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2015年6月17日 (水)

山内史朗「天使の記号学」(10)

4.欲望の充足可能性

人間的欲望においては、欲望の対象は始めにおいては、曖昧な姿でしか登場しない。対象のあり方が曖昧なもののためなのだろうか。人間的欲望において、その対象は、常に他者から与えられる。そのとき、一つの問題点として、人間的欲望において、欲望を充足するための能力・形式が与えられて、欲望の姿が明確になると共に、同時に欲望の対象の姿も明確になっていくということがある。若者が「自分が何をしたいのか分からない」というのは当然のことだ。なぜならば、人間的欲望は、充足の形式が整っていくにつれて明確になっていくであり、対象を獲得することが快楽の頂点を形成するのではなく、充足の形式を整えていく過程が、欲望の享受ということを引き起こすからだ。欲望は充足の形式が漸進的に形成される過程の最後の段階において、確定した姿をとる。つまり、人間的欲望において、欲望は一番最後に現れる。その欲望を初めから確定したものであると考え、欲望の対象はぼんやりしか見えないことにいらだち、既製品の目標を欲望の対象とかることは、天使主義に陥っているのかもしれない。

なぜ欲望においても天使主義が広がっているのだろうか。現代は、「もの」に満ちあふれている。現代は、欲望が人間に満ち溢れた時代にも見えるが、逆に欲望を満たす対象はふんだんにあり、そのためにかえって欲望が不足している時代なのだ。ところが、大量消費社会においては、かつてより消費の欲望が増加していなければならない。豊かさの中で、豊かさゆえに、欲望において貧しくなるように人の心を動かさねばならなくなる。さもなくば、消費社会は成り立たない。大量に「もの」があふれている時代で、欠如・不足に基づかないで、欲望を喚起するにはどうしたらよいのか。

欲望の対象における戦略が使えなければ、欲望の充足の形式に訴えるしかないだろう。欲望の充足の形式に訴える戦略は、基本的に人間的欲望のすべてに適用できるものである。というのも、人間的欲望の対象は、「もの」が事物として不足していることから生じるのではなく、「もの」を記号と見なし、そこに意味や価値を付与することから生じるのだから。つまり、人間的欲望においては、自然的欲望の場合と同じように、不足している、欠如しているが故に、その対象を求めているのだというように、欲望の持ち主に思い込ませながら、充足の形式においては、自然的欲望と違ったメカニズムで欲望を喚起していくからだ。そして、理想的な欲望喚起システムは、対象を獲得することで、より多くの欠如を生み出すものだ。このシステムの中では欲望は死ぬことがない。

欲望の充足の形式についての考察は、中世における欲望論のひとつのモデルを見出すことができる。キリスト教倫理においては、七つの大罪がある、以下のものが含まれる。高慢、貪欲、嫉妬、大食、怒り、怠惰、淫欲。この七つの大罪が罪であるのは、対象の選択に関してではない。対象の選択に関しては普通の欲望の場合と同じであり、大罪たる理由は見当たらない。トマス・アクィナスによれば、七つの大罪が罪であるのは、節度・節制・中庸を逸脱しているからだ。節度を守ることは案外難しいことだが、節度とは、肉体の健康を損なわない限りにおいて、社会の秩序を犯さない限りにおいて、法律に抵触しない限りにおいて、律法に反しない限りにおいて等々様々に考えられるが、どれなのだろうか。このことは、七つの大罪において、度を越すことがなぜ罪なのかを考えることから示される。トマスによれば、欲望とはある目的に秩序付けられているものだ。この目的連関の関係は秩序連関と呼ばれる。「秩序連関」という関係において、作用と対象を取り出した場合、対象が作用の方よりも、優位に立つとされる。秩序連関とは、命令が見出されることだが、対象の方が先立ち、作用のほうにいわば「命令」し、そのことによって、作用が秩序の中に収まる、ということだ。欲望は、このような目的への秩序付けによって、尺度と限界が与えられる。たとえば、我々が空腹の時、食べ物を欲するのは、食べることや食べ物が目的なのではなく、空腹がいやされるためだ。空腹には自然的限界が与えられている。それ以上に食べる動物は聞いたことがないから、秩序に反して食べるというのは人間だけがすることになるだろう。このように、限界を越えること、度を越すことは、節制に反し、秩序連関、その中でも特に目的連関の秩序を破壊してしまう。目的連関の中に収まる限り、フィードバックが作用して、限界を越えてまで、欲望が残存することはない。ところが、この目的連関からはみ出れば、もはや欲望を制御する機能は働かず、欲望は果てしない自己増殖を繰り返すことになる。

このように、対象によって安らぐことなく、歯止めなく肥大する欲望は、当初の欲望の姿とは異質な悪魔的なものに変わってしまう。自然的限界が機能するのは、人間の肉体に生理的な限界があるからなのだが、目的連関をはみ出した途端、人間は肉体を有するのに、肉体を持たないかのように振舞ってしまう。生理的限界に「なぜ?」という問いを突きつけ、その答えのなさ、その結果、「なぜ?」という問いが刃、しかも諸刃の刃となって、人間の限界を突き破ってしまう。

肉体が欲望の源泉で、しかもそれゆえに罪の源泉であるというのではない。欲望はそれ自体では罪も穢れもないものであって、罪や穢れに転じてしまうのは、欲望が肉体から浮遊し、人間的尺度を逸脱すること、限度を受け付けないことによる。肉体の存在こそ、欲望に正しい路を歩ませる保障なのである。もし肉体が大罪への歯止めであるとすれば、肉体が罪の源泉であるなどという発想はどこから生まれてきたのだろうか。七つの大罪が大きな罪であるのは、欲望の充足性を破壊してしまうからだ。七つの大罪に陥ったとたん欲望は秩序から逸脱したものとして、人間に制御できる欲望ではなくなってしまう。その際、七つの大罪を措定することは、決して欲望の腐海を絶滅しようとしているのではなく、人間を守り育てるものに引き戻そうとしているのだ。

では大罪に陥らないようにするにはどうしたらよいのか。七つの大罪は、それぞれある欲望を基本型としていたが、大罪を予防するためには、萌芽となる欲望を消去する方法も考えられるが、肉体がある限り欲望は残る。ここまで見てきたように、大罪は対象との間の目的連関を失うことで生じていた。対象の断念は必ずしも大罪の予防策とはならない。大事なのは、欲望が秩序連関の内部にとどまり、充足する形式を維持することだ。

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