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2015年6月 4日 (木)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(3)~Ⅱ.才能の開花

展示室のフロアが変わって、狭い階段を通り、広い部屋に出ると、宗教的な主題の大作ばかりが、ドッカンと展示されていて、美術館というよりも、教会とか宗教施設の中にいるような雰囲気になっていました。まして、見学者の数も多くなくて、静かな雰囲気だったので、なおさらでした。

Guerurolateこの展覧会のサブタイトルにもあるバロックという美術史上の時代というのは、キリスト教内部でのカトリックとプロテスタントの宗教対立が深刻になっていた時代で、ドイツは30年戦争の戦場となり、国土が焦土と化しました。そのような中で、カトリック教会はプロテスタントに対抗すべく自身の体制強化もはかっていくなかで、正統性を強め結束を固めるという名目で、その内部でも苛烈な異端の排除という粛清が進められていきます。そういう中で、キリスト教会の求心性のニーズに応えるものとしてバロックという美術様式が生まれてきたと考えられます。それは、二つの点でのカトリック教会の求心性のニーズです。ひとつはキリスト教世界全体の中で、プロテスタントに対してカトリックの優位性をアピールするという点です。もうひとつは、カトリック教会内部で異端を排除していくために正統的なものを強烈に示していくという点です。それを、ひろく民衆にも広めるためには分かりやすさも必要です。そのために、強くアピールするということ、端的に言えばインパクトが手っ取り早く有効であると考えられたのでしょうか、そこで劇的な表現が追求されていったのではないかと思います。劇的というのであれば、演劇的な空間がそのものです。自然のリアルな場面というのではなくて、観客に及ぼす効率を考えて効果的な空間をしつらえてあげる。それが劇場という特別な空間です。それと同じようなことを絵画の画面の中で意図的に作ろうとしたのがバロックという美術様式ではなかったのか、と私は思っています。そういう姿勢をベースにして、例えばカラヴァッジョのようなあざといほどに光と影の対照を強調してみせて、キリストにスポットライトを当てて神々しさを際立たせることをするようなことが行なわれた、ということです。

Guerurolate3それはまた、他方では絵画に対するニーズが高かったことから、それに応じる才能が集まった、またその才能を評価するパトロンの層があったということも言えるのではないかと思います。教会や王家が自らの正統性や権威付けのために絵画を書かせ、書かせる司教や国王が見識をもっていたり、その周囲に見る目をもった人々の層があり、一方、ローマのような中心地はもとより、グエルチーノの地元のチェントという地方でも工房が成立するような環境ができていたといえることは、地方でも才能のある者がいれば、評価され中心地にも情報が伝わるようなシステムができていたということです。そのためには、画家や工房という制作する側にも様々な才能ある人々の層が形成され、大家から中堅まで様々な層がつくられ、時にはその階層から外れるような異端的な才能もでてくるような環境ができていたのではないか、と私には思えるのです。

さて、抽象的で退屈なことを長々と書きました。何でこのようなことをしたのかと言えば、グエルチーノは、このような環境であったからこそ、世に出ることができたのではなかったのか、と思ったからです。ここでグエルチーノの作品を見て、たしかによい作品であって、それなりに楽しめるものであるし、品質も高いものだと思います。しかし、正直に言えば、これらの作品を誰の作品と教えられずに見せられて、作者を当てろなどと問われたとして、グエルチーノであると迷わずに答えることができるほどに、私にとって強烈な個性を見出すことはできませんでした。他の画家と比べてどっちがいいかとか、あまりそういうランク付けのようなことは好きではないのですが、同じバロック美術に分類されるようなルーベンスとかカラヴァッジョのような一目でそれと見分けがつく画家では、グエルチーノは、私にとっては、なかったのでした。私がそう思ったから、普遍的にそうだとは言えませんが、

Guerukarachi前回も触れましたが、グエルチーノの作品の印象は、突出したものがあるというよりは、幾つかの要素を強弱をつけながらソツなく画面に収めてみせるというものです。カラヴァッジョの作品のような観る者に迫力で迫ってくる高い緊張感という点では及ばないかもしれませんが、その代わり、多少安心して眺めていることができる。カラヴァッジョの作品を長時間見つめていると疲れていまいますが、グエルチーノはじっくり眺める鑑賞に堪えられる。しかし、だからといって平板なのではなく、それなりの緊張もある。そういう高いレベルでのバランス感覚です。そういう作品の位置づけというのは、観る者にとっては、カラヴァッジョのように、その作品だけを目当てに、ほかのものはなくても、それだけあればいい、という掛け替えのない作品、というのではなくて、カラヴァッジョもあるけれど、こっちも違った意味で悪くないという位置づけのものではないか、そういうときにグエルチーノの作品は価値の高いものとなるのではないか、と思うのでした。変な喩えですが、グルメ趣味の人が、フレンチの三ツ星の名店で高価なディナーがあるからこそ、変格とでもいうべき無国籍の創作料理とか和風の洋食屋のカニコロッケを堪能できる環境で、行き着けの近所のビストロで裏メニューに舌鼓を打つような感じとでも言ったらいいでしょうか。この場合の近所のビストロは決して一流とは言えないのですが、それだからといって評価していないというのではなく、そこにスタンスの独自性があり、そこで光っているのです。私には、グエルチーノという画家の作品はバロック美術の作品の中で、それに近いような位置づけの独自性で光っていると思えます。

Gueruchild_2抽象的な議論が長くなってしまいました。作品を見て行きましょう。『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』という作品です。2.4×1.5mという大作の祭壇画です。縦長の構図で見上げるような角度で描かれています。ロレートの聖母とは、イタリアの一地方にあるサンタ・カーサに奉納された幼児キリストを抱いた聖母マリアの像だそうです。ナザレの地で聖母マリアと家族が暮らしていた家が天使たちによってイタリアのロレートに運ばれ、その奇跡を記念して聖堂が建てられ、それ以降は巡礼地となったということです。つまり、この作品で礼拝される聖母は像で、この作品はそのマリア像そのものの神々しさを表わすイコンのようなものというより、それを神々しさに礼拝する場面を描いているもので、ここに劇の一場面のような、いかにもバロック絵画らしいものと言えます。例えば、右奥の背景の空の描き方がいかにも書割の背景であるかのように描かれていたり、全体的な空間の広がりを感じさせず、むしろコンパクトに画面に収めようとする、多少の窮屈な空間の、まるで劇場の舞台のような都合の良いまとめ方を感じられると思います。これは、いかにも教会に飾るという効率性の要求に応えようとしていると考えられる。そこに、グエルチーノのクライアントの求めに誠実に応えようとするところが感じられるのではないか、と思います。ちょっと細かいかもしれませんが、マリア像と跪く二人の修道士の関係は変形の三角形を形成していて、前回に見たルドヴィコ・カラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の聖母マリアとその下で見上げる二人の人物の形成する三角形を踏襲し応用したのかもしれません。修道士が跪いて見上げる仰角の視線の先にマリア像を置いていること、さらにその修道士を斜め後ろから描くことによって作品を見る者の視線と修道士の視線が重なるようにして、その先にマリア像があることで、見る者が、あたかもこの場面の一部に参加しているかのような錯覚を起こさせる、つまりは感情移入を促すような効果を図っていると、言えると思います。そして、カラッチの作品では聖母マリアは幻視の世界でスポットライトが当てられているのに対して、この作品では、あくまでも聖母像だということだからなのでしょうか、マリア像の顔の部分は影になって見えにくくなっていて、幻視の光景ということから現実の風景へとスムーズに移行させて、感情移入のしやすさを図っていると言えるかもしれません。そしてまた、前回見たグエルチーノの『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』の中の祈る聖カルロ・ボッロメーオの姿は、この作品での手前で祈る修道士の姿をそっくり左右反転させたもののようにも見えます。このようにしてみると、グエルチーノの作品はシンプルな構成を使いまわして、クライアントのニーズに応じてカスタマイズさせていくことで高い品質を保っているのではないかと思えてきます。それは、変な喩えかもしれませんが、日本の自動車メーカーがプラットフォームという共通のシャーシを土台にして顧客の好みに応じてエンジンやボディを組み合わせて、自動車という共通の中でボックスカーやスポーツタイプ、ファミリーカーなどを効率的に作り分けているのと似ているような気がします。実に、グエルチーノの真骨頂はそういうプラットフォームを作ったことと、クライアントのニーズに合わせてカスタマイズさせていく手際にあるのではないかと思います。それが、この展示室に展示されていた、この『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』や、他の作品、例えば『幼児キリストを崇める聖母と悔悛の聖ペテロ、聖カルロ・ボッロメーオ、天使し寄進者』あるいは『キリストから鍵を受け取る聖ペテロ』なども、共通のプラットフォームに拠っているように見えてくるのです。このように展覧会で一堂に会してしまうと、そう見えてしまいますが、本来は、これらの作品はそれぞれに離れた地域にある教会に飾られるもので、それがどうだということは起こらないはずのことで、むしろこのことによって品質を維持させることができるわけです。だから、さっきの喩えではないのですが、日本製の自動車が品質の高さで世界的に評価されているのと同じように、グエルチーノの作品は当時は品質の高さの点で評価されて注文が殺到していたということだったのではないかと思います。ただ、そのことは、グエルチーノという人が工房の代表者として責任を負っていたことを見れば、誠実さの現われとも見えると思います。

Guerurolate2しかし、同じ題材の作品について、例えばカラヴァッジョの『ローとの聖母』と比べるとどうでしょうか。カラヴァッジョの作品では聖母像は現実の生身の女性のように描かれ、ロレートの聖母であることが分かるようなもの描かれていません。頭上の光輪からかろうじて聖母子であることが分かるだけで、現実の石造りの建物の前で、母子に汚れた身なりの男女が跪こうとしている瞬間が、まさにそのダイナミックな動きが活写されているように見え、さらにマリアが跪く男女に目をやるところから、祈る側と祈られる側の関係が現実にあるということがリアルに描かれています。ここには信仰という行為が現実の場面として活写されていると言えるのではないかと思います。たとえば、近代的な個人が内面の信仰ということを議論する場合に、このような画像は個人に問いかけるような強い精神性を持っているといえるかもしれません。ただし、ここでは類型的な神々しさとして聖堂に飾る範囲を逸脱してしまうのではないか。個人の自覚とかいう以前に聖堂に会する群集にアピールするにはパターンを外れてしまっているかもしれません。このような、逸脱は後世の現在からみれば、カラヴァッジョの一種の表現の過剰として、彼の特徴として見る事ができるものです。しかし、グエルチーノは、いわば、カラヴァッジョは越えてしまった一線の前で留まっているのです。これは当時の人々への効果を考えれば無理のないことなのですが、後世の私などから見れば、一線を越えたカラヴァッジョと比較してしまうのです。そこにもの足りなさを感じてしまうのを禁じることはできないのです。

Guerukeyさっきも少し触れましたが、『キリストから鍵を受け取る聖ペテロ』を見ていきましょう。このチェントの地で才能を開花させローマに赴くまでの間の時期の代表作ということで、展覧会のパンフレットにも使われている作品です。さきにみた『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』と並べてみると、上部の天使がカーテンで仕切るような区切りと書割のような背景の空、そして構図は左右が反転されていますが、斜めに仰角で対角線上に視線を上げていって見上げる対象に主人公が位置するという画面構成は良く似ています。しかも、全体として、画面の中に人物が多すぎることなく、かといって少なくて寂しいというほどでもなく、コンパクトにまとまりよく収まっています。中央に描かれているのはキリストで、跪いているのは聖ペテロでしょうが、人物としても人間の肉体らしく描かれていて、違和感がありません。かといって、聖なる人のイメージを壊すようなことはなく、うまくバランスがとられています。つまり、クライアントのニーズに対して、足りないでもない、行き過ぎでもない、ちょうよい、程々のところで応え、それで丁寧にまとまった画面を提供するという品質の高い仕事をしているといえます。これは、実際には大変なことで、グエルチーノという人の能力の高さは、そういうところにあったのではないかと思います。(例えば、もしルーベンスだったと想像したとすると、逞しい肉体をまとった人々で画面が溢れるようで、その迫力に見る者は圧倒され、祝祭的な気分でもっと盛り上がるかもしれない反面、ここにある一種の厳かな感じは後退してしまうと思ったりします。)後世の私は、無責任にもの足りないなどと勝手なことを言いますが、当時のグエルチーノにとっては、現実に工房を経営して、クライアントから注文をとっていかなければいけない、という事情のところで高い品質の仕事を続けているわけで、そのために彼は様々な工夫をしているわけです。それを敢えて、無責任かもしれませんが、私はもの足りないと、どうしても言ってしまうわけで…。これは、グエルチーノをくさすつもりではなく、かりに教会を見学していて、たまたまこの作品が飾られている場に立ち会ったとしても、その場で「ああそう」といって素通りするか、教会の一部として見るくらいで、この絵に感銘してしまって、作者は誰とか知りたがるといった類のことにはならないと思います。それは、もともと、この作品は、そういうものとして制作されたものと思われるので、だからと言って、この作品の価値を貶めるとかそういうものではないと思います。なんか弁解しているようですが、この作品は、よく出来ている、という点でもって、それはある意味で価値あるものと言えるもので、そう思って見ていました。何か、奥歯にものの挟まったような言い方ですが。それぞれが“らしく”ハマっている、ということがいい意味でグエルチーノの作品の印象の特徴と言えると思います。だから、彼の個性とかそういうものではなく、流行して、アカデミーの権威としてみんながお手本にできたと言えるではないか。それを、この作品を見ていて思います。ルーベンスやカラヴァッジョは強烈な個性を有していますが、アカデミーでお手本として年若い学生が勉強するのには適しているでしょうか…。

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