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2015年6月22日 (月)

山内史朗「天使の記号学」(14)

3.名前とコミュニカビリティ

近世に入って、<声の文化>は徐々にだが姿を消していく。<声の文化>とコミュニカビリティが密接な関係にあるとすれば、近世に入ってコミュニカビリティは忘れられていったのではないか、という予想がつく。

では聖霊についてはどうだろう。文字に拘束された、現実の教会や司祭よりも、聖霊によって鼓吹された人々を指導者とすることは、異端とされた。聖書に記された御言を学ばずに、聖霊の導きのもとに、直接的に神に至ろうとすることは、狂信・熱狂主義につながる。中世においても、宗教改革期においても、狂信と聖霊主義が同義だった。狂信とは17世紀において、進歩的知識人の最も憎むものだった。聖霊によって啓示されたと信じる者は、「自分達が確信しているから、確実である」という、訂正不可能な信念を有し、諸宗派の対立・抗争・非寛容を拡大していったのだ。このように見れば、戦略的にでも聖霊の位置を引き下げねばならないことはよく分かる。近代とは、聖霊を語る人間でさえ聖霊から離れ、そして知識人は聖霊による啓示を「狂信」として排除しなければならない時代だったのだ。もはや、聖霊は中心的位置を占めることはできない。弁護する者が最大の敵では聖霊が生き延びることはできない。それどころか、現代では聖霊が忘れ去られるという事態が生じている。

ところで、聖霊の忘却とは、キリスト教内部だけの問題なのだろうか。<声の文化>から<文字の文化>に移行したことと関係がないはずもない。<文字の文化>の成立が、聖霊の忘却、コミュニカビリティの喪失だとは言わないとしても、それに類したことはあったのだろう。

20世紀において、このコミュニカビリティを徹底的に考察したのが、ベンヤミンだ。精神的本質は、精神によって捉えられる内実のことで、「メッセージ」と考えればよい。他方、言語的本質とは、言語としての側面、言語を使用する側面だったりする。言語は、普通の考えでは、精神的本質、つまりメッセージを伝えるとされる。しかし、メッセージが伝達可能性そのものである場合はどうなるのか。伝えることは、伝えることがある場合、その伝えることが伝え得るということだ。「祈り」のように、メッセージを持たない、伝えられるべき内容を持たない、自己を伝達していると言ってよい言葉がある。自己自身を伝える言葉、コミュニカビリティだけを伝える言葉は珍しいわけではない。名前を付けること、そして名前を呼ぶこと、これはコミュニカビリティを伝える行為である。ある人が、ある対象に名前を与えるとき、その行為はその当人にとって無関係のものではない。名前を与えることは、関係と絆をつくることだ。もちろん、名前を与えなくても、その対象を使用し、関わることはできる。にもかかわらず、名前を与えるのは、伝達の回路を予め開いておくことだ。名前を呼ぶ場合は、日常会話の中で、多くの場合、メッセージのレベルではなく、メタレベルで機能する。要するに、名前を呼ぶことはコミュニケーションではなく、コミュニカビリティに関わるものなのだ。

名前を呼ぶことは、メッセージを伝えることではない。この名前は、伝達の目的ではなく、伝達の始まりに位置し、始まりを作ることだ。これは絆を作ろうとする行為である。そのような行為によって、一度結ばれた絆は、そこからすぐに退却できるものではない。名前は取替え可能な単なる符丁ではなく、それを待つ人々と結び付いているからだ。名前こそ、伝達可能性そのものを伝達するものであり、コミュニカビリティを造り出す絆なのだ。

現世利益など求めずに、神に祈るとき、そこには穢れた雑念は入り込まない。人間の場合でも、名前を呼ぶだけで、他者に悪をもたらしたり、傷つけることはない。回路そのものは穢れていないとしても、回路を流れるものは、清いものもそうでないものもある。ただし、ベンヤミンは回路の中を何かが流れていくことで、必然的に回路は汚れていくと考える。創造の言葉を離れて、人間の言葉が生まれた時、言葉は何かを伝達するものになる。言葉が、伝達可能性以外のものを伝えるようになった時、つまり、メッセージを持ったとき、言葉の堕落が始まる。ベンヤミンにとって、文学も芸術も、受容者の存在はどうでもよいことだ。それらの本質は伝達でも、伝達内容でもないのだ。文字も名前も伝達のための手段ではない。それらは、一つの、同一のもの、つまり、諸言語が互いに補いながら生じる志向の総体によって到達しうる<純粋言語>を志向しているのである。<純粋言語>とは、自らは何ものも志向せず、何も表現することなく、伝達もなされず、その前ではあらゆる志向が消滅してしまうのだ。<純粋言語>において見られる直接的伝達可能性は、堕落してしまった。

ベンヤミンはコミュニカビリティの層を見逃したり、それを人間的不完全性として取り除こうとはしない。しかし、コミュニカビリティ以外のものを伝える言葉を、すべて言葉の堕落として捉えることは、コミュニカビリティを見出しながら、その可能性以外のことを伝えることを堕落と見なすということは、無垢の始源を目指す点で天使主義に陥っている。

伝達可能なもの、つまり伝達されうるものは、事物そのものに宿っているのではなく、あくまで言葉において自己を伝達する。言葉を通してではない。もし、言葉を通してであれば、言葉は水道管のような伝達道具としてのメディアに転落してしまう。事物が言葉の領野に登場するとは、名前を帯び、事物の言語に姿を改めることによってだ。その場合に、言語、いや、伝達可能性が受肉したものとしての言語は、自己を伝達する、正確には、自己自身において自己自身を伝達することになる。その場合には、言語は純粋な意味での媒体、能動にして受動であるもの=中動相的なものとなる。自らを伝えるは、能動でも受動でもなく、再帰動詞的に表現される。中動相的な事態、反省的な自己限定でもある。ベンヤミンには、自己限定の傾向があり、純粋な始源の状態への志向が表われてきている。

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