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2015年6月10日 (水)

山内史朗「天使の記号学」(3)

2. 天使の言語論

中世最大の神学者トマス・アクィナスは、肉体を持たないにもかかわらず、天使もまた言葉を持つと考える。トマスによれば、人間において、精神の内側に懐かれるものは、二重の障害が肉体と意志である。人間が言葉を用いるのは、肉体という障碍だけでなく、意志という障碍も存在するからであり、意志という障碍の方が、より根本的なものだ。

天使においても、コミュニケーションが成立するためには、コミュニケーションを成立させようとする意志が必要だ。伝えようとする意志によって、天子の心の内容は、他の天使に現前するものとなる。天使の間に見られるコミュニケーションも一種の言葉だ。これは口から発せられる言葉ではないが、「心の言葉」と言われるものだ。ここでは、人間の言葉は物理的で、天使の言葉はそうではないことが両者の言葉を比較不可能にするわけではない。言葉の機能において他者の働きかけという点が重視されるならば、両者を言葉という枠内で論じることはできるからだ。そして、トマスが天使の言葉を語るのも、物理現象としての言葉という観点からではない。むしろ、意思を伝えるものが言葉なのだ。逆に、伝えないこともできるとすれば、そこには言葉があるといえるのだ。

意志がコミュニケーションの成立条件であるというのは、当然すぎてかえって見逃されやすい。伝えるべきものがあるとき、伝えたいと思い、そして伝えたいからコミュニケーションが始まるというのは、心情の論理としては当たり前だ。ところが、近世以降、意志が障碍・阻害条件ともなるという発想がなくなっていく。意志が物事を成立させる一種の「力」として捉えられることは、中世以来変わらないにしても、障碍としての側面は閑却されていくからだ。

では、意志が障碍、<覆い>であるとは何を意味するのか。一つの理解としては、意志は心の内容の流出を止め、いわば心の扉のごときものと考える行き方がある。つまり、言葉に先立って、心の内容は確立されてあり、言葉は心の内容を記述するもので、意志は心の内容や言葉の意味に何も付け加えない、と考えるのだ。

別の理解として、意志は言葉は単なる記号としてではなく、「出来事」に化する力と考えることもできる。言葉は、常に特定の状況の中で、状況と関連して使用される。言葉と状況の関係の要点は、言葉が状況へと適用されることであるが、言葉を状況に「適用」するのに必要なのは、言葉の概念的理解だけではない。意図─ここではとりあえず意志とほぼ同義に考えている─がなければ状況に適用することはできない。意図は、言葉が状況に適応しているかどうかが決まる因子であると同時に、言葉を適用するための必要条件となるものだ。言葉が状況に適応し、効果を発揮していること、これが「言葉は出来事だ」ということの一つの意味だ。そして、その適用を行なうかどうかを決定し、適用する能力が意志だ。

意志は、コミュニケーションに先立って存在する初期条件にとどまるものではない。聴き手の側の理解のプロセスが、話し手の側の発話プロセス(意図─言葉の選択─発話行為─音声)とちょうど逆であるとすれば、コミュニケーションの初期条件は、理解のプロセスにおいては最後に得られるものとなる。しかし、聞くことと語ることは逆向きの操作なのではない。しかも、聞くことと語ることは逆向きの操作なのではない。しかも、意志は、聞き手の理解のプロセスにおいて最後となるというわけでもない。コミュニケーションは反転可能性を前提するが、その反転はプロセスの反転といったものではない。意志が前提条件であるばかりでなく、意志が状況に適用されることによって、明確な姿をとること、つまり、最後に登場するものでもある。自分が何を語ってしまったのか、語った後で気付くことは少なくない。

ここで、天使の言葉に戻ろう。意志が<覆い>になることは、今述べた第二の理解においてと思われる。トマスの天使言語論においても、コミュニケーションの個別化の論点が登場し、それをただ一人の天使にのみ語りかけることができるという指摘に見出すことができる。つまり、トマスは、天使はただ一人の天使に語りかけることができると明言しており、コミュニケーションの個別化ということを十分意識していたのだ。もし、第一の理解においてのように、意志が扉のようにあるのなら、語りの方向性は定まらず、話し手が聞き手を取捨選択することは困難になってしまう。言葉とは、匿名の不特定の多数者に語られることは少なく、むしろ特定の状態で、特定の人間にのみ語られるものである。そして、或る天使が特定の天使にのみ語りかけるということは、意志によってのみなされるのであり、意志は、内部にある心の内容を外側にもたらすだけでなく、状況と聞き手の選択を行うものである。このように見れば、意志こそ言葉を適用するものだということができる。

天使の言語においてさえも、言葉は心の内にあるメッセージを他者に移送する乗り物ではない。意志が不透明性の起源としてあり、外に現れることが同時に個体化であって、出自の姿を変様させることは、天使言語論の要点となる。言葉の問題を離れて、一般的に述べても、個体化とは普遍的なものが個別的なものになることを指すだけではない。個体化とは、一番最初にあったものが、生成の過程であたかも一番最後に現象するごとく語るしかない事態に見られるものだ。このような個体化の捉え方は、特異なものである以上、ここで強く主張するつもりもないが、思った以上に錯綜したプロセスであると思われるし、同じことは言語においても見られるとわたしは思う。とにかく、言葉に、肉体と意志という二つの障碍があることは、コミュニケーションの阻害要因にもなるが、コミュニケーションが具体性・個体性を得るための条件でもあるのだ。

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