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2015年6月24日 (水)

山内史朗「天使の記号学」(16)

第4章 肉体の現象学

1.魂と肉体

肉体はピタゴラス派やプラトンにおいては、「魂の牢獄」とまで語られていた。そこには、魂は本来、天上のものであり、肉体という穢れた足枷のために現世にとどまっているという発想があった。現世が、混乱に満ちた、心の平静が得られないものであるならば、人間は自分の本来のすみかが現世ではなく、天上にあると考えるはずだ。2、3世紀に隆盛したグノーシス主義もその流れを継承していた。現実を居心地のよくないものと考えれば、肉体は現世という物質的な世界に住まうしかないから、本来の自分は魂にあり、その魂はこの世界に属さず、魂の本当のすみか・居場所は別の世界や天上にあると考えるのが、人情の常だろう。ここで重要なのは、魂は本来無垢で、肉体と関わりを持つことは、「魂への陵辱」であるというイメージだ。なぜ肉体が魂を守り育てるためのすまいとして表象されなかったのか。現実世界以外の居場所という、本来あり得ない空間を作り上げるためには、そしてそのあり得ない世界への正当な市民権を主張するためには、現実世界の方が魂を暴力的に追放した、だから魂は無実・無垢・イノセントだというイメージが必要なのだろうか。

暗黒の中世が禁欲の時代であったとすれば、中世はグノーシス主義の忠実な後継者であるという理解も成り立ちそうだ。少なくとも世俗社会の中では、12~3世紀における商業・農業の発展による、物質的生活の著しい豊潤化を考えた場合、禁欲や肉体の侮蔑は言説としては流通しながらも、心性の基本をなしていたとはおもわれない。トマス・アクィナスやグレゴリオス・パルマスなどによれば、中世では、祈りに参与するのが精神だけではなく、肉体でもあるからこそ、祈りの言葉、姿勢、身振りが重視されたのだ。つまり、恩寵の対象となるのは、人間の精神だけでなく、肉体まで含めた、全体としての人間であり、肉体を切り捨てる発想は少なくとも正統的見解になったはずだ。来世のことばかりでなく、神の国を現世の中に見、現世の秩序を重んじるとすれば、肉体を軽視することなどできるはずもない。

ところが、近世に入って、人間の身体は機械と見なされるようになっていく。その際、身体が機械とみなされることは、身体が精神によって支配されない独自の組織体であって、身体も精神と同じように主体としての機能を持つという発想も可能だったはずだ。そして、機械は自分で運動するもの(オウトマン)という側面をもったものであった。したがって、精神としての身体という側面が表面化することも十分可能であった。しかしながら、オウトマンということは、人間の意思とは無関係に「自ずから」生じてくる現象、つまり偶然の一種と解されていたのである。技術の蓄積によって、ゼンマイ時計のようなものが発明されてくると、制作されてしまえば、自分で動き続けるメカニズムとして機械が捉えられるようになって行く。制作者が不在であっても、制作者の意図に即して動くもの、これが機械とされていく。近世初頭における自然観は、神がいったん世界を創造した後は、神が不在であっても、そこに内在する自然法則や力によって、制作者の意図通りに動く機械として捉えられていた。

人間の身体は精神の下す命令に従うものだ。精神こそ、身体の主人・主体である。精神の意図に即して、動く機械なのだ。精神が身体の主体であるという発想は、近世における身体論の基本的構図であった。精神が身体から作用を受けること=受動作用(passio)が、情念(passio)とされていたのだ。情念とは、精神が自分で制御できない心的状態なのである。近世の情念論の目標は、情念の虜となった精神を情念から解放し、身体における支配を取り戻すことに置かれていた。ということは、精神が身体を支配する状態、しわば、何ごとにも酔わず、冷めていること、そこに理想状態が置かれたということだろう。近世において、身体は精神の機械であるばかりでなく、精神の機械であるべしとされたのである。

だが、そこに傲慢は生まれなかったのか。人間の魂は本来天使的なものであって、肉体をまとったために、穢れに陥り、有限性・可死性が入り込んだという発想は、魂の全能感を前提しているように見える。魂は本来イノセントなのであって、肉体を持ったがために、大地に縛り付けられるようになったという神話は、傲慢の萌芽を十二分に備えている。身体は無際限の快楽など求めないからだ。無際限の快楽を求めるのは、魂の方だ。

 

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