無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 山内史朗「天使の記号学」(4) | トップページ | 山内史朗「天使の記号学」(6) »

2015年6月12日 (金)

山内史朗「天使の記号学」(5)

4.祈りの言葉

前節のような言葉の捉え方は、言葉のパフォーマティブな機能の重視、いわゆる「言語行為論」に近いものだ。言葉が出来事であるという理解は、聖書の「光あれ」という神の言葉がそのまま創造であること、「はじめに言葉があった」という一節などを踏まえれば、中世において珍しい発想ではなかった。むしろ、言葉が出来事としてあったことは、<声の文化>の影響を残している中世においては、当然のことだ。

言葉の持つ出来事・力としての側面、しかも神の言葉でなく、人間の言葉にそれらの側面が見出されるとした場合、ここで考えられるものの一つが「祈り」ということだ。もし祈りが神へのコミュニケーションとしてあるならば、祈りに声を出す必要はない。神は祈るものの心の内をすべて知っているからだ。しかし、祈りはコミュニケーションではない。これが中世における標準的理解である。祈りとは行為なのであり、しかも自己へと帰ることによって、神にいたる行為なのだ。そこでは言葉に発するということが大きな意味を持っている。

集団的祈りの場合、神への語りにおいて言葉は必要ないにしても、同時に人間に向かっても合図を送らねばならない以上、言葉が必要になるということである。また、個人的祈りの場合、他の人間に知らせる必要はない以上、そして神にのみ語りかける以上、言葉は必ずしも必要ではない。しかし、その上で神学者たちは、個人的祈りにおける言葉の意味を積極的に認めている。

(1)心の内に敬虔な思いを喚起するため

(2)心を照明するため

(3)祈るときに必要なことがらを覚えやすくするため

(4)心が放浪しないように見張りをするため

(5)神より与えられた恩義、つまり精神と肉体の両方において報いるため

(6)激しい献身によって、心の中に収まりきれなくなったものが肉体へと溢れ出てくるため

(7)隣人に祈りを教えるため

多くの神学者の共通するのは(1)の論点である。祈りとは、多くの場合、言葉や身振りといった外側の形が先にあって、その後で内面の心情がつき従うものなのである。神仏に頭を下げて、手を合わせるのは、敬虔な心情が沸き起こったからではなく、敬虔な心情を引き起こすためだと言うのは重要な論点だろう。もちろん、敬虔な心情の発生時点・過程を調べるのは困難だが、外側の形・言葉が整って初めて、敬虔な心情が高まるという方が事実に近いと思われる。日々の労働の忙時、祈りに先立って、敬虔な心情を求めることは、非現実的であろう。世俗を離れて生きる者ならばいざ知らず、世俗の中に生きる者には、内的敬虔に先だって、言葉があり、祈りの言葉が敬虔な心情を引き起こすのは当たり前のことだ。

一般的に述べても、心が、肉体の形・動作・習慣によって形が与えられることはおそらく当然のことだろう。言葉のパフォーマティブな働きへの注目は中世においても存在していた。言葉の基本単位が、真偽を有する命題に置かれる限り、行為としての言葉の側面は閑却されるし、閑却されねばならない。これはたぶん当時の常識であり、しかも同時に論理を越えた領域においては、最も透明なはずのコミュニケーションでさえ、言葉を要すると考えられていた。言葉に備わっている物事を成立させる力が認識されていたのだ。

中世が、身振りにおいても言葉においても儀式の秩序においても、形式的で定型的であったのは、心の姿は、具体的な「形」を持ったもの─音声もそこに含まれる─に転じる過程で徐々に現象することを前提していたからだと思われる。「形相・形は事物の存在を与える」という中世の格率は、形相が、予め存在する事物の原型・範型の側面と、目や耳や触覚といった感覚が把握する「形」の両面を有していたこと、しかもその場合、形相は初めにあってしかも最後に登場するものであったこと、つまり、渾然としたものが明確なものとなる過程を表わすものと理解することができる。そして、このような現象する過程を担う力が意志であるし、また意志であると理解されていたと私は思う。

« 山内史朗「天使の記号学」(4) | トップページ | 山内史朗「天使の記号学」(6) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山内史朗「天使の記号学」(5):

« 山内史朗「天使の記号学」(4) | トップページ | 山内史朗「天使の記号学」(6) »