無料ブログはココログ

« 山内史朗「天使の記号学」(5) | トップページ | コーポレートガバナンスそもそも »

2015年6月13日 (土)

山内史朗「天使の記号学」(6)

5.言葉の受肉

祈りにおける言葉も出来事としての側面を有していた。それは外的世界に物理的現象として現われ、物理的な変化を引き起こすということにとどまらず、内部をも調えるものだった。このような過程は、物質的ならざるものが物質的なものとして現象することである以上、受肉と呼ぶこともできる。言葉は出来事として生み出されてしまえば、話者の自由になるものとしてではなく、話者を拘束・束縛するものとして存在し始める。約束は話者に義務を負わせる。受肉という過程は一般に、外に向かう外化・物質化の側面と、自己への立ち返り・自己帰還の側面がある。言葉とは、外部に現れた心の内容であり、語る者もそれを見るとともに、聞く者もそれを見る。

現代に限らず、古代から、物質・肉体・感覚・情念・欲望等を、それどころか場合によっては現実世界まで嫌悪する系譜が存在する。ここで問題なのは、ここに挙げられた諸性質が物質的なもの、その対極的な性質が精神的なものという前提の上で、物質的なものに悪が見出される場合、精神的なものが望ましいと考える発想そのものだ。そこには、純粋主義・潔癖主義という危険な発想が潜んでいる。AとBが反対である場合、すべてのものはAかBのいずれかであるし、AでなければBであるという排中律的発想そのものが危険なのだ。哲学の言葉は、AでなければBであるという排中律的発想をとらず、矛盾そのものが成立する次元まで入り込みながら語る。

このような曖昧なもの、両義的な領域は名前を与えることは出来ても、述語を与えることは出来ない。名前はあっても、語りの地平にもたらし得ないものは多数存在する。「私性」、「個体性」、「生命」といったものはそのようなものだろう。このようなものは概して、或る一時点で明確な概念的理解が得られるようなものではなく、むしろ、過程を通してしか現象しない。そして、それらのものは知性によって概念的に把握されると考えるのではなく,この過程を担う力を意志と捉え、その意志に規定性の源泉を認めるのが、いわゆる主意主義である。そして、そのプロセス・過程のリアリティ、移ろいの中でしか経験されないリアリティの確かさを主張するのが、実在論のはずだ。

このような語りえぬことも、出来事として受肉し、目に見えるものとなり、語り得るものとなる。もちろん、語り得るものとなったときに、語り得ぬものであったときに感じられた、「得体の知れないところ」は消え失せ、泥や汗や涙や血にまみれた世界、偶然性の世界に産み落とされる。一般に受肉することは、穢れたもの、堕落したものに陥ることである。しかし、穢れた現実・世界を拒否し、失われた純粋性を希求し、そこに回帰しようとするのは、傲慢の罪であろう。受肉への呪詛は、世界の存在への呪詛となるからだ。天使への憧憬、「透明な存在」への憧憬は、喪われた全能状態へのノスタルジー、そしてこれと表裏をなす、途方もない呪詛を源泉にしている。

« 山内史朗「天使の記号学」(5) | トップページ | コーポレートガバナンスそもそも »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山内史朗「天使の記号学」(6):

« 山内史朗「天使の記号学」(5) | トップページ | コーポレートガバナンスそもそも »