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2015年6月 8日 (月)

山内史朗「天使の記号学」(1)

序章 リアリティのゆくえ 現代には「自分」というリアリティを見失う機会はいくらでもある。その時、生身の肉体で感じられる感覚的刺激こそが、リアリティの基本的形式と考える人も多い。しかし、リアリティとは身体が生々しく感じるものでしかないのだろうか。リアリティを感覚する器官は肉体だけなのか。もしそうだとすれば、存在するのも生きるのも悲しいことだ。ありきたりの日常生活にリアリティがかけている場合、人間はつねに刺激的で、破壊的で、破滅的な生活を送るしかないのだから。だからといって、精神だけがリアリティを感じるものなのだろうか。 生々しいリアリティを求めずにいられないこと、これは「実感」を基準にする発想と重なってくる。生々しい実感が得られない場合、抽象的思考にその代償を求める人も出てくるが、リアリティはそのどちらかにしかないと考え、その一方を選択しようとする傾向があるように見える。そうだとすると、刹那的な激しい身体的刺激を求める狂騒と、真理の啓示にあふれた、難解なテキストへの沈潜は、具体性と抽象性という両極端の対立、そして媒介しがたい距離があるように見えるが、両者は同じ根を持つものであって、親近性を有しているだろうし、だから案外そこに一挙の飛躍が起こりうることになる。肉体の具体性と思想の抽象性を対立させ、その一方のみを選択しようとして、結局一方から他方へと無媒介的に飛躍すること(天使主義的飛躍)は、媒介の欠如に基づいて生じる。媒介がいかなるものであれ、人間が人間として生きるのは本質だけによってではない。媒介を通じて、媒介としていきるしかない。 「媒介」になりうるものとして、「世間」・「身体性」・「人間的尺度」といったものを挙げることができる。こういったものは、経験に先たって与えられない以上、経験によって認識するしかないように見える。しかし、そのような道しかないのか。経験の後か前に与えられるかというに甲対立的思考そのものに誤謬があるのではないか。たぶん、経験の前にあるといっても、経験の後になるといっても、奇妙になるような事態、経験の「中」にあると言うしかない事態がそこにはあるのだ。最初にはわけの分からなかったものに「かたち」が与えられ、それを受容し、身体に内在化するにつれ、身体に適した尺度がどれくらいなのかを知るようになり、その後で「かたち」が変化していくのが通例だが、その状態は、決して経験の「前」や「後」にあるのではない。 中世は、天使や奇蹟に溢れた時代に見えるし、それを否定しようとするのではないが、最近の中世史研究が明らかにしているように、神について語り、知ること(テオロギア)ばかりでなく、現世の営み(オイコノミア)を重視し、現世との関わりで天上を語る時代でも合った。いつの時代でも人間にとって最も関わりがあるのは、やはり人間のはずだ。謎めいた言い方になってしまうのだが、中世は基本的に内在か超越かの一方を選ぶのではなく、「内在的超越」の時代であったと言える。 私としては、媒介が経験の「前」や「後」にあるのではなく、「中」にあること、あえて言ってしまえば、リアリティは<見えないもの>と<見えるもの>のいずれのうちにあるのでもなく、その間にあることを述べていたのが、中世の実在論だったと思う。リアリティは直接与えられるものでも、目の前にあるものでもない。たぶん、後ずさりしながら、未来に向かうとき、背中に背負っているものなのだろう。重みを感じながらも、見ることができないために得体の知れなさに不安を感じながら、自分の重みとして引き受ければ、その足跡に陰を見出すことができるようなものかもしれない。このようなヴィジョンは、近代以降の哲学に皆無ではないが、大部分、中世哲学から与えられたものだ。リアリティとは、常に指先の1センチ先にあって、つかめそうになりながら、必ず取り逃がしてしまうものではない。そして、視線を遮る限界の背後にあるものでもなく、常に視線の手前にあるがゆえに、見えないものにとどまるものではないのか。 見ることの手前、語ることの手前、「自分」ということの手前にリアリティがあると述べるのが、実在論ではなかったのか。もちろん、このような実在論の理解が私の思索の中でさえ、どこまで持ちこたえられるか分からない。このうち捨てられてきた実在論への信頼があるからこそ、私は中世哲学にこだわるしかない。キリスト教徒でも、西欧人でもなく、中世から遠く離れた人間が、西欧中世との間に持つ絆はそれだけかもしれない。しかしそれだけでは十分なのだろう。

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