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2015年6月21日 (日)

山内史朗「天使の記号学」(13)

2.聖霊論の構図

第1章で見たように、祈りが神への伝達として捉えられれば、声に出す必要はないはずなのに、声に出すことが重んじられたのは、祈りは伝達できないからだと言うこともできる。祈りとは絆を作ることだ。では祈るのは誰なのだろうか。我々人間が聖霊を通して祈るのであるが、その祈りが生じているのは、聖霊の賜物によってであるから聖霊が祈っていると述べても良い。人間が聖霊を通して祈ることと、聖霊が人間において祈ることが同じだというのは何を意味するのか。聖霊は、人間の心の内に深く浸透し、心の自発的な働きと区別できないような形で内在するということだ。媒介が主体となっているのだ。ここで、人間が話すのではなく、言葉が話すというモチーフを思い出してもよい。これは、媒介と主体が相互浸透している事態の表現なのだ。

ここで、聖霊についてもう少し考えてみよう。「聖霊」とは、「聖なる霊」だが、「霊」とは何か。聖書的に言えば、人間の理解を越えた力をもって働く超自然的・超感覚的存在としての「霊」を表わす用法である。多くの場合、霊は、神自身がその超越性を保ちながら世界の中で力をもって具体的に働くあり方を表現する。端的に、神の本質は霊である、とさえ言われたりする。ギリシャ哲学が魂を中心とした思想であるに対し、キリスト教は、霊を中心とする宗教であると整理される場合もある。聖シメオンは父・子・聖霊の関係について次のように述べる。「私は言おう。門、それは子(キリスト)である。門の鍵、そは聖霊である。家、それは父(神)である。したがって、言葉の霊的な意味に細心の注意を払いなさい。鍵が開かなければ、何人もちちの家の中に入れない」。シメオンは、聖霊を光に喩えることもある。光の比喩において重要なのは、光は、<見えないもの>でもなく、見えることを生じさせるものであるということだ。隠されているから見えないのでもなく、かといって、光自身が見えるものとなっては、他のものを見えるようにすることはできないために、それ自身は見えないものとならざるをえないもの、それが光だ。見えるようにするものである以上、そのために見えないもの、言い換えれば、見えないことが見えることの原理でもあるようなもの、それが光だ。聖霊は、父(神)と子(イエス)の絆であるとも語られる。もちろん、神と人間、人間と人間の絆でもある。しかし、なぜ鍵が絆となりうるのだろう。鍵が絆となりうるのは、鍵が二つのもののどちらにも内在し、しかも同じ一つの鍵として両者に内在し、二つの鍵が一つになろうとして呼び合う場合だろう。ここにも、一なるものが一なるものとして多なるもののうちにあるという、イデア論の困難が見られる。

第二番目に触れておきたいのは、「私(=子)が父のうちにおり、父が私の内にいる」(ヨハネ福音書)という相互内在だ。分かりやすく言えば、右手を左手の上に重ねてみよう。右手が触れるものとなって、右手が触れるものとなったりもする。このような事態は、視覚においては生じにくいが、触覚においては生じやすいという。これは単なる転移現象や視点の交換といったものではなく、能動と受動という主語=実体論的枠組みが拭い難く染み込んだ日常言語をすりぬける事態なのだろう。「私(=子)が父のうちにおり、父が私の内にいる」ということにととまらず、人間が神のうちにとどまり、神が人間のうちにとどまることができるようにするのは、聖霊の故なのである。

この事態は「内在的超越」と重なると思われる。聖霊論には多様な論点が含まれ、明晰な理解を拒むものが多いが、私が聖霊論から取り出したいものは、相互内在または内在超越という論点なのだ。この論点には、聖霊論に固有なところもあるが、その中でも一般化できるところがあり、それをコミュニカビリティとして整理できると思われる。

 

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