山内史朗「天使の記号学」(20)
5.肉体と<かたち>
肉体が<形>をもつのは、自明なことだ。その<形>には、外形、髪型、姿勢、身のこなし、服装、表情、化粧等が含まれるわけだが、それらは個々人の行為の目的にとって、付随的・偶有的なもののように見えて、むしろそういったものが決定的な役割を果たすことは少なくない。しかし、<形>における、微妙な差異が決定的な違いを産み出すことも少なくない。<形>は幾何学的な形状における類似性や感覚刺激における類似性によっては分類されない差異を宿している。<形>では微差しかないのに、一方が生命力に溢れ、別のものが死んだものに見えるのはどういうことなのだろう。説明の仕方は様々ありそうだが、<形>のレベルにとどまらず、その<形>を産み出した人間の内面にあった<かたち>ということを考えると説明しやすいだろう。<かたち>に含まれる力が、何ものにも遮られずに発露し<形>に定着するとき、躍動感が生まれるのだろう。つまり、<形>は、<かたち>から成立してきた、生成の跡を宿しているが故に、<形>の手前にあるものを表現しているが故に、様々なものを伝えられるのだ。
<かたち>がイデアのように、純粋に知性的なもので、<形>は感覚的なものと捉えればよいのだろうか。イデア論的に考えればそうではない。イデアも本来そうであったように、<かたち>は、純粋に知性的・天上的・抽象的なものではなくて、そこから<形>が生まれてくる基盤・母体のようなものだ。知性的なものと感覚的なものとの枠組みで考えれば、両者を媒介するものだ。<見えないもの>から<見えるもの>が生み出されてくる場合の媒介であって、見えることを成立させるものであるが故に見えないものであるようなもの、それが<かたち>なのだろう。ちょうど、光はものを見えるようにするが、それ自体は見えないものであるのと同じような意味で。
肉体には<形>があるからこそ、模倣することができ、そばにいることができ、抱擁することができる。しかし、<形>は<かたち>を備えていない限り、<から>のものとなってしまう。そう、肉体は<からだ>となってしまう。肉体は絆・媒体となるものだが、それだけでは十分なものではない。<かたち>ということで語られるのは、媒介性のことだ。知性と感性、精神と身体、<見えるもの>と<見えないもの>といった二次元的対立、いや二次元的落差がある場合、その二次元性を消滅させる最も簡単な方法は、両者の乖離を跳躍して、直接的に両者を重ね書きしてしまうことだ。もちろん、一方を仮象、他方を真実在として、一次元的世界を作ることもできる。たとえば、イデアの世界のみを真実在として、物質界を仮象とするように。しかし、いかなる一次元的世界観も完全に一次元性に安住してはいられない。純粋なイデア論者も、肉体の空腹は無視しえないし、純粋な唯名論者も精神のようなものを認めずにはいられないから。さらに、二次元性を最小限のものにとどめる行き方も考えられる。昔も今も常識的思考とはそんなものだろう。中世世界においては、実在論であろうと唯名論であろうと、二次元性が大前提されていた。それは架橋しえないものであった・その一つの極が神と被造物の関係にあった。媒介し得ない落差、二次元性がある場合、そしてその落差が架橋しえないものだとした場合、一番陥りやすい錯誤は、存在論的跳躍を行なって、二つのものを重ねてしまうことだ。媒介なき乖離は落差なき直接を生じやすい。哲学と信仰、此岸と彼岸を全く別個のものとする「二重真理説」なおいて、二重性は往々にして重ね書きされて一次元的世界が現われてきてしまう。二次元性を維持したまま、そこに踏みとどまることは、実は容易なことではないのだ。
天使主義は、二次元性・二元論を母体としながらも、その一方を消去しようとするために、かえってずぶずぶの一元論に陥りがちだ。天使主義、つまり直接的二元論は、分離すると同時に結合する媒介を持たないために、きわめて不安定なものになるしかない。言葉も、欲望も、肉体も、対立してある二元性のうちの、消去されるべき一方の項なのではない。対立する二元性をそこに見出すこと、しかも媒介を欠いた直接的二元性を見出すことも誤りだが、その一方を消去することは、さらに誤謬なのだ。
真の実在は、二元性のいずれかのうちにもない。真の実在は、一なるものでも多なるものでも、精神の内にあるのでも精神のそとにあるのでも、質料の内にあるのでも形相の内にあるのでもない。
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