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2015年6月 1日 (月)

グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家(1)

2015年3月国立西洋美術館

Guerupos昨年の9月以来の通院日、半年振りの検査で経過を見る。大きな変化なしということで、1年後に様子を見ましょうという医師の言葉に、ほっと安心した。予想していたより早く診察が終わったので、空いた時間で少し無理して上野まで足を伸ばした。一足早い春のようなポカポカ陽気で、天気もよかったためか上野の公園口は平日というのにけっこう人が多かった。それも外国人の姿が多かったようだ。花見でもするのだろうか。展覧会自体は、未だ始まって間もなく、平日の昼過ぎということもあって、人影も少なく、静かにじっくりと作品を堪能することができた。作品のサイズが大きく、そのためか展示点数が40数点という少ないこともあって、ゆったりとした雰囲気も、静けさと相俟って、とても落ち着いた印象の展覧会だった。

いつものように主催者あいさつを見ると、作家とか作品のことはさておき、この展覧会を行なう事情が大きく説明されていました。作品の大半が展示されている美術館が災害にあって避難していて、その援助も兼ねて作品を借り出して展覧会を行なうとの趣旨だそうですが、これは、私が作品を観ることには関係ないことなので、単に、邪魔とだけ書いておくことにします。そうやって主催者が展覧会をすることは否定しませんし、そのおかげで私も作品を観ることができるのでしょうが。しかし、慈善でやるならそういうものだとしてやってもらえばいいと思います。仮にそういうことで展覧会をやったとしても、この画家の展覧会をやろうと思ったのは、この画家や作品に魅力を感じたからであるはずで、それについて、主催者としての考え方を趣旨として明らかにするのが、主催者あいさつとして提示されるものだと、私は思っています。だから、展覧会に行けば、私は、先ずこのあいさつを読みます。そして、このホームページに感想を書き込むときも、主催者のあいさつは尊重する意味で引用させてもらっています。しかし、今回の展覧会のあいさつ、そういう内容が書かれていないので、割愛するとして、替わりにパンフレットの簡単な画家の紹介を引用することにします。

“グエルチーノ(1591~1666年)はイタリア・バロック美術を代表する画家として知られます。カラヴァッジョやカラッチ一族によって幕を開けられたバロック美術を発展させました。一方、彼はアカデミックな画法の基礎を築いた一人であり、かつてはイタリア美術史における最も有名な画家に数えられました。19世紀半ば、美術が新たな価値観を表現し始めると、否定され忘れられてしまいましたが、20世紀半ば以降、再評価の試みが続けられており、特に近年ではイタリアを中心に、大きな展覧会がいくつも開催されています。”

 私も、クエルチーノという名は、はじめて聞いたのでした。展覧会のサブタイトルが“よみがえるバロックの画家”というものだったので、少し興味を持ったのが展覧会に行った動機です。たしかに引用したパンフの説明にあるようにカラヴァッジョの強烈な明暗の対照に比べると、グエルチーノは、よく言えば古典的で安定した感じがする、悪く言えば微温的でもの足りない。カラヴァッジョの比べると酷かもしれませんが、グエルチーノはカラヴァッジョのような才能に振り回されて行き着くところまで逝ってしまった人ではなくて、普通の(とはいえ有能な)人が地道に努力を重ねて、ある程度のレベルの作品を残すことができた、という印象を受けました。私が見た、グエルチーノという人の特徴は一種のバランス感覚のようなものです。全くの畑違いですが、クラシック音楽の世界で20世紀の作曲家にリヒャルト・シュトラウスという作曲家がいます。有名なグスタフ・マーラーの後を受け継ぐように、半音階を多用し、不協和音を大胆に使用した先端的なオペラをつくり、物議をかもしたということですが、その後の一線をついに超えることはなかったという人です。その一線を超えて調性を否定する作品をつくったのはシェーンベルクという作曲家、彼からいわゆる難解なゲンダイオンガクが始まったと言われるのが西洋音楽史となっています。さて、そのリヒャルト・シュトラウスは一線を踏み越える前で留まった後は、戯古典的な作品に変わって人気作曲家となります。いまでも、クラシック音楽の世界では比較的人気のある作曲家ですが、評価としてはドイツ・ローカルなマニア向けで、いわゆる巨匠のような作曲家に比べて数歩劣るという位置づけです。私も、彼の作品を聴くことがありますが、オーケストラを鳴らすのに巧みなのは分かるのですが、たんに響いているだけという印象で、聴いたという満腹感とか充実感を得ることが少ないので、BGMという位置づけにあります。話しを戻しますと、グエルチーノの作品を見ていると、似たような、色々試して頑張っているようなのですが、それがグッとこちらに迫ってこないで、どこかもの足りないという感じがしました。

Grecocon例えば、展覧会パンフにつかわれている『聖母被昇天』という作品は、聖母マリアが天使に導かれて天上に昇っていく姿を下から見上げる視点で描いている作品です。たぶん聖堂の高いところに飾って、訪れる人々が見上げるように展示されていて神々しさを盛り上げる効果を及ぼしているのではないかと思います。仰角の下から見上げるという視界でグエルチーノは構図とか、構成とか苦労したのではないかと思います。たとえば、画面の中央上部にシンボルとして描かれている鳩の姿は真下からみた姿のように描かれていて、正確に描かれていると思うのですが、神々しいというよりは、下から見た姿を忠実に描いたという印象で、少しばかり寸詰まりなユーモラスな姿に思わず微笑みをまじえてしまうようなのです。そこで、神々しさをもたらすような緊張が緩んでしまうのです。ここで、グエルチーノとは、全く関係ないかもしれませんが、エル・グレコの『無原罪の御宿り』という作品と比べてみたいと思います。登場人物がマリアと天使と鳩で仰角の視線で描かれているというのが共通点といえば、共通点です。グレコの作品はゴチャゴチャしていて、うるさい感じがしますし、グエルチーノの作品に比べれば個々のパーツは不正確で、しかも描き方が雑です。鳩などは角度が違っていて、見るほうが修正してあげて見てあげるようです。しかし、画面全体から溢れるような圧倒的なものが観る者に迫ってくるようなのです。残念ながら、グエルチーノの作品からは、グレコのような圧倒的なものは感じられません。

ただ、このようなグエルチーノとグレコを比べて、グレコの方が上でグエルチーノはその域に届かないというのではありません。それが、二人の画家の方向性の違いでもあるわけです。そのひとつが、グエルチーノと言う画家の持っているバランス感覚はグレコには希薄だったようでしょうし、リアリズムとまではいかないでしょうが、親しみやすさとか、グエルチーノは様々な要求に応えようとしたのではないかと想像することも可能です。そういう点でみると、グエルチーノという画家は、グレコ等に比べると現代的な視点からも親しみやすい人と言えるかもしれないのです。そのような見方で、これから具体的な作品を見て行きたいと思います。

会場での展示は次のような章立てだったので、それに従って見て行きたいと思います。

Ⅰ.名声を求めて

Ⅱ.才能の開花

Ⅲ.芸術の都ローマとの出会い

Ⅳ.後期①聖と俗のはざまの女性像─グエルチーノとグイド・レーニ

Ⅴ.後期②宗教画と理想の追求

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