実際、昨年や今年の株主総会で社外取締役を導入する企業が多いという。それは、今後義務化されることを踏まえて、それへの対策として、つまり、お上からの押しつけに対して、いかに無難に切り抜けるか、というのが大方の本音というところだろう。一方で、経営の必要性から、戦略的に社外取締役でなければできない機能を導入させることだ。2012年日立製作所は3Mの元会長ジョージ・バックリーを社外取締役に迎えた。彼は、取締役会で提案された案件に対して、詳細な説明を求め、悉く駄目だしをしたという。取締役会は彼の経験に裏打ちされた真摯な議論に圧倒され、元3MのCEOという実績の重みから発せられた議論を尊重せざるを得なかった。その結果、それまで日立社内では半ば慣習化していた経営の意思決定に関して、根本的な反省を迫られ、みるみるうちに経営陣は変化していったという。それは、当時の川村会長による日立製作所の経営革命の大きなものとして働いた。

2015年6月20日 (土)

山内史朗「天使の記号学」(12)

第3章 聖霊とコミュニカビリティ

1.コミュニケーションの多層性

メタ・コミュニケーションは、コミュニケーションに関するコミュニケーションのことである。メタ・コミュニケーションは言葉で表現されるわけではない。声の音調や話し方などによって、言葉に付随するシグナルで表現される場合もあるが、多くの場合は非言語的に、つまり表情や身振りによって表現される。ところが、表現行為に二つのレベルがあり、両者が対立している場合、もつれを引き起こす。言葉では「食べていいわよ」と言いながら、眼が怒っている時、メタ・コミュニケーションはコミュニケーションの内容を否定し、「食べてはいけない」と述べているのだ。

レベルの違いによって、異なる内容が伝えられることは、何ら悪いことではない。むしろそのことによって、様々な事柄が同じ言葉によって伝えられるし、言葉は微妙なニュアンスと様々な効果を持つようになる。コミュニケーションとメタ・コミュニケーションは、ふだん、きわめて頻繁に行き来し、そこに笑いや冗談が生まれる背景をなしているのだが、そういった複数の層を推移するためのメカニズムがあるとすれば、そこはコミュニケーションとメタ・コミュニケーションに分かれる以前の、別の事件を想定できるかもしれない。

何かの用件を伝える場合、コミュニケーションの内容(メッセージ)が一番大事にされる。ところが、メッセージが強調される場合がある。宴会や葬式の場であれば、伝えられるべきメッセージは最初から分かっているから、メッセージよりも、言葉を交わすという事実の方が重要となる。また、初めて出会った人におずおずと話しかける場合、そこで何を伝えられているのか。このようなところで目指されているのは、コミュニケーションの結果として伝わるメッセージでも、コミュニケーションの成立によって示される共同体性でもない。そこにあるのは、たぶん、コミュニケーションを求めるコミュニケーションだ。その場合、言葉の後にあるのでも、言葉の中にあるのでもなく、むしろ、コミュニケーションの成立する可能性の条件が、コミュニカビリティということだ。もし、コミュニカビリティの層を認めてよいとすれば、人間の行なうコミュニケーションの多くは、案外コミュニカビリティを伝えるためになされている、と私には思われる。

コミュニカビリティの層があるということは、伝達能力の不完全性によるのではなく、伝達に備わる必然的条件なのだ。天使主義は、このコミュニカビリティの層を人間に課せられた不完全性のしるしとして取り除こうとする。コミュニカビリティとは、伝達の能力といったものではない。可能性の条件としてあり、伝達に先だって成立していなければならないが、実は、初めから与えられているとは限らないものなのだ。或る出来事の成立の条件が出来事の後に、遅れてくるしかないものだ。だからこそ、人間は未来に対して背を向け、過去を見つめつつ、後ずさりしながら、未来に進んでいくしかないだろう。コミュニケーションもまた、メッセージを伝えるために、前向きに進む行為なのではなく、後ずさりしていく行為なのかもしれない。

言葉を学ぶということを考えてみよう。単に言葉をオウム返しに模倣するだけでは、言葉を学ぶことはできない。「チョーダイと言ってごらん」と言われて、オウム返しに「チョーダイと言ってごらん」と答えるようでは言葉の使い方を学んでいない。学ぶことができるためには、「あげる」と言われて「ください」といえるように、視点の交換可能性がなければならない。これを可逆性・反転可能性といってもよいだろう。「チョーダイと言ってごらん」と言われて、「チョーダイ」と言えるためには、言葉の中に、言葉自身の指示と言葉以外のものの指示という、最低限二つのレベルがあることを予め知っている必要がある。言葉を学ぶとは、言葉の使用規則を学び、その規則に従うことではなく、その規則を適用することだ。模倣によって、規則を学ぶことはできるが、それだけで言葉を使用することができるようにならないのは、規則とは、常に適用可能性の領野を伴っており、規則の選択・排除・除外・適用ができるようになっていなければならないからだ。

ここにあるのは、欲望の基本的文法との符合である。欲望の場合と類比的に、メッセージを伝えることは、コミュニケーションの堕落に他ならないと考える立場もあるほどだ。メッセージを伝えることが、言葉の本来の機能であり、メッセージ以外のものは付随的なものに過ぎないと言う考えは、まさに天使主義的言語論だ。

コーポレートガバナンスそもそも(6)

今ある制度やシステムには、元来は必要にかられての要請により生まれたもの。国家や法律で押しつけられたものではない。コーポレートガバナンスは、中世から近世の重農主義の統制経済のなかでLIBERTY(特権としての自由)な経済活動を都市が領主から特許として獲得し、実務部隊がギルドで、特許を受けた人々が経済活動を展開した。ギルドが独立を保つための自律のためにガバナンスがあった。と妄想する。

そのような出自を想像してみれば、ガバナンスは集団が生き延びることに直結している。だから、現代の企業にとってのコーポレートガバナンスは、押しつけられたものではない、と考えることもできる。具体的には、企業が生き延びること、企業の目的、存続と必然の関係にある、という考えもある。

 

2015年6月18日 (木)

山内史朗「天使の記号学」(11)

5.快楽の技法

中世では、肉体を罪の源泉と捉える発想は馴染まないことを見た。なぜ人間は、肉体から湧き起こる快楽を罪悪と見なすのだろう。罪悪感は、行為の後においては後悔の念を引き起こす。罪悪感は、未来の行為に対する倫理であるより、過去の行為への贖罪だ。過去の行為への贖罪が、繰り返される未来の行為へと向けられる場合、それは反復強迫を引き起こし、同一の行為を繰り返すことがそれ自体で逸脱となり、同一の行為を繰り返しながら、退屈な反復に堕することなく、増大する逸脱によって、ますます大きな快楽を得ることができる。罪悪感とはマンネリに陥ることなく、退屈な日常から大きな快楽を得ることができる、案外打算的な心的メカニズムだ。罪悪感を悪用することで、無際限の快楽が得られるのだ。

快楽もまた、欲望と対象の間に成り立つ、目的連関の内にある以上、「秩序連関」において考察するしかない。中世においては、快楽は「使用」されるべきで、「享受」されるべきではないという言い方がある。これはアウグスティヌスに起因するもので、かれは次のように言っている。「享受するとは、あるものをそのもの自体のために愛し、愛によってそれに固着することである。他方、使用するとは、君の愛するもの愛に価する場合、その愛するものの獲得を目指してそれを使用することだ」一般的に述べれば、手段・道具は使用され、目的は享受されることになる。使用と享受の対比が意味を持つのは、人間の行為における目的連関のプロセスが、無限連鎖ではないことに由来すると思われる。最後に得られる目的が、至高の目的であるならば、先立つ行為が手段で、後続する行為が目的である。この後続する行為も後に来るものの手段となるような連鎖がドミノ倒しのように成立すればよいが、人間の生において最後に得られるもの(死、場合によっては世界の終末)が至高の目的とは言えるはずもない。目的を先送りにするような枠組み、後件が前件を意味づける枠組みは最後には破綻してしまう。使用と享受の枠組みで言えば、自己の生を「使用」すべきであると述べることは、生を「使用」の連鎖、手段─目的の連鎖に還元しようとするのではなく、逆にそのつどの行為における「享受」の可能性を示したものと読むことも出来る。

このように見た場合、快楽を「使用」する、つまり手段として扱うことは、快楽に翻弄されない「清らか」な生き方にもなるのだろうか。快楽は、フロイトによれば、緊張状態からの解放のこととされる。奇妙な説明にも思われるが、空腹であれ、性欲であれ、快感を突き詰めて考えて、それ自体で定義しようとするとそうなってしまうのだろう。現実的な感覚のレベルで考えれば、確かにその程度のものだ。フロイトが快感を定義する場合、緊張からの解放を語ることが多いとしても、性の欲動は障碍として現われ、絶えず緊張を伴い、そこからの解放が快として受け止められるということの方が主眼だったと思われる。つまり、快を求めることが行為の中心をなすとしても、快そのものに快を求める欲望の本質が見出されるのではなく、快を準備する形式、生活の形式の方が重要だ、ということだ。充足の可能性の形式の方が重要なのかもしれない。充足の結果与えられる快楽は、私が見ている「赤色」と他者が見ている「赤色」を比較できないのと同じように、他者の快楽と比較できない、したがって言説の秩序の中に収まらないということだけでなく、充足の可能性の形式は、人間の欲望が欲望である限り、それ自体で享受の対象となりうるものなのである。充足の可能性の形式にこだわるのは、充足の結果にこだわるにしても、欲望の対象の獲得は偶然的状況に左右され、思い通りにならず、結局対象によって翻弄され、対象に隷属することになりやすいからだ。

このように見てくると、中世とは快楽の拒否された時代と言う常識的な見方はどうなのか。中世の欲望論を考えた場合、そこにあるのが、放縦の禁止と中庸の勧めという程度のものとは思えない。痛みや熱さと違って、快感に対応する感覚刺激はない。もし快感がそういった感覚刺激から自動的に得られるものであれば、そこに倫理的なものはあまり関わってこない。快楽には「文法」があり、文法は学ばれなくてはならないが、あたかも学んだものではないかのごとく主体に根づき、しかも文法が一番うまく機能しているは忘却されている状態であるというのと同じ困難がある。文法が忘却されねばならないというのは、言語を話している時にはっきり現われてくる。文法を意識し、それに基づいて話している状態では、流暢な話し手になることはできない。にもかかわらず、「文法」は学ばれねばならない。そして「ハビトゥス(習慣)」として定着しなければならない。そういったものを学習させる一つの方法は、初めから抑圧されるべきもの、穢れたものとして教えることだ。だからこそ快楽にも文法あるということになる。

なぜか或る対象がむやみに欲しくなることがある。ところが、その対象は、なぜそれを求めるのか訊ねられればよく分からなくなるような渾然としたものとして与えられる。そこで欲望の曖昧な対象が与えられ、それに呼応して、曖昧な欲望が現れる。そこに作用の充実が生まれる。その充実を強いものにしようとすれば、つまり、作用の強度を高めようとすれば、作用に大きな備給を与えなければならない。そのことは、通例、対象と欲望の分節化を通して行なわれる。快楽とは、対象に向けての欲望の備給に相関するものだということだ。たとえば、コレクターの快楽は、見出された対象の内に原因があるのではなく、対象に価値を付与しているからであり、価値あるものへの欲望を備給しているからなのだ。備給と快楽は相関しているのだ。快楽の形式は、次のようになるだろう。或る対象に備給が行なわれ、欲望の対象がそこに現れ、その対象を獲得することによって、初発的な快楽が生まれる。その快楽によって、さらに対象への再備給が行なわれ、より大きな快楽が得られるというように、対象への再備給が繰り返しなされることによって、快楽は強度を強めていく。その際、再備給は対象以外のものに分散されてはならない。対象への集中こそ、快楽のための必要条件だ。

七つの大罪をめぐる議論は何を述べていたのだろうか。私はそこに可能性の条件をめぐる議論を見て取りたい。七つの大罪も再備給の形式を持っていた。しかし、大罪においては、対象の獲得がさらに欲望をかき立て、対象から遠ざかってしまうのに、秩序連関に収まる再備給は、対象に近づく。両者の最たる違いは、初期条件が仮想的なものであっても、受容するからあるのだろう。この初期条件は多分に身体に根ざしている。話が面倒になるのは、この初期条件が言葉やコミュニケーションの可能性の条件にもなるからなのだろう。快楽においても、快楽は個人的状態ではないかもしれない。つまり、快楽の交流を考察の中心とした場合、快楽が対象の獲得によって生じる個人的状態ではなく、充足の可能性の形式の共振によって生じると考えられるからだ。結局、対象・事物・目的によって拘束される思考法は、かえって対象を見失い、対象に至る道筋から逸脱しがちだ。再備給によって生じる欲望の濃密化は対象から離れがちなのだ。再備給によって生じる、備給の連鎖は、通例であれば、無限に続くことはなく、終極を有するのに、欲望の文法に終極が組み込まれていない場合、擦り切れたレコードのようにおなじミゾを走り続けるしかない。

人間の欲望は、人間の作り出した虚妄であり、そこから覚めることが悟りであると考えられるような、安直な唯名論が、人間の心を誘惑し続けてきたように思われる。或るものの本質や「…とは何か」への答えがないとしても、だからといってそこから、本質はないという結論が導かれるわけではない。人間の欲望には迷い・幻想といった側面がきわめて強く見られる。だから欲望の対象の本質などないと言うことは簡単なことだ。しかし、問いの向こう側に答えがないとしても、といの手前に別のものが待ち受けているかもしれない。言葉の手前にあるものが「コミュニカビリティ」であり、肉体の手前にあるものが「身体図式」だ。そういった「手前」にあるものとは、決して<見えるもの>の背後にある<見えないもの>なのではなく、<見えるもの>の手前にあり、<見えるもの><見えないもの>を成立させるものであるがゆえに<見えないもの>なのだ。

コーポレートガバナンスそもそも(5)

これは、想像というか妄想の部類。中世から近世の西欧で、国家レベルつまり行政がタッチして経済や金融、流通のインフラが整備されていないで、人びとが地域なり血縁なり職業なりの紐帯で集団を形成(社会)し、そこで代替的な限定されたインフラを運営させていった。そういうことであれば、運営の維持のために自主的なガバナンス、とくにギルドなんかは国王から特権を受けていたのであるので、なおさら、例えば、メンバーの掟破りを防止したり、メンバー以外のフリーライダー(ヤミ業者)の排除などを自分達でしなければならなかった。いってみればガバナンスというのではなかったか。最初は規模が小さかった経済事業の市場は、農業技術の進展で余剰生産が生じるにつれて、徐々に拡大ということになれば、新規参入が出てくる。そういう新興業者に対して、フロンティアーだったギルドは特権を維持することで、競争の優位性を保とうとする、そのためには結束を固めることが必要で、ガバナンスは彼らが生き残るための手段のひとつだったのではないか。

2015年6月17日 (水)

山内史朗「天使の記号学」(10)

4.欲望の充足可能性

人間的欲望においては、欲望の対象は始めにおいては、曖昧な姿でしか登場しない。対象のあり方が曖昧なもののためなのだろうか。人間的欲望において、その対象は、常に他者から与えられる。そのとき、一つの問題点として、人間的欲望において、欲望を充足するための能力・形式が与えられて、欲望の姿が明確になると共に、同時に欲望の対象の姿も明確になっていくということがある。若者が「自分が何をしたいのか分からない」というのは当然のことだ。なぜならば、人間的欲望は、充足の形式が整っていくにつれて明確になっていくであり、対象を獲得することが快楽の頂点を形成するのではなく、充足の形式を整えていく過程が、欲望の享受ということを引き起こすからだ。欲望は充足の形式が漸進的に形成される過程の最後の段階において、確定した姿をとる。つまり、人間的欲望において、欲望は一番最後に現れる。その欲望を初めから確定したものであると考え、欲望の対象はぼんやりしか見えないことにいらだち、既製品の目標を欲望の対象とかることは、天使主義に陥っているのかもしれない。

なぜ欲望においても天使主義が広がっているのだろうか。現代は、「もの」に満ちあふれている。現代は、欲望が人間に満ち溢れた時代にも見えるが、逆に欲望を満たす対象はふんだんにあり、そのためにかえって欲望が不足している時代なのだ。ところが、大量消費社会においては、かつてより消費の欲望が増加していなければならない。豊かさの中で、豊かさゆえに、欲望において貧しくなるように人の心を動かさねばならなくなる。さもなくば、消費社会は成り立たない。大量に「もの」があふれている時代で、欠如・不足に基づかないで、欲望を喚起するにはどうしたらよいのか。

欲望の対象における戦略が使えなければ、欲望の充足の形式に訴えるしかないだろう。欲望の充足の形式に訴える戦略は、基本的に人間的欲望のすべてに適用できるものである。というのも、人間的欲望の対象は、「もの」が事物として不足していることから生じるのではなく、「もの」を記号と見なし、そこに意味や価値を付与することから生じるのだから。つまり、人間的欲望においては、自然的欲望の場合と同じように、不足している、欠如しているが故に、その対象を求めているのだというように、欲望の持ち主に思い込ませながら、充足の形式においては、自然的欲望と違ったメカニズムで欲望を喚起していくからだ。そして、理想的な欲望喚起システムは、対象を獲得することで、より多くの欠如を生み出すものだ。このシステムの中では欲望は死ぬことがない。

欲望の充足の形式についての考察は、中世における欲望論のひとつのモデルを見出すことができる。キリスト教倫理においては、七つの大罪がある、以下のものが含まれる。高慢、貪欲、嫉妬、大食、怒り、怠惰、淫欲。この七つの大罪が罪であるのは、対象の選択に関してではない。対象の選択に関しては普通の欲望の場合と同じであり、大罪たる理由は見当たらない。トマス・アクィナスによれば、七つの大罪が罪であるのは、節度・節制・中庸を逸脱しているからだ。節度を守ることは案外難しいことだが、節度とは、肉体の健康を損なわない限りにおいて、社会の秩序を犯さない限りにおいて、法律に抵触しない限りにおいて、律法に反しない限りにおいて等々様々に考えられるが、どれなのだろうか。このことは、七つの大罪において、度を越すことがなぜ罪なのかを考えることから示される。トマスによれば、欲望とはある目的に秩序付けられているものだ。この目的連関の関係は秩序連関と呼ばれる。「秩序連関」という関係において、作用と対象を取り出した場合、対象が作用の方よりも、優位に立つとされる。秩序連関とは、命令が見出されることだが、対象の方が先立ち、作用のほうにいわば「命令」し、そのことによって、作用が秩序の中に収まる、ということだ。欲望は、このような目的への秩序付けによって、尺度と限界が与えられる。たとえば、我々が空腹の時、食べ物を欲するのは、食べることや食べ物が目的なのではなく、空腹がいやされるためだ。空腹には自然的限界が与えられている。それ以上に食べる動物は聞いたことがないから、秩序に反して食べるというのは人間だけがすることになるだろう。このように、限界を越えること、度を越すことは、節制に反し、秩序連関、その中でも特に目的連関の秩序を破壊してしまう。目的連関の中に収まる限り、フィードバックが作用して、限界を越えてまで、欲望が残存することはない。ところが、この目的連関からはみ出れば、もはや欲望を制御する機能は働かず、欲望は果てしない自己増殖を繰り返すことになる。

このように、対象によって安らぐことなく、歯止めなく肥大する欲望は、当初の欲望の姿とは異質な悪魔的なものに変わってしまう。自然的限界が機能するのは、人間の肉体に生理的な限界があるからなのだが、目的連関をはみ出した途端、人間は肉体を有するのに、肉体を持たないかのように振舞ってしまう。生理的限界に「なぜ?」という問いを突きつけ、その答えのなさ、その結果、「なぜ?」という問いが刃、しかも諸刃の刃となって、人間の限界を突き破ってしまう。

肉体が欲望の源泉で、しかもそれゆえに罪の源泉であるというのではない。欲望はそれ自体では罪も穢れもないものであって、罪や穢れに転じてしまうのは、欲望が肉体から浮遊し、人間的尺度を逸脱すること、限度を受け付けないことによる。肉体の存在こそ、欲望に正しい路を歩ませる保障なのである。もし肉体が大罪への歯止めであるとすれば、肉体が罪の源泉であるなどという発想はどこから生まれてきたのだろうか。七つの大罪が大きな罪であるのは、欲望の充足性を破壊してしまうからだ。七つの大罪に陥ったとたん欲望は秩序から逸脱したものとして、人間に制御できる欲望ではなくなってしまう。その際、七つの大罪を措定することは、決して欲望の腐海を絶滅しようとしているのではなく、人間を守り育てるものに引き戻そうとしているのだ。

では大罪に陥らないようにするにはどうしたらよいのか。七つの大罪は、それぞれある欲望を基本型としていたが、大罪を予防するためには、萌芽となる欲望を消去する方法も考えられるが、肉体がある限り欲望は残る。ここまで見てきたように、大罪は対象との間の目的連関を失うことで生じていた。対象の断念は必ずしも大罪の予防策とはならない。大事なのは、欲望が秩序連関の内部にとどまり、充足する形式を維持することだ。

コーポレートガバナンスコードそもそも(4)

昨日のネタは、トクヴィル「アメリカのデモクラシー」やウェーバー「プロテスタンティズムの教派と近代資本主義の精神」。アメリカからの視点で見えてくる。ヨーロッパでは、見知らぬ人同士でも同じフリーメイソンであれば、信用できる。そこに、取引の信用のインフラやリスク回避のシステムが、社会でつくられていた。会社もその一翼を担うものであったといえる。一方、新大陸のアメリカでは、ヨーロッパのような伝統的な社会的な紐帯がなく、個人が孤立した裸の状態で、いわばバラバラに投げ出されたようなもの。だからこそ、人との関係を強く求める傾向が自然と生まれた。その結果、次々と集団を作っていった。考えてみれば、このように次々と集団組織を作った伝統は、現代のヴェンチャーを次々と立ち上げる精神的傾向に通じているのではないかと思う。そして、アメリカ経済の自由市場は、そういう裸で孤独な個人が孤立しているのがルーツと考えてもいいのではないか。そのようなアメリカで会社というのを考えると、ヨーロッパのとは出自が異質なのが容易に想像できる。

2015年6月16日 (火)

山内史朗「天使の記号学」(9)

3.欲望の己有化

欲望とはなぜこんなに弱いのだろうか。

生命が一つの欲望である以上、そして地上の生を絶滅させることが至福の状態であると考えるのではないかぎり、欲望が存在することは現世が存続するための必要条件である。その際、存立の必要条件が悪、つまり必要悪なのかは問題ではない。重要なのは、必要条件を悪として語る言説が、なぜ流通しているのかということだ。その背景にある、欲望を悪と見なすことの一つの源泉は、人間的欲望が、欲望への欲望であるということである。動物は、自らの内に欠如したものを補うために対象を求める。空腹であれば食物を、乾きであれば水分を求める。「もの」への欲望を持つことがその特徴だ。しかし、人間は何も欠けていないのに欲望することができる。人間は友達が手に入れたおもちゃを見て、何かを欲しがることができる。嫉妬・羨望において、対象が求められているのだろうか。求められているのは、他者の欲望であり、場合によっては自分への他者の欲望を欲望することも生じる。

で、欲望への欲望はいかにして学ばれるのか。多くの人は、欲望を主体と対象を結びつける単純な直線で表現する。主体は自発的かつ自由に対象を欲していると思う。しかしながら、そもそも人間は欲望の主体となり得るのだろうか。と言うのも主体は自らの欲望を対象との関係だけに基づいて抱くことはできないからだ。生理的欲望・欲求の場合であれば、対象との間に、何も介在させないで欲望を持つことができる。しかし、人間に関わる欲望は、欲望の主体と欲望の対象以外に、欲望の媒体・手本・モデルが必要となる。そして、ここでの「手本・モデル」とは、自分がそうなりたいと思っている他者、その人の欲望を模倣しようとしている他者である。ここにある「欲望の三角形」においては、欲望の主体─欲望の媒体─欲望の対象といった三角関係が成立し、主体は対象を欲望していると錯覚しているが、実は媒体の欲望を模倣しているに過ぎない。つまるころ、欲望とは他者の欲望の模倣であるということだ。地部下の内の秘められた欲望、それは借り物なのだ。自分のものでないことに、半ば気付いているため、主体は自分のものであることの偽りの証拠として、自分に対して、苦しんでいることを演技しているのかもしれない。苦しみとは、一般に、自分が或る問題の当事者であることの証拠となることだ。自分のことでなければ、誰も苦しまない、苦しんでいるとすれば、苦しんでいる以上、自分の問題だと思い込める。重要な論点はその先にある。欲望の源泉が他者にあるとしても、欲望は個体化され、欲望の安定した帰属先を探し、そこに住まう方法を見つけなければならない。換言すれば、欲望は「己有化」されなければならない。他者の欲望によって支配されている「主体」が、欲望の真の源泉であって、その欲望を支配しているといえる枠組みを、欲望の方が供給しなければならない。だからこそ、欲望は外国語と同じように学習されなければ、身につくものではない。欲望とは一種の能力なのだろう。

欲望が主体に帰属するための最も大事な条件は、外部に由来するものが、内部に取り込まれ、起源が忘却され、内部から沸き起こること、いや自ずから沸き起こることだ。その場合にこそ、欲望は自分の欲望となる。欲望を模倣したとしても、対象の獲得によって、喜びが込み上げてくるのでなければ、欲望の主体となったと言えないであろう。

 

コーポレートガバナンスそもそも(3)

 

今日は脱線。社会科学を勉強すると、日本には、近代には国家はあったが、ヨーロッパのような社会という集団がなかったとか、国民と国家が必ずしも一致しないということは見られなかった、という議論に遭う。丸山真男門下のような近代主義的な影響の強い論者たちは、そこに日本の後進性を指摘する。しかし、中世から近世にかけてのヨーロッパの国家体制を見ると、例えば、日本の戦国大名や近世の太閤検地のような土地の詳細な掌握や江戸幕府が統一貨幣による通貨政策を現代の政府と同じように実施していた、というような国の隅々まで統一的な行政支配は出来なかった。例えば、絶対主義のシンボルとも言われるフランスのブルボン王朝のルイ14世でさえ、フロンドの乱でパリから逃げ出したりしている。財政は逼迫が常態化し、江戸幕府の萩原重秀のように通貨管理によって富を創造することもできなかった。つまり、ヨーロッパでは近代にいたっても行政が行き届かず、空白がもともとあって、そこで人々が生きていくために社会を形成せざるを得なかったと考えてもいい。そういう環境を考えると、アソシエーション、とりわけギルドが作らざるを得なかったと考えることも可能ではないかと思う。

 

2015年6月15日 (月)

山内史朗「天使の記号学」(8)

2.欲望の構造

欲望は、希望と同じように本来臆病なものだ。欲望は自らが弱いものであることを知っているがために、欲望を持つ人間が欲望を恥じるように仕向け、自ら隠れる。その場合、うまく身を隠した欲望は、欲望の持ち主に、他人がその欲望の存在を知ることを恐れるようにしむけ、何かが隠されていることを示すことで、自分の存在を示す。だからこそ、欲望の主体は、欲望が存在しないときも、存在していると錯覚できることになる。隠されていることが欲望のしるしとなれば、欲望が不在であっても、あたかも存在しているかのような仮象を与えることができるのだ。一番重要なのは、欲望の主体に、欲望が不在のときも、欲望を所有しているように誤解させることだ。つまり、忘却を強制されながら、その強制をも忘却しなければならないシステムの中に身を隠すのが欲望の本質なのだ。そうでなければ、我々は欲望の主体となり得ないし、そうであるがゆえに、罪が不在であっても、罪悪感を起こすことができる。

欲望の弱点は、欲望の持ち主にとっては、その欲望がいかに私的で、特異的で、恥じるべきで、隠されるべきものであるように映じているも、すべてあまりにも一様で、退屈なくらいワンパターンで、月並みで、凡庸なことだ。凡庸さが知れることを恐れるものは、他者から自らを隠すことをたくらむ。隠すことによって独自性を保つことができるからだ。その際、罪悪感もまた、欲望の凡庸さを隠す、巧妙な仕掛けである。罪悪感の存在は、自己の存在を、世界から際立ったものとし、自分が世界で唯一のものと言う感覚を与えることができる。罪悪感と欲望は敵対するものではなく、裏で結託した共犯者なのである。しかしながら、欲望の持ち主・主体が、罪悪感・良心と欲望の共犯関係を意識することがあってはならない。自分が選んだことが、外から強制されたものとして与えられることを望んでいるためなのだろうが、この隠された共犯関係を「欲望の文法」と言うこともできるだろう。

自然的欲望であれば、与えられている目標は、個々の人間に予め与えられている生理的・身体的条件と連関している。空腹であれば食べ物を欲する。生理的に何かが欠如している状態から、当の対象に向かうことは法則的に決まっており、その法則は肉体に初めから備わっている。このような欲望においては、欲望の対象は初めから明確な姿で与えられることになる。したがって、自然的欲望において、欲望の対象が何であるか迷う必要はない。さらに、自然的欲望を充足の可能性という点から見てみよう。この場合、欲望を充足する可能性の条件は整っている。欲望の対象が与えられれば、欲望が充足する形式、充足可能性の形式はそこに見られるのだ。欲望充足の形式は、対象の獲得からは独立しており、充足の形式の確立そのものが、ある種の欲望を充足するのである。

ところが、はじめから充足する可能性の形式を備えていない場合がある。例えば、普通の酒好きの人間と違って、酒を飲む行為そのものを求めているかのように、酔いつぶれるまで酒を飲むという類の人間である。そこにあるのは、欲望を成立させる初期条件も、欲望の対象もありながら、充足する可能性を持たない欲望、要するに、欲望の充足する可能性を備えていない欲望だ。このような欲望において、何を求めるかが問題なのではない。求めたものが手に入っても、心が渇いたまま、充足しないままであること、そこに問題があり、しかも充足できると思われた対象の獲得が失望しか生み出さず、「欲望の達成」によってより深い失望につながることが問題なのだ。もしかすると、どのようなものが得られても充足しないままでいるという罰を自分に課しているのかもしれない。そこでは、欲望は欲望自身に向き直り、欲望の形式を享受することなく、欲望の対象にのみ拘泥し、しかも対象からは失望しか手に入れられない、という構図がある。充足の可能性の形式、ここに現代における欲望の問題の要があるようだ。

自然的な欲望に対して、自然的でない欲望としは、名誉心、金銭欲、所有欲、支配欲、権力欲などがある。そして、性的欲望・性欲もまたけっして自然な欲望ではない。自然物ではない欲望、これを「人間的欲望」と言うこともできるが、この欲望において、その機序においても、充足の可能性の形式においても、虚構の側面が満ち溢れている。

コーポレートガバナンスそもそも(2)

教科書なんかでは株式会社の第1号は17世紀初頭の東インド会社だと書かれているのを見る。そのイギリスの東インド会社に先んじてオランダが東インド会社をつくった。その組織や運営形態はオランダの位置するネーデルランドから北ドイツ沿岸地方に中世から勃興した自由都市で企業活動を行ったギルドに由来するという。封建領主の規制経済のなかで団体で自由な活動の特権を獲得した同業者の集団。アソシエーションと呼ばれ、フリーメイソンもその一種で、経済活動に限ったものがギルドと呼ばれた。ギルドは自立した業者の団体で、メンバーは出資しつつ団体の特権的な地位を保持する事業運営を行った。方針は総会での決議で決めた。しかし、その特権に胡坐をかくものは廃れる運命にあった。海外貿易の進展でギルドに入れない新興業者が、今のベンチャーのように新たな団体組織をギルドを参考に作り始め、それを国家が認めざるを得ないほどになったの結果のひとつが東インド会社。

2015年6月14日 (日)

山内史朗「天使の記号学」(7)

第2章 欲望と快楽の文法

人間は神でも天使でもない。したがって、人間のうちに<>は必ずある。ところが、天使への憧れがある場合、求める姿と現実の落差に落胆するためなのか、人間はことさらに自分の肉体のうちに<>を見出そうとする。穢れた欲望、穢れた肉体、なぜそうまでして<>を見出そうとするのだろうか。

1.現代のグノーシス主義

人間は肉体を有し、肉体を有するがために、欲望を有する。欲望とは本来生命を維持するために存在するものだ。生命が尊いものならば、欲望もまた尊いものと考えることもできるはずだ。ところが、自らの欲望が、何か醜いと感じるときがある。欲望が醜いものであれば、肉体の命が欲望によって維持されるものである以上、生命そのものが醜いものとなりかねない。生命の誕生が性的欲望と性的行為を始まりとしている以上、生命の誕生は穢れた、醜いものになってしまう。数ある欲望の中でも、性的欲望だけが醜いものということなのか。人間にはなぜか罪悪感がつきものだが、人間が人間として生きるために持たざるをえない罪悪感、もしそれが、自分が犯した罪からしか生じないとすれば、罪悪感を求めて罪を犯すしかなくなってしまう。しかし、なぜ人間だけが罪悪感を持ちうるか。

欲望や快楽を醜く穢れたものと捉えることは、人間の本来的な姿を天使と考える誤謬が控えているからではないのか。欲望を醜いものとして捉えることが、誤謬であるだけならばまだよい。欲望を醜いものと捉えることは、欲望を消滅させるのではなく、かえって欲望を主人とし、欲望に囚われ、欲望に支配され、欲望を守り育てることになってしまうようだ。そうなると、天使になろうとすることで、人間は欲望を限りなく肥大させることができる。欲望を醜いものと捉えれば、欲望の充足が欲望の消失ではなく、欲望を強めることができる。

グノーシス主義は、(1)現実世界を悪に満ちたものとして非難し、拒否する、(2)魂と肉体との結合を諫め、肉体から離脱することを勧める、(3)この世界・宇宙の創造者を、悪の張本人として責める、(4)世界の生成と完全な消滅を説く、(5)世界創造者を魂と同一視する、(6)宇宙創造者の魂に、人間の魂と同様の情念を帰す、などである。グノーシス主義は、混乱と悪に満ちた現実を呪い、精神と身体を分離させ、精神を神のごときものと発想するわけだが、そこにあるのは徹底した破壊衝動である。世界の破壊と言っても、必ずしも暴力的な姿をとるわけではない。その一つとして性的禁欲は、生殖を徹底的に禁止することで人類の絶滅につながる。世界から逃避し、拒否し、破壊するための方法となる。自己への憎悪、世界への憎悪、肉体への憎悪、性への憎悪、それらはすべて一つの思考に帰着するのだ。

かといって、暴力性がグノーシスの教義そのものに満ち溢れているのではなく、かえってイノセンス・無垢を主要モチーフにしていることは指摘しておく価値がある。グノーシス主義は、人間の内に霊・魂・肉体という三元性を見出し、魂は本来霊の仲間であり、天上的なものなのだが、肉に引きずられて、物質的世界に幻惑されていると考える。そこには、肉体を滅ぼせば、魂は自分が霊的なものであることに目覚め、霊とともに天上に還っていくというモチーフが見られる。原初にあったイノセンス、いかなる行為によっても損なわれることのないイノセンス、そのイノセンスが救済の根拠となるという構図は、実は現代にも見られる。グノーシス主義は、要するに、世界を巨大な悪と見て、それを拒否あるいは逃避して行きようとする考えである。それは、すべて世界が悪くて、自分たちは無垢だという発想だ。古代のグノーシス主義は、たしかに神を中心とはしていたが、至高神が実は人間の本来の自己の別名に過ぎないのであるから、絶対的人間中心主義ということになる。しかも、私は神なのだという認識によるばかりでなく、人間の生の繰り広げられる世界を拒絶しようとするのだから、同時に独我論にもなってしまいやすい。

ここでは、グノーシス主義と天使主義をほぼ同じ潮流にあるものとして互換的に用いるが、無垢で弱いものという自己把握から生じてくる世界の破壊、受動的には世界の拒否がどのようなメカニズムを有しているかということが問題だ。

コーポレートガバナンスそもそも

コーポレートガバナンスについて云々するのに先立って、そもそも株式会社って…というそもそも論を議論してもよいのではないかと思う。寡聞ではあるが、株式会社のルーツとして考えられているのは、いくつかある。ひとつはクァトロチェントのルネサンス華やかなりしイタリアの繁栄を支えたのは東方貿易であった。ヨーロッパの毛織物などとビザンチンや東方アジアの香辛料や財物の交換である。輸出する物品を大量に仕入れなければならないし、それを現地に持って行かなければならない。その場合、海路であれば船団を組み、陸路であれば隊商を組んだ。輸送だけでなく、海賊や盗賊の脅威への備えも必要で、小さな軍隊のようなものだったという。と考えると、一度の交易は巨大なプロジェクトで、そのために多額の資金を要し、それを多数の人からの投資で募集し、行って帰って、持ち帰った物品を売り払った成果を投資してくれたに配当を付加して返済した。その投資と配当のやりとりが、株式会社のシステムのルーツのひとつと言われている。多分、マルコ=ポーロが中国にいったのもその例だろうし、コロンブスはスペインのイサベラ女王の出資でアメリカを発見したので、アメリカはスペインの資産となった。

2015年6月13日 (土)

山内史朗「天使の記号学」(6)

5.言葉の受肉

祈りにおける言葉も出来事としての側面を有していた。それは外的世界に物理的現象として現われ、物理的な変化を引き起こすということにとどまらず、内部をも調えるものだった。このような過程は、物質的ならざるものが物質的なものとして現象することである以上、受肉と呼ぶこともできる。言葉は出来事として生み出されてしまえば、話者の自由になるものとしてではなく、話者を拘束・束縛するものとして存在し始める。約束は話者に義務を負わせる。受肉という過程は一般に、外に向かう外化・物質化の側面と、自己への立ち返り・自己帰還の側面がある。言葉とは、外部に現れた心の内容であり、語る者もそれを見るとともに、聞く者もそれを見る。

現代に限らず、古代から、物質・肉体・感覚・情念・欲望等を、それどころか場合によっては現実世界まで嫌悪する系譜が存在する。ここで問題なのは、ここに挙げられた諸性質が物質的なもの、その対極的な性質が精神的なものという前提の上で、物質的なものに悪が見出される場合、精神的なものが望ましいと考える発想そのものだ。そこには、純粋主義・潔癖主義という危険な発想が潜んでいる。AとBが反対である場合、すべてのものはAかBのいずれかであるし、AでなければBであるという排中律的発想そのものが危険なのだ。哲学の言葉は、AでなければBであるという排中律的発想をとらず、矛盾そのものが成立する次元まで入り込みながら語る。

このような曖昧なもの、両義的な領域は名前を与えることは出来ても、述語を与えることは出来ない。名前はあっても、語りの地平にもたらし得ないものは多数存在する。「私性」、「個体性」、「生命」といったものはそのようなものだろう。このようなものは概して、或る一時点で明確な概念的理解が得られるようなものではなく、むしろ、過程を通してしか現象しない。そして、それらのものは知性によって概念的に把握されると考えるのではなく,この過程を担う力を意志と捉え、その意志に規定性の源泉を認めるのが、いわゆる主意主義である。そして、そのプロセス・過程のリアリティ、移ろいの中でしか経験されないリアリティの確かさを主張するのが、実在論のはずだ。

このような語りえぬことも、出来事として受肉し、目に見えるものとなり、語り得るものとなる。もちろん、語り得るものとなったときに、語り得ぬものであったときに感じられた、「得体の知れないところ」は消え失せ、泥や汗や涙や血にまみれた世界、偶然性の世界に産み落とされる。一般に受肉することは、穢れたもの、堕落したものに陥ることである。しかし、穢れた現実・世界を拒否し、失われた純粋性を希求し、そこに回帰しようとするのは、傲慢の罪であろう。受肉への呪詛は、世界の存在への呪詛となるからだ。天使への憧憬、「透明な存在」への憧憬は、喪われた全能状態へのノスタルジー、そしてこれと表裏をなす、途方もない呪詛を源泉にしている。

2015年6月12日 (金)

山内史朗「天使の記号学」(5)

4.祈りの言葉

前節のような言葉の捉え方は、言葉のパフォーマティブな機能の重視、いわゆる「言語行為論」に近いものだ。言葉が出来事であるという理解は、聖書の「光あれ」という神の言葉がそのまま創造であること、「はじめに言葉があった」という一節などを踏まえれば、中世において珍しい発想ではなかった。むしろ、言葉が出来事としてあったことは、<声の文化>の影響を残している中世においては、当然のことだ。

言葉の持つ出来事・力としての側面、しかも神の言葉でなく、人間の言葉にそれらの側面が見出されるとした場合、ここで考えられるものの一つが「祈り」ということだ。もし祈りが神へのコミュニケーションとしてあるならば、祈りに声を出す必要はない。神は祈るものの心の内をすべて知っているからだ。しかし、祈りはコミュニケーションではない。これが中世における標準的理解である。祈りとは行為なのであり、しかも自己へと帰ることによって、神にいたる行為なのだ。そこでは言葉に発するということが大きな意味を持っている。

集団的祈りの場合、神への語りにおいて言葉は必要ないにしても、同時に人間に向かっても合図を送らねばならない以上、言葉が必要になるということである。また、個人的祈りの場合、他の人間に知らせる必要はない以上、そして神にのみ語りかける以上、言葉は必ずしも必要ではない。しかし、その上で神学者たちは、個人的祈りにおける言葉の意味を積極的に認めている。

(1)心の内に敬虔な思いを喚起するため

(2)心を照明するため

(3)祈るときに必要なことがらを覚えやすくするため

(4)心が放浪しないように見張りをするため

(5)神より与えられた恩義、つまり精神と肉体の両方において報いるため

(6)激しい献身によって、心の中に収まりきれなくなったものが肉体へと溢れ出てくるため

(7)隣人に祈りを教えるため

多くの神学者の共通するのは(1)の論点である。祈りとは、多くの場合、言葉や身振りといった外側の形が先にあって、その後で内面の心情がつき従うものなのである。神仏に頭を下げて、手を合わせるのは、敬虔な心情が沸き起こったからではなく、敬虔な心情を引き起こすためだと言うのは重要な論点だろう。もちろん、敬虔な心情の発生時点・過程を調べるのは困難だが、外側の形・言葉が整って初めて、敬虔な心情が高まるという方が事実に近いと思われる。日々の労働の忙時、祈りに先立って、敬虔な心情を求めることは、非現実的であろう。世俗を離れて生きる者ならばいざ知らず、世俗の中に生きる者には、内的敬虔に先だって、言葉があり、祈りの言葉が敬虔な心情を引き起こすのは当たり前のことだ。

一般的に述べても、心が、肉体の形・動作・習慣によって形が与えられることはおそらく当然のことだろう。言葉のパフォーマティブな働きへの注目は中世においても存在していた。言葉の基本単位が、真偽を有する命題に置かれる限り、行為としての言葉の側面は閑却されるし、閑却されねばならない。これはたぶん当時の常識であり、しかも同時に論理を越えた領域においては、最も透明なはずのコミュニケーションでさえ、言葉を要すると考えられていた。言葉に備わっている物事を成立させる力が認識されていたのだ。

中世が、身振りにおいても言葉においても儀式の秩序においても、形式的で定型的であったのは、心の姿は、具体的な「形」を持ったもの─音声もそこに含まれる─に転じる過程で徐々に現象することを前提していたからだと思われる。「形相・形は事物の存在を与える」という中世の格率は、形相が、予め存在する事物の原型・範型の側面と、目や耳や触覚といった感覚が把握する「形」の両面を有していたこと、しかもその場合、形相は初めにあってしかも最後に登場するものであったこと、つまり、渾然としたものが明確なものとなる過程を表わすものと理解することができる。そして、このような現象する過程を担う力が意志であるし、また意志であると理解されていたと私は思う。

2015年6月11日 (木)

山内史朗「天使の記号学」(4)

3. 言葉の裏切りと他者の裏切り

言葉の不透明性は単なる障害としてより、内部と外部の間の非対称性として考えられる。その非対称性を憎悪し、排除しようとする者にとって、言葉は裏切りの事件になる。

言葉は常に語り手を裏切る。これは表現という行為の避けられない特質だ。表現行為は、確かに、自分の内側にあるものを外側に押し出す行為だ。しかし、外に出された途端、表現されたものは、取り戻すことのできない出来事として、表現者を裏切る。自分の思いが、思いのままに伝わることを夢想すること、表現されたものが表現者の手の内にあると考えるのは楽天的なことだ。

語ることは、語り手の内に渾然として存在することに分節を与える。心の中に沸き起こってきた衝動は、大声を出すことで怒りとして定着する場合を考えればよいだろう。人間の認識が経験を素材として始まるのではないが、経験と共に生じるのとちょうど同じように、心の情念も言葉を原因として存在し始めるのではなく、言葉と共に生じてくる。言葉が、素材として存在する心の内容に、形を与えるのだ。

見境もなく、心に思うことを外側に吐き出すことは、決して「言葉」を使用しているとは言えない。内なるものを外に出すだけでなく、外の世界で働くことが言葉の生命なのだから。したがって、言葉を使用することは、いかに内面と対応しているかという「真理の尺度」によってよりは、状況にいかに適合しているかという「適切さ」という曖昧な尺度によって計らねばならないのだ。透明な天使を夢想することは、世界から切り離された自分を夢想することは、世界から切り離された自分を夢想することに等しい。世界から切り離されてあることが可能であるならばいざ知らず、世界の中にいることが事実であって、世界から独立することが不可能な場合、天使主義者は世界を消滅させる、もし消滅させられなければ、世界との「絆」を破壊することを夢想する。

世界との「絆」を破壊するとは、「絆」の最たるものが「言葉」である以上、「言葉嫌い」に陥ることでもある。「絆」の破壊が、世界からの離脱の思いに由来するとすれば、そこでは、「言葉嫌い」と「人間嫌い」は事実上一致する。媒介のない直接的な世界との結合、世界との癒合的関係は、親密さを含んだものであるよりも、破壊性を孕んだものだ。直接的関係・癒合的関係を確立しようとすることは必然的に挫折に帰着するが、その挫折への呪詛から、関係一般の破壊衝動が導かれるからだ。これは絆を求める者が絆から排除されることによって、あらゆる絆を破壊しようとすることに似ている。「誰もオレのことを分かってくれない」という叫びは、自分のすべてを分かってもらいたいという甘えばかりか、絆への幻想、幻想の必然的帰結としての絆への絶望、ついには絆の破壊衝動をも含んでいる。そこには、自己・他者・媒体への呪詛、世界の破壊願望が潜んでいる。

絆とは、壊れやすい不安定な自己を保護し、守ってくれるものではない。絆の確立とは他者を無毒化することではない。むしろ、他者の有害性が直接侵入してくる通路を開くことだ。その通路は、抵抗も障碍もない通路ではなく、検閲と抑圧に満ちた通路だ。しかも、通路を往来する内容とは無関係に、通路そのものが、慣習・規約・規則に満ちた制度的存在である以上、通路を開くこと自体が自己を危険に晒す。しかし、危険に身を晒さなければ、自己を守る免疫も成立しない。誤った天使主義は、いかなる病気からも免れて無菌状態にとどまること、それどころか自己の内臓に棲む細菌をも消滅させることを夢想することに似ている。私と世界の間には、共通の尺度など存在し得ないこと、顔の表情の背後にあるものに踏み込むこともできぬまま、顔と顔とを対峙させたまま存在するしかないこと、この共通の尺度が存在しないことを、共約不可能性と呼んでよい。

<>と他者の間に共約不可能性を認め、そしてコミュニケーションの困難さにも絶望せず、当然のことと認めたうえで、言葉を用いることは、「まともな、健康的な」大人にとって日常茶飯事でわざわざ論じるまでもないことであり、共約不可能性という仰々しい用語で論じることは大げさかもしれないが、身の回りにあるすべてのものが、遣い方次第で自殺の道具になりうるように、日常性の中に、身を破滅させるに足る深淵があるという指摘も無意味とは限らないだろう。もちろん、平凡な日常が奈落の隣にあることに気付かないで済むならば、何も気付かないままでいられるのが一番の幸せなのだろうが。

天使が言葉を用いるというのは、天使もまた、奈落の縁にいるということだ。天使が奈落に臨んでいなければ、どうして天使が堕落して悪魔になることが可能だったのか。

 

2015年6月10日 (水)

山内史朗「天使の記号学」(3)

2. 天使の言語論

中世最大の神学者トマス・アクィナスは、肉体を持たないにもかかわらず、天使もまた言葉を持つと考える。トマスによれば、人間において、精神の内側に懐かれるものは、二重の障害が肉体と意志である。人間が言葉を用いるのは、肉体という障碍だけでなく、意志という障碍も存在するからであり、意志という障碍の方が、より根本的なものだ。

天使においても、コミュニケーションが成立するためには、コミュニケーションを成立させようとする意志が必要だ。伝えようとする意志によって、天子の心の内容は、他の天使に現前するものとなる。天使の間に見られるコミュニケーションも一種の言葉だ。これは口から発せられる言葉ではないが、「心の言葉」と言われるものだ。ここでは、人間の言葉は物理的で、天使の言葉はそうではないことが両者の言葉を比較不可能にするわけではない。言葉の機能において他者の働きかけという点が重視されるならば、両者を言葉という枠内で論じることはできるからだ。そして、トマスが天使の言葉を語るのも、物理現象としての言葉という観点からではない。むしろ、意思を伝えるものが言葉なのだ。逆に、伝えないこともできるとすれば、そこには言葉があるといえるのだ。

意志がコミュニケーションの成立条件であるというのは、当然すぎてかえって見逃されやすい。伝えるべきものがあるとき、伝えたいと思い、そして伝えたいからコミュニケーションが始まるというのは、心情の論理としては当たり前だ。ところが、近世以降、意志が障碍・阻害条件ともなるという発想がなくなっていく。意志が物事を成立させる一種の「力」として捉えられることは、中世以来変わらないにしても、障碍としての側面は閑却されていくからだ。

では、意志が障碍、<覆い>であるとは何を意味するのか。一つの理解としては、意志は心の内容の流出を止め、いわば心の扉のごときものと考える行き方がある。つまり、言葉に先立って、心の内容は確立されてあり、言葉は心の内容を記述するもので、意志は心の内容や言葉の意味に何も付け加えない、と考えるのだ。

別の理解として、意志は言葉は単なる記号としてではなく、「出来事」に化する力と考えることもできる。言葉は、常に特定の状況の中で、状況と関連して使用される。言葉と状況の関係の要点は、言葉が状況へと適用されることであるが、言葉を状況に「適用」するのに必要なのは、言葉の概念的理解だけではない。意図─ここではとりあえず意志とほぼ同義に考えている─がなければ状況に適用することはできない。意図は、言葉が状況に適応しているかどうかが決まる因子であると同時に、言葉を適用するための必要条件となるものだ。言葉が状況に適応し、効果を発揮していること、これが「言葉は出来事だ」ということの一つの意味だ。そして、その適用を行なうかどうかを決定し、適用する能力が意志だ。

意志は、コミュニケーションに先立って存在する初期条件にとどまるものではない。聴き手の側の理解のプロセスが、話し手の側の発話プロセス(意図─言葉の選択─発話行為─音声)とちょうど逆であるとすれば、コミュニケーションの初期条件は、理解のプロセスにおいては最後に得られるものとなる。しかし、聞くことと語ることは逆向きの操作なのではない。しかも、聞くことと語ることは逆向きの操作なのではない。しかも、意志は、聞き手の理解のプロセスにおいて最後となるというわけでもない。コミュニケーションは反転可能性を前提するが、その反転はプロセスの反転といったものではない。意志が前提条件であるばかりでなく、意志が状況に適用されることによって、明確な姿をとること、つまり、最後に登場するものでもある。自分が何を語ってしまったのか、語った後で気付くことは少なくない。

ここで、天使の言葉に戻ろう。意志が<覆い>になることは、今述べた第二の理解においてと思われる。トマスの天使言語論においても、コミュニケーションの個別化の論点が登場し、それをただ一人の天使にのみ語りかけることができるという指摘に見出すことができる。つまり、トマスは、天使はただ一人の天使に語りかけることができると明言しており、コミュニケーションの個別化ということを十分意識していたのだ。もし、第一の理解においてのように、意志が扉のようにあるのなら、語りの方向性は定まらず、話し手が聞き手を取捨選択することは困難になってしまう。言葉とは、匿名の不特定の多数者に語られることは少なく、むしろ特定の状態で、特定の人間にのみ語られるものである。そして、或る天使が特定の天使にのみ語りかけるということは、意志によってのみなされるのであり、意志は、内部にある心の内容を外側にもたらすだけでなく、状況と聞き手の選択を行うものである。このように見れば、意志こそ言葉を適用するものだということができる。

天使の言語においてさえも、言葉は心の内にあるメッセージを他者に移送する乗り物ではない。意志が不透明性の起源としてあり、外に現れることが同時に個体化であって、出自の姿を変様させることは、天使言語論の要点となる。言葉の問題を離れて、一般的に述べても、個体化とは普遍的なものが個別的なものになることを指すだけではない。個体化とは、一番最初にあったものが、生成の過程であたかも一番最後に現象するごとく語るしかない事態に見られるものだ。このような個体化の捉え方は、特異なものである以上、ここで強く主張するつもりもないが、思った以上に錯綜したプロセスであると思われるし、同じことは言語においても見られるとわたしは思う。とにかく、言葉に、肉体と意志という二つの障碍があることは、コミュニケーションの阻害要因にもなるが、コミュニケーションが具体性・個体性を得るための条件でもあるのだ。

短信文章の覚悟?

決算短信の文章について、紋切型を脱して分かりやすく伝えるためには、企業の事業の特性や事業戦略を深く理解して、それに適した表現を見つけ出さなければならないと思う。多分、紋切型の表現であれば、企業内の営業や開発や経理から情報を寄せてもらって、経営者から簡単に方針をきいて、それを要領よく整理すればできることだ(これも大変なことではある)。しかし、紋切型を脱するには、独自の視点、つまり表現する人の主体が問われる。その視点を見つけるには、各部署からの情報を批判的にみることが出来なくてはならないし、経営者の方針に対しても、投資家とか違った側面から批判できることも最低限必要だ。そのためには、少なくとも、これらの人々に負けない理解が前提になる。そして、最大の点は、その視点に対して、責任を持てる、つまり、それだけ肚をくくる覚悟があるかだと思う。考え過ぎ、意識過剰かしらん。

2015年6月 9日 (火)

山内史朗「天使の記号学」(2)

第1章 天使の言葉 天使のように、欲望を持たぬ、清らかな存在になりたいと願う人間はたくさんいるかもしれない。しかし、天使になろうとしたとたん、人間は奈落に落ちていく。たとえ天使が清らかであっても、天使になろうとする欲望は清らかではないからだ。人間が自分が穢れたものとする発想は、浄化につながるどころか、淫らな欲望により深くはまり込む効果の方が大きい。それにまた、人間が人間以外のものになろうとするのは、哲学においても人生観においても、ロクなものにならない。人間は人間以外の何ものでもない。人間を天使に近づけようとする理解には、コミュニケーションの相手となる他者のあり方について、暴力的な人間理解が潜んでいるように思われる。自分を天使のように「透明な存在」として捉えること、またはそうなろうとすることは、残酷で、悪魔的なものになりかねない。 1. 天使に言語は必要なのか 天使は、人間よりも神に近い、無垢の存在とされてきた。「天使」という言葉は、ギリシャ語で「アンゲロー(伝える)」という動詞の派生語で、言葉の上では「伝える者」、特に神の心を人間に伝えるものである。神の心を伝える者は、話しを歪めたり、混乱させる者であってはならない。空気のように透明で、存在しないに等しい媒体、これが天使だ。 天使に言葉は必要なのかというと、天使は人間と違って肉体を持たない心だけの存在であり、他者に対して肉体という壁の後ろ側に立ってはいない以上、会話するのに言葉は必要ではない。考えていることはテレパシーのようにどんなに離れていても瞬時に伝わる。そうすると天使に言葉は必要でないことになる。これに対して、人間には肉体があるために、肉体が心を包み隠してしまう。直接的に相手の心に思いを届かせる方法がないために、言葉や文字を使って思いを伝えねばならない。困るのは、言葉では自分の思いがなかなか相手に伝わらないことだ。言葉がなければコミュニケーションできないが、言葉はコミュニケーションを妨害する、邪魔者ともなる。肉体がコミュニケーションの障碍となっているために、やむを得ず言葉を用いている。自分も他者も天使のように「透明な存在」ならば、ディスコミュニケーションに陥ることもないし、言葉の暴力性に身を曝す必要もない。メディアが意思や感情を伝えるための媒体に過ぎないならば、媒体は空気のように透明なものの方が良い。人間の心を箱にたとえれば、メディアは箱と箱とをつなぐパイプということになるが、そのパイプは、できるだけ太く、短く、何も詰まっていない方がよいわけだ。できるならばパイプが存在しない状態、これこそ天使に近い状態なのだ。 その世界は、身体を消去したコミュニケーションの世界であり、そして、インターネットの中を飛び交う天使たちが多くなったことに象徴されるように、現代のメディアの見方もこういった世界を目指しているものが多い。しかし、パイプのない状態が本当に理想の状態なのだろうか。私の考えでは、人間のコミュニケーションの理想形態を、天使の会話におくのは二重にも三重にも間違っている。そして、天使の会話ということも誤解されている。いやそれどころか、大きな危険を孕んでいる。

コーポレートガバナンス・コードと決算短信

コーポレートガバナンス・コードに従っていることを公表する企業がボツボツ現われてきている。東証のコーポレートガバナンス報告書に、そのような内容のものが出てきた。各企業でも、検討が始まっている。しかし、例えば、その原則のひとつに定性的情報の充実を図ることで、その表現について定型的に陥らず、分かりやすく伝わる工夫をするというのがある。つまり、決算短信や事業報告で「当期における我が国経済は~」で始まる紋切型を安易にとらない、ということだと思っている。とはいっても、今回の多くの決算短信は、未だ紋切型の文章が多かった。次回の第1四半期あたりから変化の兆しが現われてくるのかと、期待している。

2015年6月 8日 (月)

山内史朗「天使の記号学」(1)

序章 リアリティのゆくえ 現代には「自分」というリアリティを見失う機会はいくらでもある。その時、生身の肉体で感じられる感覚的刺激こそが、リアリティの基本的形式と考える人も多い。しかし、リアリティとは身体が生々しく感じるものでしかないのだろうか。リアリティを感覚する器官は肉体だけなのか。もしそうだとすれば、存在するのも生きるのも悲しいことだ。ありきたりの日常生活にリアリティがかけている場合、人間はつねに刺激的で、破壊的で、破滅的な生活を送るしかないのだから。だからといって、精神だけがリアリティを感じるものなのだろうか。 生々しいリアリティを求めずにいられないこと、これは「実感」を基準にする発想と重なってくる。生々しい実感が得られない場合、抽象的思考にその代償を求める人も出てくるが、リアリティはそのどちらかにしかないと考え、その一方を選択しようとする傾向があるように見える。そうだとすると、刹那的な激しい身体的刺激を求める狂騒と、真理の啓示にあふれた、難解なテキストへの沈潜は、具体性と抽象性という両極端の対立、そして媒介しがたい距離があるように見えるが、両者は同じ根を持つものであって、親近性を有しているだろうし、だから案外そこに一挙の飛躍が起こりうることになる。肉体の具体性と思想の抽象性を対立させ、その一方のみを選択しようとして、結局一方から他方へと無媒介的に飛躍すること(天使主義的飛躍)は、媒介の欠如に基づいて生じる。媒介がいかなるものであれ、人間が人間として生きるのは本質だけによってではない。媒介を通じて、媒介としていきるしかない。 「媒介」になりうるものとして、「世間」・「身体性」・「人間的尺度」といったものを挙げることができる。こういったものは、経験に先たって与えられない以上、経験によって認識するしかないように見える。しかし、そのような道しかないのか。経験の後か前に与えられるかというに甲対立的思考そのものに誤謬があるのではないか。たぶん、経験の前にあるといっても、経験の後になるといっても、奇妙になるような事態、経験の「中」にあると言うしかない事態がそこにはあるのだ。最初にはわけの分からなかったものに「かたち」が与えられ、それを受容し、身体に内在化するにつれ、身体に適した尺度がどれくらいなのかを知るようになり、その後で「かたち」が変化していくのが通例だが、その状態は、決して経験の「前」や「後」にあるのではない。 中世は、天使や奇蹟に溢れた時代に見えるし、それを否定しようとするのではないが、最近の中世史研究が明らかにしているように、神について語り、知ること(テオロギア)ばかりでなく、現世の営み(オイコノミア)を重視し、現世との関わりで天上を語る時代でも合った。いつの時代でも人間にとって最も関わりがあるのは、やはり人間のはずだ。謎めいた言い方になってしまうのだが、中世は基本的に内在か超越かの一方を選ぶのではなく、「内在的超越」の時代であったと言える。 私としては、媒介が経験の「前」や「後」にあるのではなく、「中」にあること、あえて言ってしまえば、リアリティは<見えないもの>と<見えるもの>のいずれのうちにあるのでもなく、その間にあることを述べていたのが、中世の実在論だったと思う。リアリティは直接与えられるものでも、目の前にあるものでもない。たぶん、後ずさりしながら、未来に向かうとき、背中に背負っているものなのだろう。重みを感じながらも、見ることができないために得体の知れなさに不安を感じながら、自分の重みとして引き受ければ、その足跡に陰を見出すことができるようなものかもしれない。このようなヴィジョンは、近代以降の哲学に皆無ではないが、大部分、中世哲学から与えられたものだ。リアリティとは、常に指先の1センチ先にあって、つかめそうになりながら、必ず取り逃がしてしまうものではない。そして、視線を遮る限界の背後にあるものでもなく、常に視線の手前にあるがゆえに、見えないものにとどまるものではないのか。 見ることの手前、語ることの手前、「自分」ということの手前にリアリティがあると述べるのが、実在論ではなかったのか。もちろん、このような実在論の理解が私の思索の中でさえ、どこまで持ちこたえられるか分からない。このうち捨てられてきた実在論への信頼があるからこそ、私は中世哲学にこだわるしかない。キリスト教徒でも、西欧人でもなく、中世から遠く離れた人間が、西欧中世との間に持つ絆はそれだけかもしれない。しかしそれだけでは十分なのだろう。

目標とする経営指標あれこれ

「目標とする経営指標」にROEを上げるとしても、それは結果としてそうなったとか、最終目標としてのものであって、企業の戦略とか、経営の方針は、最終目標のROEを辿りつくまでの経路というものではないだろうか。具体的には、デュポン・システムに落とし込んで、成長性で伸ばすか、効率性で伸ばすか、そこに戦略を具体的に数値化したものとして経営指標が現われてくる。そうであれば、「目標とする経営指標」が何であるのかを明示すること自体が、企業の経営戦略のひとつの表現になるはず、と思う。だから、「目標とする経営指標」がなぜ、その指標であるのかという理由の説明は、経営戦略の説明にもなりうるはずだ。

2015年6月 7日 (日)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(6)~Ⅴ.後期②宗教画と理想の追求

Guerujohn2_2クエルチーノ晩年にさしかかり、功成り名遂げ、悠々自適で平穏な人生を送ったという時期の作品です。この時期、ライバルであったグイド・レーニの様式を取り込み、解説によれば、“画面はより叙述的かつ詳細となり、スフマートや色調の微妙な変化によって繊細さが追求される。構図は釣り合いや対称性が重視されて、画中の水平線や垂直線が強調されるようになる。”たしかに、ここで展示されている作品を見ていると、画面のサイズは相変わらず大きなものであるけれど、画面の中で描かれている構成要素の数は減ってシンプルになってきて、これに伴い画面の構成も単純になってきています。描かれる人物の数も群集は姿を消し、以前は良く見られた3人の人物による三角形の配置も見られなくなりました。人物が1人ないし2人程度になってしまったので、三角形を構成しないためでしょう。その代わりに、一人一人の人物が丁寧に描かれるようになりました。そのためか、演劇の舞台の一場面を描いていたような、劇的要素や動きは、画面から感じられなくなり、スタテッィクな、物語の場面を背景とした肖像画のような雰囲気の画風になっていたと思います。それは、一面では洗練ともいえ、例えばロココの瀟洒な肖像画に連なっていく感じのするものであるともいえます。また別の一面では、退屈と言えなくもないものになっていったとも言えると思います。

Guerujohn_2『説教する洗礼者聖ヨハネ』という作品は、ヨハネが説教する場面を描いたというよりは、ヨハネという人物を描いたという作品です。以前に見た『聖母のもとに現れる復活したキリスト』と比べてみると、それぞれの主役となる人物であるヨハネとキリストは明確な輪郭で描き込まれています。しかし、キリストは右側にすがりつくように跪くマリアを配することで、劇的な瞬間を作り出しています。主役の人物の描き方は似たようなものであっても、それ以外の者との関係によって、画面に動きが生まれています。これに対して、ヨハネの方はポーズをとっているようにしか見えません。しかも、もともと、人物について濃密に描き込むというタイプの人ではないので、ヨハネその人が強烈な存在感をもって観る側に迫ってくるということもありません。例えば、ヨハネを単独で取り上げて、同じように人差し指を立てるポーズをとっている、ダ=ヴィンチの作品と比べてみると、ダ=ヴィンチのヨハネは小さいサイズの作品で全身を描いていないにもかかわらず、ヨハネの妖艶さが観る者に強烈な印象を残します。この作品では、観る者に強く訴える要素が、グエルチーノの以前の作品に比べても減退しているのです。それは、バロックというカトリック教会が自己の正統性とプロテスタントに対する優位性をアッピールする機能を担わされたツールとしては、減退と言えるかも知れません。とはいっても、ちょうどこの作品が描かれた1650年当時は、フランスでは長年のユグノー戦争がナントの勅令により一応の決着をみて、その後の宗教対立は潜在化し、一方ドイツでは、ウェストファリア条約で30年戦争に終止符が打たれて、あからさまな宗教戦争は表面的には終わった時代でした。とくに30年戦争はドイツを中心としたヨーロッパ中央を焦土と化し、ヨーロッパには対Guerureturn立への疲弊感があったと考えられます。そのような雰囲気のなかで、バロック美術の対立的要素を孕んだ劇的な緊張感のある画面は観る者に強くアピールするものではあるのでしょうけれど、他方では、緊張感を強いられる側面もあります。観ていて疲れるのです。それは宗教対立に疲れた人に対して、「もういい」というような過剰感を感じさせるものになりそうなものでもあったはずです。そう考えれば、この「」『説教する洗礼者聖ヨハネ』は、アピールする力は弱いかもしれませんが、見ていて疲れを強要させられることは、あまりないと思います。強烈な印象に引き寄せられるものでない代わりに、しばらくの間じっと見ていても、ぼんやりと眺めていることもできる作品です。たぶん、そのことが、グエルチーノの作品が、新古典主義の時代に宮殿や邸宅を飾る家具のような美術の作家たちによって称揚され権威となっていった由縁ではないでしようか。細かく、どのように描かれているという記述は、ここではしませんが、全体の印象として、現代のコスプレ写真に似ていると思いませんか。私には、案外近いところにあるように思えるのです。

Guerusaint『隠修士聖パウルス』と『悔悛するマグダラのマリア』という作品は、ほぼ同じサイズで、グエルチーノの自宅の装飾のために4枚描いた作品のうちの2枚だそうです。これらはいずれも、風景と青空を背景に一人の人物(聖人)が描かれているという点で共通しています。それぞれに落ち着いた、静謐な画面は、例えば、マグダラのマリアの悔悛にいたる宗教的な恍惚の表情は、カラヴァッジョの描いたエロティシズム漂うようなものでもなく、マグダラのマリアは裸体で描かれていますが、少しくたびれた肉体はエロティシズムをあまり感じさせません。また、聖パウルスは、古代の厳しい時代の聖人にある厳しさのようなもの、例えばラ=トゥールの描く聖トマスやカラヴァッジョの描く聖ヒエロニムスのような厳しさはありCaravaggiogirolamo_2ません。ここには、孤独のなかで、周囲の激動に惑わされずある面では超然として穏やかな宗教的生活に専心する姿があるように見えます。ここにあるのは、例えば日本の仏教美術の菩薩や如来の悟った姿を描いたものと似ていないでしょうか。ひとつのパターンを踏襲し、とくに新機軸を入れようとか余計な野心を交えずに、そのパターンに安住しようとする、というと言いすぎでしょうか。その仕上げに心を砕くことで、ハリボテのようなパターンであっても、装飾として品質を維持し、室内であまり出しゃばらず、ふっと何気ない視線には耐えられる程度で、室内に雰囲気をつくり出している作品を意図しているように見えます。

Guerudavidそして、『ゴリアテの首を持つダヴィデ』です。画面の構成は、ここで見てきた作品に共通したシンプルなものです。主人公であるダヴィデは、これまでもグエルチーノの作品に頻出した上方を仰ぎ見るポーズです。しかし、これまでの作品はそのポーズの人とともに仰ぎ見られる対象も描かれていました。しかし、この作品は仰ぎ見る人物だけが描かれています。それが却って、仰ぎ見られる対象が描かれないことで余韻を作り出していると言えないでしょうか。しかし、その主人公である人物がゴリアテの生首を持ったダヴィデというのは、不思議です。ゴリアテの生首をもったダヴィデを描いた作品であれば、カラヴァッジョの作品を思い出します。(今回は、カラヴァッジョの作品を持ち出してきて比較することが多く、グエルチーノには可哀想かもしれませんが)カラヴァッジョにみられる生々しさとか尋常でない迫力Guerudavid2とか、グエルチーノの、この作品は比べてしまうと可哀想です。まっ、注文があったのでしょうから、それはしょうがないと言えますが、晩年近くのドラマというよりも、スタティックで安定した画面で古典主義的なものに近づいた作風になってきているときに、とくにこの作品では余韻を生むようなところもあるだろうに、生首を持たせるような、その傾向に真っ向から対立するような要素を入れてしまうのでしょうか。そこに、この作品の安定した状態をあえて壊してしまうところがあると思えるのです。これは、この作品に限ったことではなく、『悔悛するマグダラのマリア』でも、あえてマグダラのマリアのくたびれたヌードをあからさまに描かなくてもいいのではないか。

Guerumadonnaこれらのところに、これまでも、少し触れてきましたが、グエルチーノという画家の一風変わった所を、私は見ます。このようなことは、展覧会の解説にも、展覧会について書かれた感想を読んでも指摘されていないようなので、私の個人的な偏見かもしれません。このグエルチーノの変なところというのは、カラヴァッジョやグレコのような人々の明白に普通でないものとは違って、一見、まったく普通なのだけれど、よく見ると、ほんの偶に片隅にさりげなく現れるようにもので、普段は気がつかないようなものです。カラヴァッジョやグレコのような見ただけで普通でないと分かるものは、彼らの天才をそこに容易に見て取れるもので、要はそれを受け容れることができるか否かという点で、ある意味分かりやすいともいえます。これに対して、グエルチーノの場合には、普段はその普通でないところは隠されて、日常では他の普通の人と同じようにいるけれど、ある時隠しきれずにその片鱗を見せてしまう。言ってみれば陰険というのでしょうか。かっこいい言葉で言えば、日常に隠された狂気とでもいえるものではないかと思います。それだけに、却って不気味なところがあるのです。それに一度気がついてしまうと、気になってしょうがない。グエルチーノの作品を見ていて、すべての作品にあるとは限らず、あったとしても探してもなかなか見つけられない。しかし、気がついたらあら捜しをするように探している自分の姿を発見するのです。Caravaggiomaria_2





ROEあれこれ

3月期決算の企業の決算発表や、これに伴う決算説明会が、私の勤め先のような遅くなりがちな中小企業も含め一通り終わった。コポレートガバンス・コードの発表やISSのような議決権行使助言会社がROEを判断指標として前面に出したことなどから、けっこう企業のROEのことが日経新聞でも取り上げられていたと思う。ところで、通期の決算短信には、定性的情報として経営方針の中で、「目標とする経営指標」について書かなければならないことになっている。新聞などの報道の印象とは違って、ここにROEを経営指標としてあげる企業は、私の印象では、それほど増えているようには思えない。

2015年6月 6日 (土)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(5)~Ⅳ.後期①聖と俗のはざまの女性像─グエルチーノとグイド・レーニ

Guerurucさて、グエルチーノも初めて、その名を聞いた画家でしたが、さらにまた聞いたことのない画家が出てきました。グイド・レーニという人も、ここで作品をみても、あまり両者の区分がつきません。グエルチーノについては説明がされていましたが、グイド・レーニについては、家に帰って調べてみました。一番手軽なのはウィキペディアなので、ちょっと引用します。“グイド・レーニ(1575~1642年)は17世紀前半、バロック期に活動したイタリアの画家。アンニーバレ・カラッチらによって創始されたボローニャ派に属する画家で、ラファエロ風の古典主義的な画風を特色とする。─中略─レーニの作風には、バロック期の巨匠カラヴァッジョの劇的な構図や明暗の激しい対比が見られるとともに、ルネサンス期の巨匠ラファエロ風の古典主義様式が見られる。代表作『アウローラ』に見られる、考え抜かれた構図、理想化された優雅な人物表現、柔和な色彩などはレーニの作風の典型を示すもので、古典研究の成果がうかがわれる。『アウローラ』の並列的な人物の配置には古代の浮き彫りの影響が見られるともいう。レーニは生前から「ラファエロの再来」と呼ばれ、ゲーテによって「神のごとき天才」とまで激賞された画家で、19世紀までの評価はきわめて高かったが、美術に対する人々の嗜好が変化し、古典主義的絵画の人気が下落した20世紀以降は不当に低い評価を得ていた。”グエルチーノに対する説明と似ていますね。

Guercinoremi_5グエルチーノがローマから地元に戻った時には、グイド・レーニは権威として君臨していたとのことです。ビジネスの世界では、新たに市場に参入しようとして、その市場にトップシェアのコンペティターがすでに存在する場合は、価格とか品質とかで上回る競争上の優位性を武器として競争するか、差別化として全く違う戦略をとるか、という選択肢があります。しかし、トップのシェアが圧倒的な場合、その市場自体がトップ企業の土俵になってしまっているので、一度はその土俵にのらないと話にならないことがあります。絵画のような一種のイメージ産業では、いったい浸透したイメージとは全く違うものを投入する戦略は成功すれば、一気にシェアを奪取できるでしょうが、失敗のリスクも高い、ハイリスク・ハイリターンの戦略でしょう。そこで、グエルチーノは、既存のトップ・シェアであるレーニの土俵にのって、その上で物真似と思われない程度に差別化を図ったのではないかと思います。レーニという個人のブランドで、年齢差があるのですから、長期戦略として、レーニが年齢によって衰えたり、亡くなったところで、攻勢に出ればよいのですから。

Guerupermi_2二人は『ルクレティア』という同じ題材を扱っているのが、同時に展示されています。グエルチーノの作品は、背景を暗闇のように影にして、そこから女性がスポットライトを浴びて浮かび上がるように描かれています。背景の暗闇と、女性の光に照らされた白い肌を対照的に描くことで、黒(死を暗示する短剣も黒です)と白によって、今短剣を胸に刺して自害しようとしている生と死、あるいは現世の死と死後の救済の境界にあるドラマに緊張感を与えています。その顔は、視線を仰ぎ見るように上方に向けて、口元には諦念でしょうか死後の救済を信じてでしょうか、仄かな微笑みが浮かんでいるように見えます。このように感情のあらわれを表情に描き込んでいるようです。

Guerusella_2これに対して、グイド・レーニの作品は、背景は同じように暗くなっていますが、彼女は寝室にいるシチュエーションのようなので、グエルチーノの場合のような暗闇と光を対照的に扱うというのではなく、寝室の暗さか背景を省略している意図のように見えます。主人公である女性はグエルチーノの作品に比べると明瞭に隈なく描かれています。これは、生と死の場面の登場人物としてのルクレティアを描いているのではなく、一人の美しい女性を描いていると言った方が近いかもしれません。その美しさを作品として描くためにルクレティアの物語の自害の場面という設定を選んだというべきでしょうか。そのため、女性の肢体の柔らかな表現とか、肌の白く若々しい色合いとか、輝く金髪とかが目を惹きます。この女性の肉体の描き方は彫像のような感じで、顔の表情も、あまり感情のおののきのようなものは浮かんでいません。

このように言葉にすると、二人の画家の作風を大きく異なると誤解されてしまいそうですが、これは違いを強調してのことで、それほど違うのかといわれれば、実はよく似ていると思います。それは、例えば、有名なパルミジャニーノの『ルクレティア』と比べると、むしろ両者の近さが分かると思います。

Guerulemiもうひとつ、グエルチーノとレーニを比べてみましょう。題材は同一ではありませんが、似ているものとして、グエルチーノの『サモスの巫女』とグイド・レーニの『巫女』を見てみましょう。似たような扮装の女性像ですが、レーニの方はダイレクトに女性を描いているという作品です。中心は女性像なので、ターバンを頭に巻いて上を向いているのは、女性の顎から頸の柔らかな線と、はだけた上半身を生かすためのコスチュームのように見えてきます。これに対して、グエルチーノの巫女は小道具を周辺に散りばめて、物語的な要素を含ませています。つまり、レーニは女性の造形に絞って勝負しようしているのに対して、グエルチーノは物語とか、ドラマとか、装飾的な色彩効果とか付加価値をつけようとしているといえるのではないかと思います。これは、さっきのビジネス戦略の話に戻れば、グエルチーノは基本的には、女性の美しさを描くということでは、レーニと同じ土俵に上がったのだけれど、その造形だけで勝負すれば既存の権威であるグイド・レーニと差別化が難しいので、レーニの作品にない要素を加えることで差別化を図る戦略をとったといえるのではないでしょうか。

Guerucreo『クレオパトラ』という作品を見てみましょう。私には、扮装は違っても、表情やポーズは『ルクレティア』や『サモスの巫女』と同じように見えてきます。さらに見ていくと、前回に見た『聖母のもとに現れる復活したキリスト』でキリストにすがるように跪く聖母マリアの表情と上半身のポーズにも通じているように思えるのです。グイド・レーニの描く女性像は、女性の造形的な美しさを描いていて、衣装や設定はそのための付属品でコスチューム・プレイのようなものだといいましたが、グエルチーノの場合は違った意味でやはりコスチューム・プレイをやっているのではないか、と思えるのです。しいて両者の違いを言うのならば、レーニの場合はモデルのグラビアで、グエルチーノの場合は演劇の舞台女優と言ったらよいのでしょうか。グエルチーノはドラマの場面であるということが大きな要素として加わっているのが違いと言えます。しかも、宗教画にも、このような世俗画にも同じようにキャラクターとして画面にはめ込んでいるために、要素が共通してくる。それは端的に言えば、聖と俗が通じているということです。古代エジプトの妖艶な女王であるクレオパトラ、古代ローマの貞淑な人妻ルクレティア、あるいは異教の巫女という女性たちと聖母マリアを同じように描いているのです。舞台女優があるときは聖女を、別の時は賤しい役柄を演じるというのは現代では不思議なことではないでしょう。しかし、この時代、最初にもいいましたようにバロック美術はカトリック教会が新教との対立の優位性をアピールするためのプロパガンダとして役割を担っていたわけです。とくにカトリック教会には存続への強い危機感に捉われていた時で、そういうときの内部への規制、締め付けは却って強いものがあったときに、異教の女性と聖母マリアを、グエルチーノのように、コスチューム・プレイのように本質を同じように描くことは、描いている画家に普通の人とはズレたところがあったと考えられなくもありません。

Zenpawatz突飛な考えかもしれませんが、そう考えてくると、ここに展示されているグエルチーノの女性像は、グイド・レーニの女性像にはない、退廃的な耽美の雰囲気が匂うのです。レーニの彫像のような当時の理想的な姿に対して、リアルな実在感を持たせることで、女性の生々しさを匂わせ、しかも聖母も異教の美女も同じ女性であるとして女性美という点で同列に見てしまう。これは19世紀の世紀末の耽美主義とよく似ているのです。実際に、グエルチーノの描く女性像はラファエロ前派のミレイなどの描いたリアルな描写と物語的要素を追求した女性と似ているようにも見えてくるのです。前回、少し触れまたが、グエルチーノの不自然さ、もっと言うと異様さというのが、19世紀末の伝統を破壊しようとした芸術運動につながっているように見える。じつは、グエルチーノはその動きによって批判の対象とされ埋もれてしまったのですが。そのような事実を踏まえると、グエルチーノが激しく批判され、否定されたのは、批判する当事者にとっては近親憎悪のような感情的な衝動を誘ったのではないと妄想を起こさせるのです。

2015年6月 5日 (金)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(4)~Ⅲ.芸術の都ローマとの出会い

Guerusuzume_230歳を過ぎて、グエルチーノはローカルな画家から、ローマに出てきます。2年ちょっとで、また地元にもどったということですが、それが彼の画風が変化していくきっかけになったといいます。“彼の構図は次第に単純化していき、人物の輪郭は明確になる。光も空間全体を淡く照らすようになり、人物のヴォリュームを強調するようになる。つまり、古典主義的な様式に近づいていく。”そういう説明は、私のような美術作品を見る素養のない者にとっては、違いが具体的には分かりません。

Gueruchild2_2『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』という作品です。前々回に見た初期作品である『聖母子と雀』と比べながら見ていくことにしましょう。『聖母子と雀』は、全体として薄暗い画面の中から右手からさす柔らかな光で聖母子の右側がぼんやりと浮かびあがるものとなっています。これに対して『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』の方は、たしかに、上の説明の通り“人物の輪郭は明確”で、“光も空間全体を淡く照らす”ゆえに画面全体が明るく明確に描きこまれているように見えます。“室内にはガラスを通した光が柔らかく拡散し、画面と平行に配された机の上で私たちに祝福を与える幼児キリストと聖母は、曖昧さをいささかも残さずに暗い画面から浮かび上がる。光はもっぱら肉体のフォルムに立体感を与え量感をもたらすことに用いられるが、とはいえ重々しさはない。”と解説されていますが、ここで立体感を与えられているのは全身の裸身が描かれている幼児のキリストでしょう。『聖母子と雀』では、同じようにキリストは裸身の全身像で、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』よりも大きくクローズアップされていますが、光に照らされている部分と影の部分の対照が強く、影の部分は、例えば顔の表情は、はっきりとは分かりません。しかし、それが明暗の対照の中で光の当たっている小さな雀の存在を強調し、その雀と細い糸がキリストの手につながっていることが浮かび上がり、観る者の視線を雀に向けるようにして、実はキリストの視線に同調させるかのような効果をもたらし、キリストの表情が見えないことで、かえって観る者に想像する余地を与え、それによって共感に誘う。このようにキリストの全身像ははっきりとは見えませんが、そのことは却って、この画面で語られるドラマに誘い込まれるような効果をあげています。これに対して、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』の方は、光はドラマをつくるのではなくて、画面全体に行き渡るようで、キリストの全身は明瞭に見えます。ここでの主役はキリストの神々しい姿と、それを優しく見守る聖母マリアであり、『聖母子と雀』では、ドラマが中心でキリストとマリアは、その登場人物としての道具立てのようなものだったのに対して、ここでは、二人の存在が中心になっています。キリストや聖母マリアの姿そのものに観る人の視線が惹かれていくと言えます。

GuerufelGueruratrとはいえ、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』をみていて、画面の向かって左に窓があって、そこから光が差し、そのため全体として壁際の構図で左側が壁で切られて右側に空間が広がるシチュエーションやその壁につくようにテーブルが設置されている配置、しかも女性が、その窓に向かっているポージングなど、フェルメールを思い起こさせられるのです。しかし、光の繊細な描き分けとか、画面の精細さはフェルメールに及ぶべくもありません。一方、『聖母子と雀』の輪郭を明瞭にすることも犠牲にする代わりに、明暗の対照を強調したドラマを画面に作り出していくのなら、ジョルジュ・ラ=トゥールの明暗の強烈な対照で、それこそ聖なる瞬間を活写したような画面に比べるとグエルチーノの方は微温的と言われても強く反論できないところもあると思います。しかし、同じ一人の画家の似たようなモチーフの作品から、全く方向性の異なる画家の作品を連想させるような幅の広さというのは、グエルチーノという画家の持ち味ではないかと、私には思えるのです。それぞれの方向が比較した画家たちに比べれば中途半端に見えるかもしれませんが、それぞれはある程度のレベルにあることは確かです。つまり、幅広さがあって、それぞれが一定のレベルにあるということであれば、教科書としては絶好であるし、人々に広く受け入れられるグランド・マナーの画家としてあるのなら、それはきわめて有利に働くはずです。その意味で、グエルチーノが売れっ子の画家となったことや、アカデミーの権威となったということに、彼の作品の方向性が関係していたのではないか、と思われるところがあると思います。

Guerureturn『聖母のもとに現れる復活したキリスト』という作品です。ドイツの文豪ゲーテが「イタリア紀行」のなかでこの絵に対する記述があるとか、グエルチーノの作品の中でも称賛を集めてきた作品だということです。『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』と同時期に制作され、ローマ以降のグエルチーノの作風変化がよく見える作品ということです。“この作品は明快な構図・人物描写、理想的な表現といった特徴が見られる。キリストと聖母は前景に並んで配され、キリストの頭を頂点とした三角形を作り出すことで安定感を見せる。キリストには向かって左から全身に光が当たり、彼とともに暗い室内に光がもたらされたかのようだ。この絵で特に称賛されてきたのは衣襞の表現である。そのヴォリュームの戯れと色彩において、グエルチーノは観念的な美すなわち純粋絵画の探究を始めたと述べる研究者もいる。”と解説されていました。三角形と解説されていますが、すがるマリアとキリストの位置関係はタテの構図で、キリストを見上げる構成は、祈る人が下から見上げて、祈られる人が上から見下ろすというタテ構成は、ここで展示されているグエルチーノの作品に数多く見られるものです。まあ、宗教的な題材に作品は、おしなべてそういうものが多いのでしょうか、それゆえにグエルチーノも多く描いたのか、彼自身も好んだのかもしれません。それほど、私には目に付いたのでした。

しかし、この作品もそうなのですが、とくにグエルチーノの作品はいわゆるバロック美術にカテゴライズされる画家たちに比べるとスッキリとして、ここでも解説されているように古典主義とまでは言えないでしょうが、整った明確な構成を備えているように一見感じられるのですが、どこか不自然にところが残るのです。この作品に対して称賛を惜しまないゲーテの「イタリア紀行」でも“キリストの姿勢に、あえて不自然とはいわないにしても、何かしら異様な感じを与える。”という記述があります。言ってみれば、わざとらしいところです。これまで見てきた作品から窺われるグエルチーノのバランス感覚やセンス、技量からいえば、それをさりげなくすることは十分可能であると、私には思えます。そのため、ゲーテも感じた不自然さは、意図的なものの気がします。それが、この作品ではたんに作品を安定したものとして終わらせていないところがあると思います。ややもすると、安定した画面は退屈と紙一重ですが、それを救っているのが不自然さかもしれません。それが、どのようなものかは、今、ここでは、私も把握しきれていないので、もし触れることができれば、後の時期の作品の中で触れることができれば、試みたいと思います。

Guerushyouten『聖母被昇天』という作品です。この展覧会パンフレットにも採用された作品で、最初のところで少し触れました。建物の天井に飾って下から見上げるような角度で描かれたように見えます。ミケランジェロの『最後の審判』のようにバチカンの聖堂の天井に描かれた作品でも、横の視点で描かれていますが、この作品は視角がそもそも下からの仰角で描かれています。一種のだまし絵のような描き方みたいです。これは、グエルチーノがローマに出てきて間もなく描いたという建物の天井に描いたといわれる(それ故、日本には持ってこられない)『アウロラ』に通じているような作品です。だまし絵と言いましたが、下から天井を見上げるようにして作品を眺め、しかも、それが仰角の視点で描かれていれば、さらに見上げるように画面の中を見ることになります。だから、この作品のように、聖母が見上げる先にいる天使はもっと高いところにいるように錯覚することになります。この画面の真ん中に、いわば中心としてある雲と空は、それ以上の高みのように見えてくるわけで、聖母が昇天していく先の遥かな高みを錯覚させる効果を最大限に生かしているのではないか、と思います。構図としては、今までにないもので水平の視線とは異質の、普通の水平の視線から見れば、不自然になる構図を、グエルチーノは、戸惑ったというよりは、むしろ、そっちの方が向いているとでもいうかのように喜々として描いたのではないか、と思わせるころがあります。聖母はあごの下部を丁寧に描いたりと、それらしく描いていますが、天使のポーズや描き方は初期作品で描かれている天使とは全く異なるポーズになっていて、このために様々な試行錯誤をしたのだろうことは想像できます。そして、結構大胆なポーズをしているのではないかと思います。グエルチーノという画家は、精細な描き方とか、繊細な表現とか、逆に大胆なドラマとか、そういうひとつの方向での強い特徴を誇示するタイプの画家ではなく、バランスを保つほどほどのところで人々に受け容れやすいタイプの画家であるかと、最初は思いましたが、前の作品で明確に表われたの気付いた薄々には感じられたのですがはっきりそうだとは言えなかった不自然さや、この作品での大胆さをみると、それだけでは終わっていない人であることが分かります。それが、一度は歴史に埋もれてしまったのが、最近になって再発見された理由の一つかもしれません。

Gueruauro

2015年6月 4日 (木)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(3)~Ⅱ.才能の開花

展示室のフロアが変わって、狭い階段を通り、広い部屋に出ると、宗教的な主題の大作ばかりが、ドッカンと展示されていて、美術館というよりも、教会とか宗教施設の中にいるような雰囲気になっていました。まして、見学者の数も多くなくて、静かな雰囲気だったので、なおさらでした。

Guerurolateこの展覧会のサブタイトルにもあるバロックという美術史上の時代というのは、キリスト教内部でのカトリックとプロテスタントの宗教対立が深刻になっていた時代で、ドイツは30年戦争の戦場となり、国土が焦土と化しました。そのような中で、カトリック教会はプロテスタントに対抗すべく自身の体制強化もはかっていくなかで、正統性を強め結束を固めるという名目で、その内部でも苛烈な異端の排除という粛清が進められていきます。そういう中で、キリスト教会の求心性のニーズに応えるものとしてバロックという美術様式が生まれてきたと考えられます。それは、二つの点でのカトリック教会の求心性のニーズです。ひとつはキリスト教世界全体の中で、プロテスタントに対してカトリックの優位性をアピールするという点です。もうひとつは、カトリック教会内部で異端を排除していくために正統的なものを強烈に示していくという点です。それを、ひろく民衆にも広めるためには分かりやすさも必要です。そのために、強くアピールするということ、端的に言えばインパクトが手っ取り早く有効であると考えられたのでしょうか、そこで劇的な表現が追求されていったのではないかと思います。劇的というのであれば、演劇的な空間がそのものです。自然のリアルな場面というのではなくて、観客に及ぼす効率を考えて効果的な空間をしつらえてあげる。それが劇場という特別な空間です。それと同じようなことを絵画の画面の中で意図的に作ろうとしたのがバロックという美術様式ではなかったのか、と私は思っています。そういう姿勢をベースにして、例えばカラヴァッジョのようなあざといほどに光と影の対照を強調してみせて、キリストにスポットライトを当てて神々しさを際立たせることをするようなことが行なわれた、ということです。

Guerurolate3それはまた、他方では絵画に対するニーズが高かったことから、それに応じる才能が集まった、またその才能を評価するパトロンの層があったということも言えるのではないかと思います。教会や王家が自らの正統性や権威付けのために絵画を書かせ、書かせる司教や国王が見識をもっていたり、その周囲に見る目をもった人々の層があり、一方、ローマのような中心地はもとより、グエルチーノの地元のチェントという地方でも工房が成立するような環境ができていたといえることは、地方でも才能のある者がいれば、評価され中心地にも情報が伝わるようなシステムができていたということです。そのためには、画家や工房という制作する側にも様々な才能ある人々の層が形成され、大家から中堅まで様々な層がつくられ、時にはその階層から外れるような異端的な才能もでてくるような環境ができていたのではないか、と私には思えるのです。

さて、抽象的で退屈なことを長々と書きました。何でこのようなことをしたのかと言えば、グエルチーノは、このような環境であったからこそ、世に出ることができたのではなかったのか、と思ったからです。ここでグエルチーノの作品を見て、たしかによい作品であって、それなりに楽しめるものであるし、品質も高いものだと思います。しかし、正直に言えば、これらの作品を誰の作品と教えられずに見せられて、作者を当てろなどと問われたとして、グエルチーノであると迷わずに答えることができるほどに、私にとって強烈な個性を見出すことはできませんでした。他の画家と比べてどっちがいいかとか、あまりそういうランク付けのようなことは好きではないのですが、同じバロック美術に分類されるようなルーベンスとかカラヴァッジョのような一目でそれと見分けがつく画家では、グエルチーノは、私にとっては、なかったのでした。私がそう思ったから、普遍的にそうだとは言えませんが、

Guerukarachi前回も触れましたが、グエルチーノの作品の印象は、突出したものがあるというよりは、幾つかの要素を強弱をつけながらソツなく画面に収めてみせるというものです。カラヴァッジョの作品のような観る者に迫力で迫ってくる高い緊張感という点では及ばないかもしれませんが、その代わり、多少安心して眺めていることができる。カラヴァッジョの作品を長時間見つめていると疲れていまいますが、グエルチーノはじっくり眺める鑑賞に堪えられる。しかし、だからといって平板なのではなく、それなりの緊張もある。そういう高いレベルでのバランス感覚です。そういう作品の位置づけというのは、観る者にとっては、カラヴァッジョのように、その作品だけを目当てに、ほかのものはなくても、それだけあればいい、という掛け替えのない作品、というのではなくて、カラヴァッジョもあるけれど、こっちも違った意味で悪くないという位置づけのものではないか、そういうときにグエルチーノの作品は価値の高いものとなるのではないか、と思うのでした。変な喩えですが、グルメ趣味の人が、フレンチの三ツ星の名店で高価なディナーがあるからこそ、変格とでもいうべき無国籍の創作料理とか和風の洋食屋のカニコロッケを堪能できる環境で、行き着けの近所のビストロで裏メニューに舌鼓を打つような感じとでも言ったらいいでしょうか。この場合の近所のビストロは決して一流とは言えないのですが、それだからといって評価していないというのではなく、そこにスタンスの独自性があり、そこで光っているのです。私には、グエルチーノという画家の作品はバロック美術の作品の中で、それに近いような位置づけの独自性で光っていると思えます。

Gueruchild_2抽象的な議論が長くなってしまいました。作品を見て行きましょう。『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』という作品です。2.4×1.5mという大作の祭壇画です。縦長の構図で見上げるような角度で描かれています。ロレートの聖母とは、イタリアの一地方にあるサンタ・カーサに奉納された幼児キリストを抱いた聖母マリアの像だそうです。ナザレの地で聖母マリアと家族が暮らしていた家が天使たちによってイタリアのロレートに運ばれ、その奇跡を記念して聖堂が建てられ、それ以降は巡礼地となったということです。つまり、この作品で礼拝される聖母は像で、この作品はそのマリア像そのものの神々しさを表わすイコンのようなものというより、それを神々しさに礼拝する場面を描いているもので、ここに劇の一場面のような、いかにもバロック絵画らしいものと言えます。例えば、右奥の背景の空の描き方がいかにも書割の背景であるかのように描かれていたり、全体的な空間の広がりを感じさせず、むしろコンパクトに画面に収めようとする、多少の窮屈な空間の、まるで劇場の舞台のような都合の良いまとめ方を感じられると思います。これは、いかにも教会に飾るという効率性の要求に応えようとしていると考えられる。そこに、グエルチーノのクライアントの求めに誠実に応えようとするところが感じられるのではないか、と思います。ちょっと細かいかもしれませんが、マリア像と跪く二人の修道士の関係は変形の三角形を形成していて、前回に見たルドヴィコ・カラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の聖母マリアとその下で見上げる二人の人物の形成する三角形を踏襲し応用したのかもしれません。修道士が跪いて見上げる仰角の視線の先にマリア像を置いていること、さらにその修道士を斜め後ろから描くことによって作品を見る者の視線と修道士の視線が重なるようにして、その先にマリア像があることで、見る者が、あたかもこの場面の一部に参加しているかのような錯覚を起こさせる、つまりは感情移入を促すような効果を図っていると、言えると思います。そして、カラッチの作品では聖母マリアは幻視の世界でスポットライトが当てられているのに対して、この作品では、あくまでも聖母像だということだからなのでしょうか、マリア像の顔の部分は影になって見えにくくなっていて、幻視の光景ということから現実の風景へとスムーズに移行させて、感情移入のしやすさを図っていると言えるかもしれません。そしてまた、前回見たグエルチーノの『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』の中の祈る聖カルロ・ボッロメーオの姿は、この作品での手前で祈る修道士の姿をそっくり左右反転させたもののようにも見えます。このようにしてみると、グエルチーノの作品はシンプルな構成を使いまわして、クライアントのニーズに応じてカスタマイズさせていくことで高い品質を保っているのではないかと思えてきます。それは、変な喩えかもしれませんが、日本の自動車メーカーがプラットフォームという共通のシャーシを土台にして顧客の好みに応じてエンジンやボディを組み合わせて、自動車という共通の中でボックスカーやスポーツタイプ、ファミリーカーなどを効率的に作り分けているのと似ているような気がします。実に、グエルチーノの真骨頂はそういうプラットフォームを作ったことと、クライアントのニーズに合わせてカスタマイズさせていく手際にあるのではないかと思います。それが、この展示室に展示されていた、この『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』や、他の作品、例えば『幼児キリストを崇める聖母と悔悛の聖ペテロ、聖カルロ・ボッロメーオ、天使し寄進者』あるいは『キリストから鍵を受け取る聖ペテロ』なども、共通のプラットフォームに拠っているように見えてくるのです。このように展覧会で一堂に会してしまうと、そう見えてしまいますが、本来は、これらの作品はそれぞれに離れた地域にある教会に飾られるもので、それがどうだということは起こらないはずのことで、むしろこのことによって品質を維持させることができるわけです。だから、さっきの喩えではないのですが、日本製の自動車が品質の高さで世界的に評価されているのと同じように、グエルチーノの作品は当時は品質の高さの点で評価されて注文が殺到していたということだったのではないかと思います。ただ、そのことは、グエルチーノという人が工房の代表者として責任を負っていたことを見れば、誠実さの現われとも見えると思います。

Guerurolate2しかし、同じ題材の作品について、例えばカラヴァッジョの『ローとの聖母』と比べるとどうでしょうか。カラヴァッジョの作品では聖母像は現実の生身の女性のように描かれ、ロレートの聖母であることが分かるようなもの描かれていません。頭上の光輪からかろうじて聖母子であることが分かるだけで、現実の石造りの建物の前で、母子に汚れた身なりの男女が跪こうとしている瞬間が、まさにそのダイナミックな動きが活写されているように見え、さらにマリアが跪く男女に目をやるところから、祈る側と祈られる側の関係が現実にあるということがリアルに描かれています。ここには信仰という行為が現実の場面として活写されていると言えるのではないかと思います。たとえば、近代的な個人が内面の信仰ということを議論する場合に、このような画像は個人に問いかけるような強い精神性を持っているといえるかもしれません。ただし、ここでは類型的な神々しさとして聖堂に飾る範囲を逸脱してしまうのではないか。個人の自覚とかいう以前に聖堂に会する群集にアピールするにはパターンを外れてしまっているかもしれません。このような、逸脱は後世の現在からみれば、カラヴァッジョの一種の表現の過剰として、彼の特徴として見る事ができるものです。しかし、グエルチーノは、いわば、カラヴァッジョは越えてしまった一線の前で留まっているのです。これは当時の人々への効果を考えれば無理のないことなのですが、後世の私などから見れば、一線を越えたカラヴァッジョと比較してしまうのです。そこにもの足りなさを感じてしまうのを禁じることはできないのです。

Guerukeyさっきも少し触れましたが、『キリストから鍵を受け取る聖ペテロ』を見ていきましょう。このチェントの地で才能を開花させローマに赴くまでの間の時期の代表作ということで、展覧会のパンフレットにも使われている作品です。さきにみた『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』と並べてみると、上部の天使がカーテンで仕切るような区切りと書割のような背景の空、そして構図は左右が反転されていますが、斜めに仰角で対角線上に視線を上げていって見上げる対象に主人公が位置するという画面構成は良く似ています。しかも、全体として、画面の中に人物が多すぎることなく、かといって少なくて寂しいというほどでもなく、コンパクトにまとまりよく収まっています。中央に描かれているのはキリストで、跪いているのは聖ペテロでしょうが、人物としても人間の肉体らしく描かれていて、違和感がありません。かといって、聖なる人のイメージを壊すようなことはなく、うまくバランスがとられています。つまり、クライアントのニーズに対して、足りないでもない、行き過ぎでもない、ちょうよい、程々のところで応え、それで丁寧にまとまった画面を提供するという品質の高い仕事をしているといえます。これは、実際には大変なことで、グエルチーノという人の能力の高さは、そういうところにあったのではないかと思います。(例えば、もしルーベンスだったと想像したとすると、逞しい肉体をまとった人々で画面が溢れるようで、その迫力に見る者は圧倒され、祝祭的な気分でもっと盛り上がるかもしれない反面、ここにある一種の厳かな感じは後退してしまうと思ったりします。)後世の私は、無責任にもの足りないなどと勝手なことを言いますが、当時のグエルチーノにとっては、現実に工房を経営して、クライアントから注文をとっていかなければいけない、という事情のところで高い品質の仕事を続けているわけで、そのために彼は様々な工夫をしているわけです。それを敢えて、無責任かもしれませんが、私はもの足りないと、どうしても言ってしまうわけで…。これは、グエルチーノをくさすつもりではなく、かりに教会を見学していて、たまたまこの作品が飾られている場に立ち会ったとしても、その場で「ああそう」といって素通りするか、教会の一部として見るくらいで、この絵に感銘してしまって、作者は誰とか知りたがるといった類のことにはならないと思います。それは、もともと、この作品は、そういうものとして制作されたものと思われるので、だからと言って、この作品の価値を貶めるとかそういうものではないと思います。なんか弁解しているようですが、この作品は、よく出来ている、という点でもって、それはある意味で価値あるものと言えるもので、そう思って見ていました。何か、奥歯にものの挟まったような言い方ですが。それぞれが“らしく”ハマっている、ということがいい意味でグエルチーノの作品の印象の特徴と言えると思います。だから、彼の個性とかそういうものではなく、流行して、アカデミーの権威としてみんながお手本にできたと言えるではないか。それを、この作品を見ていて思います。ルーベンスやカラヴァッジョは強烈な個性を有していますが、アカデミーでお手本として年若い学生が勉強するのには適しているでしょうか…。

2015年6月 3日 (水)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(2)~Ⅰ.名声を求めて

グエルチーノの修行時代の作品ということなのでしょうが、どうやら才能に恵まれた天才少年のような人だったようで、17歳で地元の工房の共同制作者となって、20歳で工房を引き継いだということです。だから、誰かの師匠について修行するということもできず、独学のような学び方をしたのではないでしょうか。ただ、独学といっても偏った方向に行かずに、工房の親方と共同制作をしながら、自分で工夫していったということらしく、実践に裏打ちされたバランス感覚のようなものは、天与のものだったのではないか、と想像してしまいます。

Guerukarachiそんな展示で、最初に迫ってきたのは、当のグエルチーノの作品ではなく、彼がお手本にしたというルドヴィコ・カラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』という大作です。これは私の勝手な想像ですが、若干20歳で工房を率いる立場に立って、画家本人としては張り切って仕事に励んだのでしょうが、その反面、工房の人々やその家族を食べさせていかなくてはならない責任が彼の肩に負ってきたのではないかと思います。そのとき、技量を認められていたとはいえ、師匠に教わったということがなく、独学で描いてきたことに不安を感じ多のではないかと思います。イタリアのある地方の都市という狭いところでは、技量を認められていたかもしれませんが、井の中の蛙ではないと、その街の誰が証明してくれるでしょうか。もし、そうであって、彼自身がその自覚がなければ画家として行き詰るのは目に見えているし、工房の人々を路頭に迷わすことになりかねません。そのプレッシャーは若い画家の双肩に重くのしかかっていなかったと誰が言えるでしょうか。そんな画家がすがるようにお手本にしたのが、この作品だったという見方は、ちょっと作りすぎかもしれませんが、グエルチーノがこの作品の様々な要素をそれこそひとつも逃すことなく吸収しようとしたのか、何となく分かるような気がします。

Guerusuzume_2しかし、です。カラッチは当時の著名な画家であったのでしょうけれど、この作品がグエルチーノのお手本として、いわば彼にとって絵画というもののスタンダードな基準となってしまった偶然ということを考えてしまいます。いわば、これがかれにとって一線ということになったということでしょうから。もし、グエルチーノがこのときに、ローマやフィレンツェにいて、もっと他の天才たちの作品を広く見ることができて、絵画というものの可能性に遠く思いを馳せるような体験をしていたら、彼の視野がもっとひろくなっていたら、その後の彼の展開はどうであったのか、思わず想像したくなってしまったからです。作品と離れた妄想が続きました。実際に見ていくことにしましょう。

グエルチーノの『聖母子と雀』という愛らしい作品。この幼子のイエスを抱いた聖母マリアの姿は、『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の中央上部の祭壇上の聖母子の姿とよく似ています。しかし、カラッチの描く聖母子をそのまま引用するように持ってきたというのではありません。例えば、カラッチの聖母子は画面全体の中でのスポットライトを聖母子に当てているために母子の姿全体が明るく照らし出されていますが、グエルチーノの作品では、母子の背後から光を当てるようにして、雀を見ているキリストの表情は影になり、マリアの顔も半分隠れるようです。また、マリアの右手は、雀を止まらせるために、カラッチのようにキリストを抱きかかえる格好とは違っています。これは、グエルチーノがカラッチの聖母子を土台にして、そこに彼なりの創意を加えて作品として制作したものと考えられます。それは、単に丸ごと引用するよりも、土台してそこに自分なりの創意を加えるということで、それだけ影響は深いものと考えてられます。つまり、グエルチーノはカラッチの作品の聖母子の描き方を血肉化するほど取り込んでしまったので、それをもとに応用ができてしまえるほどになっていたということです。おそらく、グエルチーノはカラッチの作品の画面を隈なく舐めるように、吸収していったのではないでしょうか。そこで、人体の描き方とか、女性の顔立ちとか、グエルチーノにとっては、このカラッチのお手本がメジャーに通じる一本道に見えたのだったのではないか。それだけに、愛らしい小品のようにも見える、この作品は、聖母子のアトリビュート(シンボリックな小道具)がなく、神々しい姿にもなっていなくて、カラッチの聖母子の姿の引用で、そのポーズなどで聖母子と見せているということで、カラッチの作品の派生的な作品になっている、と考えられます。つまり、この作品がそのものとして自立していると言えないのではないか。

Gueruboro_2そのように見ていくと、ここで「Ⅰ.名声を求めて」として展示されている一連のグエルチーノの作品は、釈迦様の手のひらの中で孫悟空が弄ばれたように、カラッチの作品の影響の中で、グエルチーノがカラッチの作品のバリエィションの範囲に留まるものであるように、私には見えてきます。

『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』という作品はどうでしょうか。私には、赤いマントを羽織り跪く聖カルロ・ボッロメーオの姿は、『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の画面左下で聖母子に跪く聖フランチェスコの姿と重なってくるのです。人物は異なるし、聖カルロ・ボッロメーオは手を合わせているのに対して、聖フランチェスコは両手を広げていますが、身体の姿勢や祭壇に対する位置関係、あるいは描いている角度や態勢といったベーシックなところは共通しています。

これらのように、カラッチの作品の影響はグエルチーノの作品の目に見える明白なところに留まらないベーシックなところに及んだのではないか、私には思えます。そのカラッチの作品が、どちらかというと突出した天才的な作品と言うよりも、凡庸とはいいませんが、普遍的要素の強い作品だったとおもえることから、グエルチーノの描き方のベースが個性で突出する方向ではなく、分かりやすく広範囲にアピールできるような方向に導かれたのではないか、とあくまで私の仮説的妄想ですが、ここでの展示を見ていて思いました。

Caravaggiofran2また、一方で、これだけ深甚な影響をカラッチから受けながら、グエルチーノがカラッチにならなかった点、つまり、カラッチとグエルチーノの違いとして明らかに見えるものもあります。それは、グエルチーノには、シンプルさへの指向があるということです。カラッチの作品に見られるゴチャゴチャした感じに対して、グエルチーノはパーツを削ろうという指向がはっきり見て取ることができると思います。それは、『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』にも見られると思います。天使の姿を聖カルロ・ボッロメーオの背後の二人に絞って、アトリビュートも描き入れることをしていません。そこには、全体の構成とメインの登場人物で画面を構築するという、この後で明らかになってくるグエルチーノの特徴の萌芽が見られると思います。

なお、余談ですがカラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の聖フランチェスコから、遠くカラヴァッジョの『瞑想する聖フランチェスコ』の姿が垣間見えてきます。この両者を比べてみると、カラッチの作品を突出したところがないと、私が述べる理由も分かっていただけると思います。

2015年6月 1日 (月)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(1)

2015年3月国立西洋美術館

Guerupos昨年の9月以来の通院日、半年振りの検査で経過を見る。大きな変化なしということで、1年後に様子を見ましょうという医師の言葉に、ほっと安心した。予想していたより早く診察が終わったので、空いた時間で少し無理して上野まで足を伸ばした。一足早い春のようなポカポカ陽気で、天気もよかったためか上野の公園口は平日というのにけっこう人が多かった。それも外国人の姿が多かったようだ。花見でもするのだろうか。展覧会自体は、未だ始まって間もなく、平日の昼過ぎということもあって、人影も少なく、静かにじっくりと作品を堪能することができた。作品のサイズが大きく、そのためか展示点数が40数点という少ないこともあって、ゆったりとした雰囲気も、静けさと相俟って、とても落ち着いた印象の展覧会だった。

いつものように主催者あいさつを見ると、作家とか作品のことはさておき、この展覧会を行なう事情が大きく説明されていました。作品の大半が展示されている美術館が災害にあって避難していて、その援助も兼ねて作品を借り出して展覧会を行なうとの趣旨だそうですが、これは、私が作品を観ることには関係ないことなので、単に、邪魔とだけ書いておくことにします。そうやって主催者が展覧会をすることは否定しませんし、そのおかげで私も作品を観ることができるのでしょうが。しかし、慈善でやるならそういうものだとしてやってもらえばいいと思います。仮にそういうことで展覧会をやったとしても、この画家の展覧会をやろうと思ったのは、この画家や作品に魅力を感じたからであるはずで、それについて、主催者としての考え方を趣旨として明らかにするのが、主催者あいさつとして提示されるものだと、私は思っています。だから、展覧会に行けば、私は、先ずこのあいさつを読みます。そして、このホームページに感想を書き込むときも、主催者のあいさつは尊重する意味で引用させてもらっています。しかし、今回の展覧会のあいさつ、そういう内容が書かれていないので、割愛するとして、替わりにパンフレットの簡単な画家の紹介を引用することにします。

“グエルチーノ(1591~1666年)はイタリア・バロック美術を代表する画家として知られます。カラヴァッジョやカラッチ一族によって幕を開けられたバロック美術を発展させました。一方、彼はアカデミックな画法の基礎を築いた一人であり、かつてはイタリア美術史における最も有名な画家に数えられました。19世紀半ば、美術が新たな価値観を表現し始めると、否定され忘れられてしまいましたが、20世紀半ば以降、再評価の試みが続けられており、特に近年ではイタリアを中心に、大きな展覧会がいくつも開催されています。”

 私も、クエルチーノという名は、はじめて聞いたのでした。展覧会のサブタイトルが“よみがえるバロックの画家”というものだったので、少し興味を持ったのが展覧会に行った動機です。たしかに引用したパンフの説明にあるようにカラヴァッジョの強烈な明暗の対照に比べると、グエルチーノは、よく言えば古典的で安定した感じがする、悪く言えば微温的でもの足りない。カラヴァッジョの比べると酷かもしれませんが、グエルチーノはカラヴァッジョのような才能に振り回されて行き着くところまで逝ってしまった人ではなくて、普通の(とはいえ有能な)人が地道に努力を重ねて、ある程度のレベルの作品を残すことができた、という印象を受けました。私が見た、グエルチーノという人の特徴は一種のバランス感覚のようなものです。全くの畑違いですが、クラシック音楽の世界で20世紀の作曲家にリヒャルト・シュトラウスという作曲家がいます。有名なグスタフ・マーラーの後を受け継ぐように、半音階を多用し、不協和音を大胆に使用した先端的なオペラをつくり、物議をかもしたということですが、その後の一線をついに超えることはなかったという人です。その一線を超えて調性を否定する作品をつくったのはシェーンベルクという作曲家、彼からいわゆる難解なゲンダイオンガクが始まったと言われるのが西洋音楽史となっています。さて、そのリヒャルト・シュトラウスは一線を踏み越える前で留まった後は、戯古典的な作品に変わって人気作曲家となります。いまでも、クラシック音楽の世界では比較的人気のある作曲家ですが、評価としてはドイツ・ローカルなマニア向けで、いわゆる巨匠のような作曲家に比べて数歩劣るという位置づけです。私も、彼の作品を聴くことがありますが、オーケストラを鳴らすのに巧みなのは分かるのですが、たんに響いているだけという印象で、聴いたという満腹感とか充実感を得ることが少ないので、BGMという位置づけにあります。話しを戻しますと、グエルチーノの作品を見ていると、似たような、色々試して頑張っているようなのですが、それがグッとこちらに迫ってこないで、どこかもの足りないという感じがしました。

Grecocon例えば、展覧会パンフにつかわれている『聖母被昇天』という作品は、聖母マリアが天使に導かれて天上に昇っていく姿を下から見上げる視点で描いている作品です。たぶん聖堂の高いところに飾って、訪れる人々が見上げるように展示されていて神々しさを盛り上げる効果を及ぼしているのではないかと思います。仰角の下から見上げるという視界でグエルチーノは構図とか、構成とか苦労したのではないかと思います。たとえば、画面の中央上部にシンボルとして描かれている鳩の姿は真下からみた姿のように描かれていて、正確に描かれていると思うのですが、神々しいというよりは、下から見た姿を忠実に描いたという印象で、少しばかり寸詰まりなユーモラスな姿に思わず微笑みをまじえてしまうようなのです。そこで、神々しさをもたらすような緊張が緩んでしまうのです。ここで、グエルチーノとは、全く関係ないかもしれませんが、エル・グレコの『無原罪の御宿り』という作品と比べてみたいと思います。登場人物がマリアと天使と鳩で仰角の視線で描かれているというのが共通点といえば、共通点です。グレコの作品はゴチャゴチャしていて、うるさい感じがしますし、グエルチーノの作品に比べれば個々のパーツは不正確で、しかも描き方が雑です。鳩などは角度が違っていて、見るほうが修正してあげて見てあげるようです。しかし、画面全体から溢れるような圧倒的なものが観る者に迫ってくるようなのです。残念ながら、グエルチーノの作品からは、グレコのような圧倒的なものは感じられません。

ただ、このようなグエルチーノとグレコを比べて、グレコの方が上でグエルチーノはその域に届かないというのではありません。それが、二人の画家の方向性の違いでもあるわけです。そのひとつが、グエルチーノと言う画家の持っているバランス感覚はグレコには希薄だったようでしょうし、リアリズムとまではいかないでしょうが、親しみやすさとか、グエルチーノは様々な要求に応えようとしたのではないかと想像することも可能です。そういう点でみると、グエルチーノという画家は、グレコ等に比べると現代的な視点からも親しみやすい人と言えるかもしれないのです。そのような見方で、これから具体的な作品を見て行きたいと思います。

会場での展示は次のような章立てだったので、それに従って見て行きたいと思います。

Ⅰ.名声を求めて

Ⅱ.才能の開花

Ⅲ.芸術の都ローマとの出会い

Ⅳ.後期①聖と俗のはざまの女性像─グエルチーノとグイド・レーニ

Ⅴ.後期②宗教画と理想の追求

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