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2015年6月16日 (火)

山内史朗「天使の記号学」(9)

3.欲望の己有化

欲望とはなぜこんなに弱いのだろうか。

生命が一つの欲望である以上、そして地上の生を絶滅させることが至福の状態であると考えるのではないかぎり、欲望が存在することは現世が存続するための必要条件である。その際、存立の必要条件が悪、つまり必要悪なのかは問題ではない。重要なのは、必要条件を悪として語る言説が、なぜ流通しているのかということだ。その背景にある、欲望を悪と見なすことの一つの源泉は、人間的欲望が、欲望への欲望であるということである。動物は、自らの内に欠如したものを補うために対象を求める。空腹であれば食物を、乾きであれば水分を求める。「もの」への欲望を持つことがその特徴だ。しかし、人間は何も欠けていないのに欲望することができる。人間は友達が手に入れたおもちゃを見て、何かを欲しがることができる。嫉妬・羨望において、対象が求められているのだろうか。求められているのは、他者の欲望であり、場合によっては自分への他者の欲望を欲望することも生じる。

で、欲望への欲望はいかにして学ばれるのか。多くの人は、欲望を主体と対象を結びつける単純な直線で表現する。主体は自発的かつ自由に対象を欲していると思う。しかしながら、そもそも人間は欲望の主体となり得るのだろうか。と言うのも主体は自らの欲望を対象との関係だけに基づいて抱くことはできないからだ。生理的欲望・欲求の場合であれば、対象との間に、何も介在させないで欲望を持つことができる。しかし、人間に関わる欲望は、欲望の主体と欲望の対象以外に、欲望の媒体・手本・モデルが必要となる。そして、ここでの「手本・モデル」とは、自分がそうなりたいと思っている他者、その人の欲望を模倣しようとしている他者である。ここにある「欲望の三角形」においては、欲望の主体─欲望の媒体─欲望の対象といった三角関係が成立し、主体は対象を欲望していると錯覚しているが、実は媒体の欲望を模倣しているに過ぎない。つまるころ、欲望とは他者の欲望の模倣であるということだ。地部下の内の秘められた欲望、それは借り物なのだ。自分のものでないことに、半ば気付いているため、主体は自分のものであることの偽りの証拠として、自分に対して、苦しんでいることを演技しているのかもしれない。苦しみとは、一般に、自分が或る問題の当事者であることの証拠となることだ。自分のことでなければ、誰も苦しまない、苦しんでいるとすれば、苦しんでいる以上、自分の問題だと思い込める。重要な論点はその先にある。欲望の源泉が他者にあるとしても、欲望は個体化され、欲望の安定した帰属先を探し、そこに住まう方法を見つけなければならない。換言すれば、欲望は「己有化」されなければならない。他者の欲望によって支配されている「主体」が、欲望の真の源泉であって、その欲望を支配しているといえる枠組みを、欲望の方が供給しなければならない。だからこそ、欲望は外国語と同じように学習されなければ、身につくものではない。欲望とは一種の能力なのだろう。

欲望が主体に帰属するための最も大事な条件は、外部に由来するものが、内部に取り込まれ、起源が忘却され、内部から沸き起こること、いや自ずから沸き起こることだ。その場合にこそ、欲望は自分の欲望となる。欲望を模倣したとしても、対象の獲得によって、喜びが込み上げてくるのでなければ、欲望の主体となったと言えないであろう。

 

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