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2015年6月 7日 (日)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(6)~Ⅴ.後期②宗教画と理想の追求

Guerujohn2_2クエルチーノ晩年にさしかかり、功成り名遂げ、悠々自適で平穏な人生を送ったという時期の作品です。この時期、ライバルであったグイド・レーニの様式を取り込み、解説によれば、“画面はより叙述的かつ詳細となり、スフマートや色調の微妙な変化によって繊細さが追求される。構図は釣り合いや対称性が重視されて、画中の水平線や垂直線が強調されるようになる。”たしかに、ここで展示されている作品を見ていると、画面のサイズは相変わらず大きなものであるけれど、画面の中で描かれている構成要素の数は減ってシンプルになってきて、これに伴い画面の構成も単純になってきています。描かれる人物の数も群集は姿を消し、以前は良く見られた3人の人物による三角形の配置も見られなくなりました。人物が1人ないし2人程度になってしまったので、三角形を構成しないためでしょう。その代わりに、一人一人の人物が丁寧に描かれるようになりました。そのためか、演劇の舞台の一場面を描いていたような、劇的要素や動きは、画面から感じられなくなり、スタテッィクな、物語の場面を背景とした肖像画のような雰囲気の画風になっていたと思います。それは、一面では洗練ともいえ、例えばロココの瀟洒な肖像画に連なっていく感じのするものであるともいえます。また別の一面では、退屈と言えなくもないものになっていったとも言えると思います。

Guerujohn_2『説教する洗礼者聖ヨハネ』という作品は、ヨハネが説教する場面を描いたというよりは、ヨハネという人物を描いたという作品です。以前に見た『聖母のもとに現れる復活したキリスト』と比べてみると、それぞれの主役となる人物であるヨハネとキリストは明確な輪郭で描き込まれています。しかし、キリストは右側にすがりつくように跪くマリアを配することで、劇的な瞬間を作り出しています。主役の人物の描き方は似たようなものであっても、それ以外の者との関係によって、画面に動きが生まれています。これに対して、ヨハネの方はポーズをとっているようにしか見えません。しかも、もともと、人物について濃密に描き込むというタイプの人ではないので、ヨハネその人が強烈な存在感をもって観る側に迫ってくるということもありません。例えば、ヨハネを単独で取り上げて、同じように人差し指を立てるポーズをとっている、ダ=ヴィンチの作品と比べてみると、ダ=ヴィンチのヨハネは小さいサイズの作品で全身を描いていないにもかかわらず、ヨハネの妖艶さが観る者に強烈な印象を残します。この作品では、観る者に強く訴える要素が、グエルチーノの以前の作品に比べても減退しているのです。それは、バロックというカトリック教会が自己の正統性とプロテスタントに対する優位性をアッピールする機能を担わされたツールとしては、減退と言えるかも知れません。とはいっても、ちょうどこの作品が描かれた1650年当時は、フランスでは長年のユグノー戦争がナントの勅令により一応の決着をみて、その後の宗教対立は潜在化し、一方ドイツでは、ウェストファリア条約で30年戦争に終止符が打たれて、あからさまな宗教戦争は表面的には終わった時代でした。とくに30年戦争はドイツを中心としたヨーロッパ中央を焦土と化し、ヨーロッパには対Guerureturn立への疲弊感があったと考えられます。そのような雰囲気のなかで、バロック美術の対立的要素を孕んだ劇的な緊張感のある画面は観る者に強くアピールするものではあるのでしょうけれど、他方では、緊張感を強いられる側面もあります。観ていて疲れるのです。それは宗教対立に疲れた人に対して、「もういい」というような過剰感を感じさせるものになりそうなものでもあったはずです。そう考えれば、この「」『説教する洗礼者聖ヨハネ』は、アピールする力は弱いかもしれませんが、見ていて疲れを強要させられることは、あまりないと思います。強烈な印象に引き寄せられるものでない代わりに、しばらくの間じっと見ていても、ぼんやりと眺めていることもできる作品です。たぶん、そのことが、グエルチーノの作品が、新古典主義の時代に宮殿や邸宅を飾る家具のような美術の作家たちによって称揚され権威となっていった由縁ではないでしようか。細かく、どのように描かれているという記述は、ここではしませんが、全体の印象として、現代のコスプレ写真に似ていると思いませんか。私には、案外近いところにあるように思えるのです。

Guerusaint『隠修士聖パウルス』と『悔悛するマグダラのマリア』という作品は、ほぼ同じサイズで、グエルチーノの自宅の装飾のために4枚描いた作品のうちの2枚だそうです。これらはいずれも、風景と青空を背景に一人の人物(聖人)が描かれているという点で共通しています。それぞれに落ち着いた、静謐な画面は、例えば、マグダラのマリアの悔悛にいたる宗教的な恍惚の表情は、カラヴァッジョの描いたエロティシズム漂うようなものでもなく、マグダラのマリアは裸体で描かれていますが、少しくたびれた肉体はエロティシズムをあまり感じさせません。また、聖パウルスは、古代の厳しい時代の聖人にある厳しさのようなもの、例えばラ=トゥールの描く聖トマスやカラヴァッジョの描く聖ヒエロニムスのような厳しさはありCaravaggiogirolamo_2ません。ここには、孤独のなかで、周囲の激動に惑わされずある面では超然として穏やかな宗教的生活に専心する姿があるように見えます。ここにあるのは、例えば日本の仏教美術の菩薩や如来の悟った姿を描いたものと似ていないでしょうか。ひとつのパターンを踏襲し、とくに新機軸を入れようとか余計な野心を交えずに、そのパターンに安住しようとする、というと言いすぎでしょうか。その仕上げに心を砕くことで、ハリボテのようなパターンであっても、装飾として品質を維持し、室内であまり出しゃばらず、ふっと何気ない視線には耐えられる程度で、室内に雰囲気をつくり出している作品を意図しているように見えます。

Guerudavidそして、『ゴリアテの首を持つダヴィデ』です。画面の構成は、ここで見てきた作品に共通したシンプルなものです。主人公であるダヴィデは、これまでもグエルチーノの作品に頻出した上方を仰ぎ見るポーズです。しかし、これまでの作品はそのポーズの人とともに仰ぎ見られる対象も描かれていました。しかし、この作品は仰ぎ見る人物だけが描かれています。それが却って、仰ぎ見られる対象が描かれないことで余韻を作り出していると言えないでしょうか。しかし、その主人公である人物がゴリアテの生首を持ったダヴィデというのは、不思議です。ゴリアテの生首をもったダヴィデを描いた作品であれば、カラヴァッジョの作品を思い出します。(今回は、カラヴァッジョの作品を持ち出してきて比較することが多く、グエルチーノには可哀想かもしれませんが)カラヴァッジョにみられる生々しさとか尋常でない迫力Guerudavid2とか、グエルチーノの、この作品は比べてしまうと可哀想です。まっ、注文があったのでしょうから、それはしょうがないと言えますが、晩年近くのドラマというよりも、スタティックで安定した画面で古典主義的なものに近づいた作風になってきているときに、とくにこの作品では余韻を生むようなところもあるだろうに、生首を持たせるような、その傾向に真っ向から対立するような要素を入れてしまうのでしょうか。そこに、この作品の安定した状態をあえて壊してしまうところがあると思えるのです。これは、この作品に限ったことではなく、『悔悛するマグダラのマリア』でも、あえてマグダラのマリアのくたびれたヌードをあからさまに描かなくてもいいのではないか。

Guerumadonnaこれらのところに、これまでも、少し触れてきましたが、グエルチーノという画家の一風変わった所を、私は見ます。このようなことは、展覧会の解説にも、展覧会について書かれた感想を読んでも指摘されていないようなので、私の個人的な偏見かもしれません。このグエルチーノの変なところというのは、カラヴァッジョやグレコのような人々の明白に普通でないものとは違って、一見、まったく普通なのだけれど、よく見ると、ほんの偶に片隅にさりげなく現れるようにもので、普段は気がつかないようなものです。カラヴァッジョやグレコのような見ただけで普通でないと分かるものは、彼らの天才をそこに容易に見て取れるもので、要はそれを受け容れることができるか否かという点で、ある意味分かりやすいともいえます。これに対して、グエルチーノの場合には、普段はその普通でないところは隠されて、日常では他の普通の人と同じようにいるけれど、ある時隠しきれずにその片鱗を見せてしまう。言ってみれば陰険というのでしょうか。かっこいい言葉で言えば、日常に隠された狂気とでもいえるものではないかと思います。それだけに、却って不気味なところがあるのです。それに一度気がついてしまうと、気になってしょうがない。グエルチーノの作品を見ていて、すべての作品にあるとは限らず、あったとしても探してもなかなか見つけられない。しかし、気がついたらあら捜しをするように探している自分の姿を発見するのです。Caravaggiomaria_2





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