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2015年6月 5日 (金)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(4)~Ⅲ.芸術の都ローマとの出会い

Guerusuzume_230歳を過ぎて、グエルチーノはローカルな画家から、ローマに出てきます。2年ちょっとで、また地元にもどったということですが、それが彼の画風が変化していくきっかけになったといいます。“彼の構図は次第に単純化していき、人物の輪郭は明確になる。光も空間全体を淡く照らすようになり、人物のヴォリュームを強調するようになる。つまり、古典主義的な様式に近づいていく。”そういう説明は、私のような美術作品を見る素養のない者にとっては、違いが具体的には分かりません。

Gueruchild2_2『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』という作品です。前々回に見た初期作品である『聖母子と雀』と比べながら見ていくことにしましょう。『聖母子と雀』は、全体として薄暗い画面の中から右手からさす柔らかな光で聖母子の右側がぼんやりと浮かびあがるものとなっています。これに対して『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』の方は、たしかに、上の説明の通り“人物の輪郭は明確”で、“光も空間全体を淡く照らす”ゆえに画面全体が明るく明確に描きこまれているように見えます。“室内にはガラスを通した光が柔らかく拡散し、画面と平行に配された机の上で私たちに祝福を与える幼児キリストと聖母は、曖昧さをいささかも残さずに暗い画面から浮かび上がる。光はもっぱら肉体のフォルムに立体感を与え量感をもたらすことに用いられるが、とはいえ重々しさはない。”と解説されていますが、ここで立体感を与えられているのは全身の裸身が描かれている幼児のキリストでしょう。『聖母子と雀』では、同じようにキリストは裸身の全身像で、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』よりも大きくクローズアップされていますが、光に照らされている部分と影の部分の対照が強く、影の部分は、例えば顔の表情は、はっきりとは分かりません。しかし、それが明暗の対照の中で光の当たっている小さな雀の存在を強調し、その雀と細い糸がキリストの手につながっていることが浮かび上がり、観る者の視線を雀に向けるようにして、実はキリストの視線に同調させるかのような効果をもたらし、キリストの表情が見えないことで、かえって観る者に想像する余地を与え、それによって共感に誘う。このようにキリストの全身像ははっきりとは見えませんが、そのことは却って、この画面で語られるドラマに誘い込まれるような効果をあげています。これに対して、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』の方は、光はドラマをつくるのではなくて、画面全体に行き渡るようで、キリストの全身は明瞭に見えます。ここでの主役はキリストの神々しい姿と、それを優しく見守る聖母マリアであり、『聖母子と雀』では、ドラマが中心でキリストとマリアは、その登場人物としての道具立てのようなものだったのに対して、ここでは、二人の存在が中心になっています。キリストや聖母マリアの姿そのものに観る人の視線が惹かれていくと言えます。

GuerufelGueruratrとはいえ、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』をみていて、画面の向かって左に窓があって、そこから光が差し、そのため全体として壁際の構図で左側が壁で切られて右側に空間が広がるシチュエーションやその壁につくようにテーブルが設置されている配置、しかも女性が、その窓に向かっているポージングなど、フェルメールを思い起こさせられるのです。しかし、光の繊細な描き分けとか、画面の精細さはフェルメールに及ぶべくもありません。一方、『聖母子と雀』の輪郭を明瞭にすることも犠牲にする代わりに、明暗の対照を強調したドラマを画面に作り出していくのなら、ジョルジュ・ラ=トゥールの明暗の強烈な対照で、それこそ聖なる瞬間を活写したような画面に比べるとグエルチーノの方は微温的と言われても強く反論できないところもあると思います。しかし、同じ一人の画家の似たようなモチーフの作品から、全く方向性の異なる画家の作品を連想させるような幅の広さというのは、グエルチーノという画家の持ち味ではないかと、私には思えるのです。それぞれの方向が比較した画家たちに比べれば中途半端に見えるかもしれませんが、それぞれはある程度のレベルにあることは確かです。つまり、幅広さがあって、それぞれが一定のレベルにあるということであれば、教科書としては絶好であるし、人々に広く受け入れられるグランド・マナーの画家としてあるのなら、それはきわめて有利に働くはずです。その意味で、グエルチーノが売れっ子の画家となったことや、アカデミーの権威となったということに、彼の作品の方向性が関係していたのではないか、と思われるところがあると思います。

Guerureturn『聖母のもとに現れる復活したキリスト』という作品です。ドイツの文豪ゲーテが「イタリア紀行」のなかでこの絵に対する記述があるとか、グエルチーノの作品の中でも称賛を集めてきた作品だということです。『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』と同時期に制作され、ローマ以降のグエルチーノの作風変化がよく見える作品ということです。“この作品は明快な構図・人物描写、理想的な表現といった特徴が見られる。キリストと聖母は前景に並んで配され、キリストの頭を頂点とした三角形を作り出すことで安定感を見せる。キリストには向かって左から全身に光が当たり、彼とともに暗い室内に光がもたらされたかのようだ。この絵で特に称賛されてきたのは衣襞の表現である。そのヴォリュームの戯れと色彩において、グエルチーノは観念的な美すなわち純粋絵画の探究を始めたと述べる研究者もいる。”と解説されていました。三角形と解説されていますが、すがるマリアとキリストの位置関係はタテの構図で、キリストを見上げる構成は、祈る人が下から見上げて、祈られる人が上から見下ろすというタテ構成は、ここで展示されているグエルチーノの作品に数多く見られるものです。まあ、宗教的な題材に作品は、おしなべてそういうものが多いのでしょうか、それゆえにグエルチーノも多く描いたのか、彼自身も好んだのかもしれません。それほど、私には目に付いたのでした。

しかし、この作品もそうなのですが、とくにグエルチーノの作品はいわゆるバロック美術にカテゴライズされる画家たちに比べるとスッキリとして、ここでも解説されているように古典主義とまでは言えないでしょうが、整った明確な構成を備えているように一見感じられるのですが、どこか不自然にところが残るのです。この作品に対して称賛を惜しまないゲーテの「イタリア紀行」でも“キリストの姿勢に、あえて不自然とはいわないにしても、何かしら異様な感じを与える。”という記述があります。言ってみれば、わざとらしいところです。これまで見てきた作品から窺われるグエルチーノのバランス感覚やセンス、技量からいえば、それをさりげなくすることは十分可能であると、私には思えます。そのため、ゲーテも感じた不自然さは、意図的なものの気がします。それが、この作品ではたんに作品を安定したものとして終わらせていないところがあると思います。ややもすると、安定した画面は退屈と紙一重ですが、それを救っているのが不自然さかもしれません。それが、どのようなものかは、今、ここでは、私も把握しきれていないので、もし触れることができれば、後の時期の作品の中で触れることができれば、試みたいと思います。

Guerushyouten『聖母被昇天』という作品です。この展覧会パンフレットにも採用された作品で、最初のところで少し触れました。建物の天井に飾って下から見上げるような角度で描かれたように見えます。ミケランジェロの『最後の審判』のようにバチカンの聖堂の天井に描かれた作品でも、横の視点で描かれていますが、この作品は視角がそもそも下からの仰角で描かれています。一種のだまし絵のような描き方みたいです。これは、グエルチーノがローマに出てきて間もなく描いたという建物の天井に描いたといわれる(それ故、日本には持ってこられない)『アウロラ』に通じているような作品です。だまし絵と言いましたが、下から天井を見上げるようにして作品を眺め、しかも、それが仰角の視点で描かれていれば、さらに見上げるように画面の中を見ることになります。だから、この作品のように、聖母が見上げる先にいる天使はもっと高いところにいるように錯覚することになります。この画面の真ん中に、いわば中心としてある雲と空は、それ以上の高みのように見えてくるわけで、聖母が昇天していく先の遥かな高みを錯覚させる効果を最大限に生かしているのではないか、と思います。構図としては、今までにないもので水平の視線とは異質の、普通の水平の視線から見れば、不自然になる構図を、グエルチーノは、戸惑ったというよりは、むしろ、そっちの方が向いているとでもいうかのように喜々として描いたのではないか、と思わせるころがあります。聖母はあごの下部を丁寧に描いたりと、それらしく描いていますが、天使のポーズや描き方は初期作品で描かれている天使とは全く異なるポーズになっていて、このために様々な試行錯誤をしたのだろうことは想像できます。そして、結構大胆なポーズをしているのではないかと思います。グエルチーノという画家は、精細な描き方とか、繊細な表現とか、逆に大胆なドラマとか、そういうひとつの方向での強い特徴を誇示するタイプの画家ではなく、バランスを保つほどほどのところで人々に受け容れやすいタイプの画家であるかと、最初は思いましたが、前の作品で明確に表われたの気付いた薄々には感じられたのですがはっきりそうだとは言えなかった不自然さや、この作品での大胆さをみると、それだけでは終わっていない人であることが分かります。それが、一度は歴史に埋もれてしまったのが、最近になって再発見された理由の一つかもしれません。

Gueruauro

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