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2015年6月30日 (火)

山内史朗「天使の記号学」(21)

第5章 存在の一義性と媒介の問題

ここまで、媒介と生成をめぐる問題について見てきた。天使主義やグノーシスを扱ったのは、こういった問題に潜んでいる陥穽を探り出し、歩むべき道を見つけるためだった。媒介とは異質のものを結びつける接着剤のようなものなのか。問題は、媒介ということに違いないのだが、もしかすると、媒介されるべきものにあるかもしれない。どんな強力な接着剤でも接着できない場合、接着剤を疑うより、素材の方を調べたほうが良い。水と油をくっつける接着剤は存在しそうにないのだから。媒介が成立しにくい典型的な例とは、両者が共通の成分を持たない場合だ。それはちょうど、二つの数の間に共約数を持たないような関係だ。その関係が「共約不可能性」である。共約不可能な関係は、媒介を持ち得ないのだろうか。もし媒介を持ちうるとしたら、媒介の可能性を示すことができるかもしれない。

1.媒介と共約不可能性

共約不可能性とは、越えがたい深淵があることだ。それを、人と人との間にあるものとして考えてもよい。そうすれば、コミュニケーションの可能性ということの結び付きも見えてくる。

人間と人間の間に共約不可能性があるといっても、「人間」という共通性は成り立っているはずだ。また、コミュニケーションの場面でも、<会話をしたくない>ということを姿勢で示すことで、既にコミュニケーションを行なっていること、つまりコミュニケーションを拒絶することもコミュニケーションであるし、いかなるディスコミュニケーションにおいても、お互いに理解していない、ということぐらいは共通了解できる。人間相互の間にいかなる共通性も存在しないということはあり得ない。ということは、共約不可能性を人間関係に持ち出すのは誤用か、日本語能力の不足でしかないようにも見える。

だが、私が「共約不可能性」ということで考えているのはそういう次元のことではない。共約不可能性とは、概念の共通性の非存在ということではなく、共通性を求める操作の一歩先に現われるもの、もう少しで手に届きそうになりながら、常に指先から逃れ去ってしまうもののことだ。事実的な共通性が人間の絆にならないことは、日常の中に溢れている。「人間」という共通性が共同体の成立に寄与することは皆無ではないとしても、事実的にも理論的にもなかなかありそうもない。論理的な普遍概念が共同体を成立させるわけではないからだ。概念的な共通性は、それ自体で絆として機能するのではなく、共通性として同意されて始めて絆として機能する。共通性は常に求められなければならない、いや求められ続けるような共通性しか絆とはなり得ないことだろう。では、共同体を成立させる普遍は、合意によってそのつど設定されるものにすぎない、つまり一種の唯名論が主張されるべきなのか。もちろんそうではない。共同体性は、事実的な合意の総和によって成立しているのではなく、また予め合意などと無関係に成立していた概念的統一性によって成立しているのでもない。むしろ、原初的合意が共同体が成立した、いや原初的にでも合意が成立したからには、それに先立って何らかの共同体が成立していたはずだ、という議論、つまり、「タマゴ」が先か「ニワトリ」が先かに類する議論においては、始源の状態を取り出すことにより、そのつどの状態が一種の始まりとしてあって、常にどこまでも共通性が求められなければならない、という構造を取り出したほうが賢明だろう。終点となる共通性、議論・論争を打ち止めにする共通性がないこと、これが「共約不可能性」に近いものと私は考えている。イメージで語れば、漸近線と座標軸の関係、つまりどこまでも接近しながら、決して一致することのない関係が、共約不可能性のイメージとして適当だろう。だから、複数の人間がともに求める点において、メタレベルでの共通性が準備され、コミュニカビリティが成立するという言い方もできる。要するに。共約不可能性とコミュニカビリティは矛盾対立するものではなく、相補的な関係にあると言いたいのだ。その際、コミュニカビリティの方が共約不可能性を際立たせるということもあるのだろう。その結果、事実的な共通性はそれだけでは、何ら絆とはならず、突如として意味の失われた世界が迫り来ることもあり得ることとなる。

例えば精神と肉体の場合を取り上げれば次のようになる。人間の精神は肉体の厚みと不透明さによって覆われているために、記号を使わなければ精神は交流できない。ところが、この記号というのは知性的かつ感性的なものであり、必ず、すくなくとも二つの層から成り立っている。記号は、目や耳や触覚において感覚されるために、感覚しうる性質・物質性(紙とインク、音声、凸凹など)を有している。ところが、物質性はそれ自体では意味を担い得ない。例えば、いかに深淵な書物であろうと、文字が読めなければ、紙とインクの塊でしかないことを考えればよい。解釈するための規則が定まっていて、記号を受容する人間の方に、意味を見出す能力・解釈する能力が備わっていなければならない。実に当たり前の話である。ところが、物質の側面(質料的側面)と、意味の側面(形相的側面)が結び付くことは自明でも簡単なことでもない。両者の側面を結びつける規則が、恣意的であるということもある。さらに、記号の質料と形相は、人間の精神と身体の関係と同じように異質のものだ。一方は、感覚可能であるのに、もう一方は感覚可能ではない。なぜこのように異質のものが媒介されるのか。

記号を使用できるためには、精神と身体という異質のものを人間は持たねばならないのかもしれない。精神と身体の存在は、記号使用の必要条件なのだ。では、肉体が障碍としてあるために記号を使用せざるを得ないのか、記号を使用できるためには、肉体を備えていなければならないのか、どちらなのだろう。記号そのものは共約不可能性を内含している。そして、共約不可能性が記号使用の条件となっていることだ。共約不可能性とは、記号の使用やコミュニケーションを不可能にするものではなく、共約不可能性の方がコミュニケーションの可能性を準備しているのだ。共約不可能性を障碍と見て、直接的に飛躍しようとするものとしての「天使主義」であった。

共約不可能性とは、とりあえず共通性を持たないことである。共通性は共通の要素・性質を持つことによって生じる。共通の要素があるならば、共通の要素を含むものからなる、より包括的な集合があるということだ。例えば、人間とゾウが哺乳類という上位の類(外延)に含まれること、言い換えれば、同じ上位の類を有していることと同義である。したがって、上位に共通の類があれば、共通性を有することに成り、共約不可能性は成立しないことになる。

ところが、この世界に存在するものはすべて<存在>ではないのか。<存在>という言い方が気に入らなければ、<存在者><或るもの>でもよい。すると、すべてのものにとって、<存在>が上位の類である以上、すべてのものは<存在>という点で共通性を有することになる。最も上位の類とは内包が最も稀薄であり、規定・内実を最小限にしか有さないはずである。すると、<存在>は最も空虚な共通性ということになりそうだ。このような考え方は、中世哲学では否定される。

その理由の一つは、神と被造物とは、<存在><非存在>よりも大きく異なるとされていたことだ。すると、神と被造物との両者を包摂するものなどない。<存在><非存在>は、最大の差異にも思われるが、神と被造物は<存在>という名を共通に有しているが、その内実は異なると、落差を守りながら、落差を埋め合わせる論理を別に探るものとして、「存在のアナロギア」という発想があったが、ここではそれに対抗するものとして立てられた、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの<存在>の一義性という思想の方だ。一義性とは、名だけでなく意味も同じだと言うことだ。すると<存在>が一義的だというのは、平明で分かりやすい考えにも見える。しかしその一方、神と被造物の乖離を媒介するように見えて、最も空虚な、「名のみ」の媒介を設定していることになるのではないか。

もう一つの理由は、<存在>は類ではないということだ。たとえ、仮に<存在>が神と被造物に共通であっても、<存在>は統一する類にはならないというのだ。類でないことの背景に踏み込むことは煩瑣になるので、結論だけ示せば、<存在>が類でないことは、<非存在><存在>の外部にあるものではない、ということと等価である。一義性は、一般には、例えば「脊椎動物」という類に関して、カエルもクジラもワニという種も一義的である、というように、類が種の述語となる時、個体が種の述語となる時に語られることである。すると、ここで取り上げたい<存在>の一義性説は、伝統的権威に正面から反対して、<存在>を類として捉えていると見えないわけでもないし、そして、実際にそのような批判もされてきたわけだ。

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