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2015年6月22日 (月)

ものの値段は一つではない?

ひとつの製品にひとつの価格というのが経済学の原則と言えるが、果たしてそれは普遍的なのだろうか。三越伊勢丹HDの前身である越後屋呉服店は“現銀掛値なし” で繁盛したのが由来という。定価を現金払いで売ることが、当時は画期的だったということは、そういう商習慣ではなかったということだ。現在でも神社で催されるだるま市や酉の市では決まった定価がもともとなくて交渉で価格が決まる。飲み屋(居酒屋チェーンではない)の“時価”のそういう面もある。ところが、現在、色々なところでそういうことが起こっている。例えば航空券、ホテルの宿泊予約は、日によって、予約方法によって価格が違う、というよりも、最初から決まった価格がなくなってしまったかのようだ。身近なところでも、缶ビールを買うときに、コンビニとスーパーの安売りやディスカウントストアとでは価格が違う。しかし、高くても手近なコンビニでひとつふたつを買う人は、手間をかけてひと箱まとめて安く買うことを選ばないことを納得している。ネット販売のそう。そこには、製品の価格だけでなく、わざわざ買い物に出かけたり、広い売り場で缶ビールを探して重い荷物を運ぶ手間も買い物価格に考慮されている、ということではないか。そこには、メーカーがものをつくったものが、ひとつの価格になるということが通用しなくなってきていると考えてもいいだろう。そうであれば、コストを下げることが単純に競争力を強くし、利益を高めることに結びつくということではなくなる。突き詰めれば、工業簿記という会計がメーカーにとって果たして有効なのかという疑問も湧いてくる。

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