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2015年6月18日 (木)

山内史朗「天使の記号学」(11)

5.快楽の技法

中世では、肉体を罪の源泉と捉える発想は馴染まないことを見た。なぜ人間は、肉体から湧き起こる快楽を罪悪と見なすのだろう。罪悪感は、行為の後においては後悔の念を引き起こす。罪悪感は、未来の行為に対する倫理であるより、過去の行為への贖罪だ。過去の行為への贖罪が、繰り返される未来の行為へと向けられる場合、それは反復強迫を引き起こし、同一の行為を繰り返すことがそれ自体で逸脱となり、同一の行為を繰り返しながら、退屈な反復に堕することなく、増大する逸脱によって、ますます大きな快楽を得ることができる。罪悪感とはマンネリに陥ることなく、退屈な日常から大きな快楽を得ることができる、案外打算的な心的メカニズムだ。罪悪感を悪用することで、無際限の快楽が得られるのだ。

快楽もまた、欲望と対象の間に成り立つ、目的連関の内にある以上、「秩序連関」において考察するしかない。中世においては、快楽は「使用」されるべきで、「享受」されるべきではないという言い方がある。これはアウグスティヌスに起因するもので、かれは次のように言っている。「享受するとは、あるものをそのもの自体のために愛し、愛によってそれに固着することである。他方、使用するとは、君の愛するもの愛に価する場合、その愛するものの獲得を目指してそれを使用することだ」一般的に述べれば、手段・道具は使用され、目的は享受されることになる。使用と享受の対比が意味を持つのは、人間の行為における目的連関のプロセスが、無限連鎖ではないことに由来すると思われる。最後に得られる目的が、至高の目的であるならば、先立つ行為が手段で、後続する行為が目的である。この後続する行為も後に来るものの手段となるような連鎖がドミノ倒しのように成立すればよいが、人間の生において最後に得られるもの(死、場合によっては世界の終末)が至高の目的とは言えるはずもない。目的を先送りにするような枠組み、後件が前件を意味づける枠組みは最後には破綻してしまう。使用と享受の枠組みで言えば、自己の生を「使用」すべきであると述べることは、生を「使用」の連鎖、手段─目的の連鎖に還元しようとするのではなく、逆にそのつどの行為における「享受」の可能性を示したものと読むことも出来る。

このように見た場合、快楽を「使用」する、つまり手段として扱うことは、快楽に翻弄されない「清らか」な生き方にもなるのだろうか。快楽は、フロイトによれば、緊張状態からの解放のこととされる。奇妙な説明にも思われるが、空腹であれ、性欲であれ、快感を突き詰めて考えて、それ自体で定義しようとするとそうなってしまうのだろう。現実的な感覚のレベルで考えれば、確かにその程度のものだ。フロイトが快感を定義する場合、緊張からの解放を語ることが多いとしても、性の欲動は障碍として現われ、絶えず緊張を伴い、そこからの解放が快として受け止められるということの方が主眼だったと思われる。つまり、快を求めることが行為の中心をなすとしても、快そのものに快を求める欲望の本質が見出されるのではなく、快を準備する形式、生活の形式の方が重要だ、ということだ。充足の可能性の形式の方が重要なのかもしれない。充足の結果与えられる快楽は、私が見ている「赤色」と他者が見ている「赤色」を比較できないのと同じように、他者の快楽と比較できない、したがって言説の秩序の中に収まらないということだけでなく、充足の可能性の形式は、人間の欲望が欲望である限り、それ自体で享受の対象となりうるものなのである。充足の可能性の形式にこだわるのは、充足の結果にこだわるにしても、欲望の対象の獲得は偶然的状況に左右され、思い通りにならず、結局対象によって翻弄され、対象に隷属することになりやすいからだ。

このように見てくると、中世とは快楽の拒否された時代と言う常識的な見方はどうなのか。中世の欲望論を考えた場合、そこにあるのが、放縦の禁止と中庸の勧めという程度のものとは思えない。痛みや熱さと違って、快感に対応する感覚刺激はない。もし快感がそういった感覚刺激から自動的に得られるものであれば、そこに倫理的なものはあまり関わってこない。快楽には「文法」があり、文法は学ばれなくてはならないが、あたかも学んだものではないかのごとく主体に根づき、しかも文法が一番うまく機能しているは忘却されている状態であるというのと同じ困難がある。文法が忘却されねばならないというのは、言語を話している時にはっきり現われてくる。文法を意識し、それに基づいて話している状態では、流暢な話し手になることはできない。にもかかわらず、「文法」は学ばれねばならない。そして「ハビトゥス(習慣)」として定着しなければならない。そういったものを学習させる一つの方法は、初めから抑圧されるべきもの、穢れたものとして教えることだ。だからこそ快楽にも文法あるということになる。

なぜか或る対象がむやみに欲しくなることがある。ところが、その対象は、なぜそれを求めるのか訊ねられればよく分からなくなるような渾然としたものとして与えられる。そこで欲望の曖昧な対象が与えられ、それに呼応して、曖昧な欲望が現れる。そこに作用の充実が生まれる。その充実を強いものにしようとすれば、つまり、作用の強度を高めようとすれば、作用に大きな備給を与えなければならない。そのことは、通例、対象と欲望の分節化を通して行なわれる。快楽とは、対象に向けての欲望の備給に相関するものだということだ。たとえば、コレクターの快楽は、見出された対象の内に原因があるのではなく、対象に価値を付与しているからであり、価値あるものへの欲望を備給しているからなのだ。備給と快楽は相関しているのだ。快楽の形式は、次のようになるだろう。或る対象に備給が行なわれ、欲望の対象がそこに現れ、その対象を獲得することによって、初発的な快楽が生まれる。その快楽によって、さらに対象への再備給が行なわれ、より大きな快楽が得られるというように、対象への再備給が繰り返しなされることによって、快楽は強度を強めていく。その際、再備給は対象以外のものに分散されてはならない。対象への集中こそ、快楽のための必要条件だ。

七つの大罪をめぐる議論は何を述べていたのだろうか。私はそこに可能性の条件をめぐる議論を見て取りたい。七つの大罪も再備給の形式を持っていた。しかし、大罪においては、対象の獲得がさらに欲望をかき立て、対象から遠ざかってしまうのに、秩序連関に収まる再備給は、対象に近づく。両者の最たる違いは、初期条件が仮想的なものであっても、受容するからあるのだろう。この初期条件は多分に身体に根ざしている。話が面倒になるのは、この初期条件が言葉やコミュニケーションの可能性の条件にもなるからなのだろう。快楽においても、快楽は個人的状態ではないかもしれない。つまり、快楽の交流を考察の中心とした場合、快楽が対象の獲得によって生じる個人的状態ではなく、充足の可能性の形式の共振によって生じると考えられるからだ。結局、対象・事物・目的によって拘束される思考法は、かえって対象を見失い、対象に至る道筋から逸脱しがちだ。再備給によって生じる欲望の濃密化は対象から離れがちなのだ。再備給によって生じる、備給の連鎖は、通例であれば、無限に続くことはなく、終極を有するのに、欲望の文法に終極が組み込まれていない場合、擦り切れたレコードのようにおなじミゾを走り続けるしかない。

人間の欲望は、人間の作り出した虚妄であり、そこから覚めることが悟りであると考えられるような、安直な唯名論が、人間の心を誘惑し続けてきたように思われる。或るものの本質や「…とは何か」への答えがないとしても、だからといってそこから、本質はないという結論が導かれるわけではない。人間の欲望には迷い・幻想といった側面がきわめて強く見られる。だから欲望の対象の本質などないと言うことは簡単なことだ。しかし、問いの向こう側に答えがないとしても、といの手前に別のものが待ち受けているかもしれない。言葉の手前にあるものが「コミュニカビリティ」であり、肉体の手前にあるものが「身体図式」だ。そういった「手前」にあるものとは、決して<見えるもの>の背後にある<見えないもの>なのではなく、<見えるもの>の手前にあり、<見えるもの><見えないもの>を成立させるものであるがゆえに<見えないもの>なのだ。

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