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2015年6月27日 (土)

山内史朗「天使の記号学」(18)

3.身体図式と身体イメージ

血と肉は、身体の表象として消えつつあるが、その機能は失われているわけではない。「形」が成立してくる前提に関わるところがあるように思われる。その際の手がかりなるのが、「身体図式」と「身体イメージ」という概念である。

<身体図式>とは、自分の身体全体または身体の部分の空間的関係に関するイメージ(身体像)を成立させる意識下の働きであり、常に意識の中心にあるものではないが、それは常に身体の動き・調整・イメージの尺度を形成し、その尺度に従って、当人が引き続いて起こる変化が判断できるようにするものである。こういった一見抽象的な身体の層が持ち出されるのは、身体の身体表象の連続性・統一性が見出されるからであり、だからこそ<身体イメージ>の下に、別の身体の層が想定されたのである。この<身体イメージ>は、<身体図式>をいわば「文法」として、この図式の上に構成されるのである。自分の身体がどんな姿勢をとっているか、身体の諸部分の関係がどうなっているかは、<身体図式>の働きに基づいて意識されることとなる。そればかりではなく、着衣などの空間行動を視覚など用いないで適切にできるのは、<身体図式>のためである。<身体図式>とは、意識に上らなくても、身体を自分の身体として、身体の諸部分が相互に調整された状態で機能するものであり、現実的な身体表象や身体運動を準備するものである。この<身体図式>は、多数の感覚的経験や運動的体験が統合されて形成されるという。そして、<身体図式>が意識されるようになると、<身体イメージ>として現れることになる。この<身体イメージ>は、自分の目で直接みられる姿であろうと鏡の姿であろうと、自分の身体が外界の事物や人間と異なることに気付くきっかけを与えるわけであるから、<身体イメージ>の基礎にある<身体図式>は自己概念の基礎ともなる、とされるわけである。

<身体図式><身体イメージ>も、決して人間の皮膚に限界づけられているものではない。<身体図式>に含まれるものは、身体外にあるものだけでなく、体感、内臓感覚、運動感覚といった身体内にありながら、空間的に定位しにくいものも含まれている。<身体イメージ>の方は、とりあえず身体が我々に、主として視覚に与えられる現れ方・身体の自己現出・身体についての各自が有する三次元的なイメージであるが、これは決して身体についての感覚的刺激を統一したものにとどまるのではない。<身体イメージ>はとりあえず体位モデル、つまり、身体の位置・関係・状態に関する生理学的映像として与えられるばかりでなく、情緒的な映像も含まれている。例えば、痩せている女性が、「太った体」として感じる場合にも見られるわけだが、自己をどのように見、自己をどのように形成するかに関わるところが出てくる。情緒的な映像には、自己の身体についての感情、思考、記憶、態度等がすべて含まれているが、さらに<身体イメージ>には「リビドー的構造」があると言われる。ここで、リビドーとは性的欲望に限定されるわけではないが、リビドー的構造が<身体イメージ>に備わっているというのは、各人の<身体イメージ>が、特に思春期・青年期には、人間関係、それも性を随伴した人間関係に基づいて形成されるからである。<身体イメージ>は、当人の個人的歴史だけでなく、その人の他者に対する関係、他者のその人に対する関係の歴史に基づいているのだ。だから、<身体イメージ>のリビドー的構造がその後の人格形成に大きな影響を及ぼすことは、予想しやすいことだ。性欲には「人間的欲望の学校」という面があるのだろう。いや、性的欲望ぐらいにしか、人間の最も隠されるべき穢れを配置できなかったのだ。それ以外に考えつかなかったのだろう。ともかくも、リビドーの発達レベルは<身体イメージ>の構成と破壊の基本的要因となるわけだ。

さらに、<身体イメージ>には、生理的にまたは心理的に身体に属するものだけでなく、いわば「連想」によって自己に属するもの・属したものも含まれる。衣服・アクセサリー・化粧・仮面など身につけるものはすべて<身体イメージ>の一部となり、その他、声・呼気・体臭・糞便・尿・精液・経血なども、対外に出てもそれが自己所属性を失わない限りは、<身体イメージ>の一部をなしている。こういったものは、外部と内部の交叉・反転の生じる境位であり、身体の統一性はそういうものの文法によって成立している。これらのものは、(1)かつては身体の一部を構成していたが、身体から離れ、身体とは別の事物になりながらも、身体を起源としているために、身体のそばに留まり、だからこそ意図的に身体から離されねばならないものか、(2)長い期間にわたってか、または日常的に繰り返し、身体と接触しているか、身体と結合することによって、身体とは別のものでありながら、身体とほとんど同化してしまったものである。このようなものは両義的に身体に属している。だからこそ、<身体イメージ>の異常は、こういった、両義的に身体に属するものに関わって生じることが多い。こういった両義的なものと関連する身体部位は、穢れたものとして周辺部に配置される。周辺部は、意識において抑圧されることで周辺化されることもあれば、耳たぶや足の指のように、意識が及びにくいが故に、周辺的であるものもある。身体の統一性は、実は周辺部になされるのは多分そのせいだろう。周辺部が他者によって承認されれば、その全体が承認されることになる。全体が承認されるための徴表が成立するために、周辺部は意図的に作られるしかない。身体に穢れたところが作りだされるのは、曖昧な中心の交流を示す記号としてである。穢れたものにおいて交わるというイメージは、<身体イメージ>にとって不可欠である。性が穢れた領域とされる理由の一つは、あまりにも人間的なコミュニケーション・システムの構成のうちに見出されると思われる。そして、この不安的な内属関係は、逆に身体の維持に必ずしも重大な影響を及ぼすものではないが故に、個人好みによって様式化することができる。逆に、肉体に関する心理的イメージの方は、整形のように身体そのものに大幅な加工を施すことで変化させることは出来るが、TPOに応じて変更することはできないために、両義的なものとは対照的である。両義的なものは、かなりの自由度をもって変更できるからである。両義的なものは自由度を有すると共に、不安定なものだから、そういったものを制御するのは、身体化し、慣習化した能力(ハビトゥス)がないと困難なものである。

<身体イメージ>とは、当人の意識に映じた身体の<>なのだが、そこには他者への関わりも含まれているがために、人間関係の<>ともなっていると言える。<身体イメージ>にはいくつかの層があり、身体の形態のみならず、他者との関わりをめぐって生じる人間的欲望の<>も含まれている以上、かなり複雑な構造を有していることは予想できる。リビドー的構造は、決して狭い意味での性的欲望に関わるものではなく、自己同一性が自己の性の受容を必要とし、しかも性の受容には性化された欲望の己有化を前提とする。そして、性的欲望は普遍のみを対象とすることはできないので、対象の側での個体化と欲望の己有化という二重の個体化が求められることになる。しかも二重の個体化は、別々の個体化であって、条件が揃わない限り、同時に実現することは困難である。

このように<身体イメージ>にリビドー的構造、つまり他者との関係を含んだ側面があるとすれば、当然のことながら、<身体図式>にもリビドー的な層があるはずである。<身体図式>のリビドー的層は、他者との関係の原形式であり、そこから様々な<身体イメージ>が浮かび上がってくるはずだ。<身体図式>はコミュニカビリティという中立的なものに、方向性を与える機能を持っていると思われる。<身体図式>とは、コミュニカビリティが個別的な現実性に到達する条件なのである。性差、生地、家族環境などは、いわば「偶有性」なのだが、始源にあった中立的なものが現実化することは偶有性を受容する生地が必要となるが、その生地が<身体図式>なのだ。<身体図式>は少ししか組み替えることは出来ない。

<身体図式><身体イメージ>について、それぞれが他者との関係を含んだものであることに注目すれば、それぞれ「他者関係図式」、「他者関係イメージ」と言うこともできる。他社への関係、特に情緒的な関係は、感情といったものが時間的なものであり、しかも他の精神状態と一緒になって心を占めるものではないがために、極めて不安定なものである。ある場面で抱いた心の高まりも瞬時に消え失せることがある。絶えず消え失せるとしても、何度でも呼び起こすことができれば、そのようなものは心の中にあるものとして考えてよいだろう。何度でも呼び起こすことができること、これが「ハビトゥス」である。感情は心の状態というより、ハビトゥスなのだ。ハビトゥスが定着するには、身体、いや少なくとも身体的なものが必要だ。だから、自己の身体へのイメージ(身体イメージ)が明確になっていない場合、人は安定した感情を持ちにくい。安定した感情を抱くために、人は自らの身体を形作り、装う。しかしながら、<身体イメージ>を明確にしても、安定した心の状態が訪れるわけではない。他者との関係は、基本的に問いかけと応えから成立しているからだ。自分の眼差しに感情があるのではなく、眼差しを交し合うことに感情の現実態がある。

<身体図式>とは一つの<かたち>、いや様々な具体的な人間関係の母型であり、しかもそれが情緒的な負荷を予め担っているものだ。それは身体の形態、状態などを組み込んで成立している。情緒的な負荷が与えられているというのは、他者とは自分を保護してくれるものなのか、自分にとって敵対するものなのか、というような外的世界・人間との関係の基本的モードなのだ。他者との関係は、たとえ同一人物についてであろうと、様々な姿をとる。たとえば仕事、遊び、家族など。それぞれがひとつのコミュニケーション・チャンネルなのであるが、それらのコミュニケーション・チャンネルも、ある具体的な<かたち>を求める。礼儀作法も<かたち>のひとつだ。重要なのは、物質化し、現実性となった<>ではなく、可能性として、ハビトゥスとしてある<かたち>なのである。<かたち>とは、学ばれるものであり、学ばれた結果は意識下に沈み、あまり意識されなくなるものだ。身体は記憶の倉庫、身体はハビトゥスの座である、と言ってもよい。

セクシャリティもハビトゥスも、己を持するあり方なのである。ハビトゥスは身体に沈殿し、意識に上らないようになって、ハビトゥスとして定着する。ハビトゥスが意識に上らずに、現実化するためには、潜在性の座が必要であり、その座が身体なのである。ハビトゥスとは、「身体の技法」なのだ。ハビトゥスの特徴には、現実的な作用ではなく、ある状況の中で作用・行為を行いうる能力であるということがある。他者と関わるハビトゥスの場合、ハビトゥスが実現される状況には、当然のことながら他者が関与してくる。快楽もハビトゥスであって、しかも他者との関わりをもつハビトゥスであるとすれば、完全に私的な快楽は存在しない、ということになる。いかに私有される快楽であろうと、共有される快楽である。なぜならば、人間の欲望が、欲望への欲望という形式をとる限り、他者の快楽が欲望の対象となり、そして同時に自分の快楽になってしまうからだ。

<身体イメージ>はリビドー的構造であり、対人関係のイメージによって形成されるのであり、対人関係の中でも本人に影響力のあるのが性的関係であるが故に、性的<身体イメージ>でもあるということが要なのだ。セクシャリティとは「絆」であるといってもよい。セクシャリティが、普通の場合は、異性間の肉体関係にのみ関わりそうに見えて、実はそうではなく、他者一般との関係を規定しているものだということは、忘れてはならないことだろう。セクシャリティを充足する行為とは、結果として与えられる緊張の消滅や感覚的快楽を目的とするのではなく、充足の可能性の条件、いやそもそも充足することが可能となる資格・条件を与えるものである。性的欲望において、欲望が目指すものは、欲望の結果ではなく、欲望の前提にある。男(女)になろうとし、男(女)であり続けようとして、涙ぐましい努力を続ける人間は、可能性の条件を求めているのだ。もちろん、目的を追い求めるように文化によって飼い慣らされた人間は、この欲望をめぐる基本的詐術に気がつかないことが多い。

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