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2015年6月 9日 (火)

山内史朗「天使の記号学」(2)

第1章 天使の言葉 天使のように、欲望を持たぬ、清らかな存在になりたいと願う人間はたくさんいるかもしれない。しかし、天使になろうとしたとたん、人間は奈落に落ちていく。たとえ天使が清らかであっても、天使になろうとする欲望は清らかではないからだ。人間が自分が穢れたものとする発想は、浄化につながるどころか、淫らな欲望により深くはまり込む効果の方が大きい。それにまた、人間が人間以外のものになろうとするのは、哲学においても人生観においても、ロクなものにならない。人間は人間以外の何ものでもない。人間を天使に近づけようとする理解には、コミュニケーションの相手となる他者のあり方について、暴力的な人間理解が潜んでいるように思われる。自分を天使のように「透明な存在」として捉えること、またはそうなろうとすることは、残酷で、悪魔的なものになりかねない。 1. 天使に言語は必要なのか 天使は、人間よりも神に近い、無垢の存在とされてきた。「天使」という言葉は、ギリシャ語で「アンゲロー(伝える)」という動詞の派生語で、言葉の上では「伝える者」、特に神の心を人間に伝えるものである。神の心を伝える者は、話しを歪めたり、混乱させる者であってはならない。空気のように透明で、存在しないに等しい媒体、これが天使だ。 天使に言葉は必要なのかというと、天使は人間と違って肉体を持たない心だけの存在であり、他者に対して肉体という壁の後ろ側に立ってはいない以上、会話するのに言葉は必要ではない。考えていることはテレパシーのようにどんなに離れていても瞬時に伝わる。そうすると天使に言葉は必要でないことになる。これに対して、人間には肉体があるために、肉体が心を包み隠してしまう。直接的に相手の心に思いを届かせる方法がないために、言葉や文字を使って思いを伝えねばならない。困るのは、言葉では自分の思いがなかなか相手に伝わらないことだ。言葉がなければコミュニケーションできないが、言葉はコミュニケーションを妨害する、邪魔者ともなる。肉体がコミュニケーションの障碍となっているために、やむを得ず言葉を用いている。自分も他者も天使のように「透明な存在」ならば、ディスコミュニケーションに陥ることもないし、言葉の暴力性に身を曝す必要もない。メディアが意思や感情を伝えるための媒体に過ぎないならば、媒体は空気のように透明なものの方が良い。人間の心を箱にたとえれば、メディアは箱と箱とをつなぐパイプということになるが、そのパイプは、できるだけ太く、短く、何も詰まっていない方がよいわけだ。できるならばパイプが存在しない状態、これこそ天使に近い状態なのだ。 その世界は、身体を消去したコミュニケーションの世界であり、そして、インターネットの中を飛び交う天使たちが多くなったことに象徴されるように、現代のメディアの見方もこういった世界を目指しているものが多い。しかし、パイプのない状態が本当に理想の状態なのだろうか。私の考えでは、人間のコミュニケーションの理想形態を、天使の会話におくのは二重にも三重にも間違っている。そして、天使の会話ということも誤解されている。いやそれどころか、大きな危険を孕んでいる。

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