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2015年6月28日 (日)

山内史朗「天使の記号学」(19)

4.肉体とハビトゥス

通例、ハビトゥスは習慣と訳されるが、意味がずれるところがある。習慣とは、外に現われた行為や生活の型であるが、ハビトゥスとは、むしろそういった型を産み出す能力であり、しかもさらに重要なのは、個人の生活の中でなされる行為の型よりも、むしろ他者との関わりの中で行なわれる行為を産み出す能力なのである。ハビトゥスとは身体化した能力であるとすれば、そこには<身体図式><身体イメージ>が関わってきて、案外複雑な構造が待ち構えていると予想される。

日本語において、プラトン、アリストテレス以来の伝統を蓄えたハビトゥスに対応する概念は見出されないという気もしてくる。というのも、ハビトゥスとは、理性的能力を基体として形成されるものであり、学知と徳・卓越性に代表されるものだからだ。習慣を意味する「ならひ」では、学知や徳との関連はそれほど大きくない。

また、ハビトゥスには、態度、行状、衣服、装い等の意味もある。これらがハビトゥスと言われるのは、所有されるものだからだ。つまり、所有の受動的効果として考えられているのだ。とはいっても、トマス・アクィナスによれば、このようなハビトゥスは本来のハビトゥスではない。ハビトゥスでは、「持つ」ことの受動的結果、所有されるものではなく、「おのれを持つこと→状態にある」から生じるものだからだ。このような自己に帰る作用は能動でも受動でもなく、中間の中動相を表わす。この中動相的事態は、ギリシャから中世まで常に基本的位置を占めていたし、20世紀の哲学においても身体論や現象学の流れに再び登場している。人間の能動的作用が万能であるという発想がない時代・社会においては、能動/受動といった二項対立は奇妙なことなのだろう。重要なのは、この中動相的事態が何を意味するのか、ハビトゥスをそのような視点からみるということだ。この中動相的事態は、ギリシャから中世に至るまで常に基本的位置を占めていた。人間の能動的作用が万能であるという発想がない時代・社会においては、能動/受動といった二項対立は奇妙なことなのだろう。

ハビトゥスは、このように能動と受動の中間に位置する。この中動相的事態は、自ずと現われる、自然と湧き上がるという現象様式を有している。喜びと悲しさ、快さと苦しみ、それらは起こそうと思って起きるものでもなく、他なるものから起こさせられるものでもない。それらは自ずと起こってくる、そして自ずと起こってくるということが自分の感情であることの徴表となっている。悲しもう、悲しむべきだと思って悲しむことも、悲しみが外から侵入してきて悲しみが生じることも、「自分の悲しみ」のあり方ではない。感情が自分のものとなっていること、つまり己有化され、己の内奥から自然と湧き起こってくることであろう。その場合、悲しみがありながら、悲しみが浮遊し、自分とは別のところで悲しみが生き物のようにうごめくのではなく、「私」の悲しみとして、「私が悲しい」事態として捉えられるためには、<>、いやむしろ「身体の<>」を必要とする。思わず口元がほころぶ身体の<>に悲しみが宿ることはない。多分、「私」は身体<を通して>悲しむのではなく、身体<において>悲しむのだ。<において>とは、単に場所を表わすのではない。むしろ、身体に基づいた、ハビトゥスのあり方を指しているはずだ。

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