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2015年6月 3日 (水)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(2)~Ⅰ.名声を求めて

グエルチーノの修行時代の作品ということなのでしょうが、どうやら才能に恵まれた天才少年のような人だったようで、17歳で地元の工房の共同制作者となって、20歳で工房を引き継いだということです。だから、誰かの師匠について修行するということもできず、独学のような学び方をしたのではないでしょうか。ただ、独学といっても偏った方向に行かずに、工房の親方と共同制作をしながら、自分で工夫していったということらしく、実践に裏打ちされたバランス感覚のようなものは、天与のものだったのではないか、と想像してしまいます。

Guerukarachiそんな展示で、最初に迫ってきたのは、当のグエルチーノの作品ではなく、彼がお手本にしたというルドヴィコ・カラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』という大作です。これは私の勝手な想像ですが、若干20歳で工房を率いる立場に立って、画家本人としては張り切って仕事に励んだのでしょうが、その反面、工房の人々やその家族を食べさせていかなくてはならない責任が彼の肩に負ってきたのではないかと思います。そのとき、技量を認められていたとはいえ、師匠に教わったということがなく、独学で描いてきたことに不安を感じ多のではないかと思います。イタリアのある地方の都市という狭いところでは、技量を認められていたかもしれませんが、井の中の蛙ではないと、その街の誰が証明してくれるでしょうか。もし、そうであって、彼自身がその自覚がなければ画家として行き詰るのは目に見えているし、工房の人々を路頭に迷わすことになりかねません。そのプレッシャーは若い画家の双肩に重くのしかかっていなかったと誰が言えるでしょうか。そんな画家がすがるようにお手本にしたのが、この作品だったという見方は、ちょっと作りすぎかもしれませんが、グエルチーノがこの作品の様々な要素をそれこそひとつも逃すことなく吸収しようとしたのか、何となく分かるような気がします。

Guerusuzume_2しかし、です。カラッチは当時の著名な画家であったのでしょうけれど、この作品がグエルチーノのお手本として、いわば彼にとって絵画というもののスタンダードな基準となってしまった偶然ということを考えてしまいます。いわば、これがかれにとって一線ということになったということでしょうから。もし、グエルチーノがこのときに、ローマやフィレンツェにいて、もっと他の天才たちの作品を広く見ることができて、絵画というものの可能性に遠く思いを馳せるような体験をしていたら、彼の視野がもっとひろくなっていたら、その後の彼の展開はどうであったのか、思わず想像したくなってしまったからです。作品と離れた妄想が続きました。実際に見ていくことにしましょう。

グエルチーノの『聖母子と雀』という愛らしい作品。この幼子のイエスを抱いた聖母マリアの姿は、『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の中央上部の祭壇上の聖母子の姿とよく似ています。しかし、カラッチの描く聖母子をそのまま引用するように持ってきたというのではありません。例えば、カラッチの聖母子は画面全体の中でのスポットライトを聖母子に当てているために母子の姿全体が明るく照らし出されていますが、グエルチーノの作品では、母子の背後から光を当てるようにして、雀を見ているキリストの表情は影になり、マリアの顔も半分隠れるようです。また、マリアの右手は、雀を止まらせるために、カラッチのようにキリストを抱きかかえる格好とは違っています。これは、グエルチーノがカラッチの聖母子を土台にして、そこに彼なりの創意を加えて作品として制作したものと考えられます。それは、単に丸ごと引用するよりも、土台してそこに自分なりの創意を加えるということで、それだけ影響は深いものと考えてられます。つまり、グエルチーノはカラッチの作品の聖母子の描き方を血肉化するほど取り込んでしまったので、それをもとに応用ができてしまえるほどになっていたということです。おそらく、グエルチーノはカラッチの作品の画面を隈なく舐めるように、吸収していったのではないでしょうか。そこで、人体の描き方とか、女性の顔立ちとか、グエルチーノにとっては、このカラッチのお手本がメジャーに通じる一本道に見えたのだったのではないか。それだけに、愛らしい小品のようにも見える、この作品は、聖母子のアトリビュート(シンボリックな小道具)がなく、神々しい姿にもなっていなくて、カラッチの聖母子の姿の引用で、そのポーズなどで聖母子と見せているということで、カラッチの作品の派生的な作品になっている、と考えられます。つまり、この作品がそのものとして自立していると言えないのではないか。

Gueruboro_2そのように見ていくと、ここで「Ⅰ.名声を求めて」として展示されている一連のグエルチーノの作品は、釈迦様の手のひらの中で孫悟空が弄ばれたように、カラッチの作品の影響の中で、グエルチーノがカラッチの作品のバリエィションの範囲に留まるものであるように、私には見えてきます。

『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』という作品はどうでしょうか。私には、赤いマントを羽織り跪く聖カルロ・ボッロメーオの姿は、『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の画面左下で聖母子に跪く聖フランチェスコの姿と重なってくるのです。人物は異なるし、聖カルロ・ボッロメーオは手を合わせているのに対して、聖フランチェスコは両手を広げていますが、身体の姿勢や祭壇に対する位置関係、あるいは描いている角度や態勢といったベーシックなところは共通しています。

これらのように、カラッチの作品の影響はグエルチーノの作品の目に見える明白なところに留まらないベーシックなところに及んだのではないか、私には思えます。そのカラッチの作品が、どちらかというと突出した天才的な作品と言うよりも、凡庸とはいいませんが、普遍的要素の強い作品だったとおもえることから、グエルチーノの描き方のベースが個性で突出する方向ではなく、分かりやすく広範囲にアピールできるような方向に導かれたのではないか、とあくまで私の仮説的妄想ですが、ここでの展示を見ていて思いました。

Caravaggiofran2また、一方で、これだけ深甚な影響をカラッチから受けながら、グエルチーノがカラッチにならなかった点、つまり、カラッチとグエルチーノの違いとして明らかに見えるものもあります。それは、グエルチーノには、シンプルさへの指向があるということです。カラッチの作品に見られるゴチャゴチャした感じに対して、グエルチーノはパーツを削ろうという指向がはっきり見て取ることができると思います。それは、『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』にも見られると思います。天使の姿を聖カルロ・ボッロメーオの背後の二人に絞って、アトリビュートも描き入れることをしていません。そこには、全体の構成とメインの登場人物で画面を構築するという、この後で明らかになってくるグエルチーノの特徴の萌芽が見られると思います。

なお、余談ですがカラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の聖フランチェスコから、遠くカラヴァッジョの『瞑想する聖フランチェスコ』の姿が垣間見えてきます。この両者を比べてみると、カラッチの作品を突出したところがないと、私が述べる理由も分かっていただけると思います。

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