山内史朗「天使の記号学」(17)
2.身体の聖性
身体は所有物なのだろうか。生命や魂であれば、個人のものではなく、預かりものという発想は古代では珍しくない。もし、身体が、同じように預かりものであるとすれば、精神と身体を結びつける絆は何になるかということだ。
その絆のあり方を見るために、「地と肉」について見ていこう。とくに血は穢れの典型的なものだ。血は公共的な場面から隠れ、血にまつわるタブーは数多い。このような血について注目したいのは、血が生から死へ、死か名への移行の媒介・臨界をなすことだ。日常「ケ」と非日常「ハレ」を分かつ標識となっていることだ。標識や徴のついたものはすべて非日常の世界に属しており、日常の世界に持ち込むことは厳しく禁じられている。血に代表される穢れが禁じられるのは、その非存在が望まれているからではない。絶対的に穢れの非存在を求めるならば、天使になるしかない。外部と内部の中間に位置するものは排除されるのだ。生を死に、死を生に結びつける血は、生と死の中間・媒介・第三項であり、排除されねばならないものなのだ。
境界の上にあること(リミナリティ)は、曖昧かつ両義的に性質を有する。このあり方は文化的空間を成立させる網の目からはみ出しているからだ。両義的なものは、内部にあるのでも外部にあるのでもない。このようなものは、区別し分類することで事物の秩序を構成しようとする精神にとっては、不気味なものである。このような両義性は、しばしば死や子宮の中にいること、不可視なもの、暗黒等に喩えられる。分類し区別するシステムが成立していない場合、カオスが登場するが、これらの象徴の意味するものは、まさにカオスなのである。カオスと言っても、秩序空間の原初に想定されるカオスと秩序空間のシステムを混乱させた結果生じるカオスとでは意味が異なる。そして、両義性とは、外部と内部の中間にある曖昧な領域というよりは、内部と外部を対立させる源泉でもある。端的に言えば、両義性やカオスは物事を産み出す源泉なのである。だからこそ、宇宙の始まりにカオスを置く神話もよく見られるだろう。
宇宙の創造は、外部と内部との往還として語られる。ところが、内部とか外部の往還を司る法則は、明文化されるような顕在的法則とは成りにくい。もし、顕在的に法則化できるならば、それはカオスとはなり得ない。法則を有し、理性のもとに収まりうるものが、あえてカオスとしてのあり方を持ち続けるための条件は何なのか、それがタブーだ。タブーとは、禁止の規則であるより、何ものかを保存するための法則なのだ。タブーとは、往路と復路を作り出すことで、可逆性・反転可能性を引き起こす装置と言ってもよい。祭りにおいて見られるように、タブーが人目にさらされ、触れられることで、聖と俗は交通し合い、反転を遂げる。タブーは、日常においては禁止法則として機能するが、禁止法則としてのみ見るのはまったく一面的である。むしろ、タブーとは、日常世界と異質の世界をつなぐ入り口であり、日常世界の入り口であると同時に出口でもある。タブーという入り口が開かれるのは、一定のエネルギーが蓄積された場合である。タブーとは特異点であり、両義性が現れる場所である。両義性が顕在化した場合、日常世界に出口ができてしまうので、日常世界では矛盾律と同一律によって両義性が表面化しないようにしておくしかない。タブーとしての開口部は、一定の備給水準まで達していない場合には、単なる禁じられた領域としてのみ機能する。
血と肉とは、多くのタブーを伴う領域であり、生と死の往還を操作しうる両義的なものである。性欲や性交がタブーとされたのは、禁止されるべきものだからではなく、両義的なものであるが故に、タブーの中で守るしかなかったからであろう。中世においては、肉体や肉体的快楽は、以上に述べたような意味でタブーであったと言えるかもしれない。
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