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2015年6月23日 (火)

山内史朗「天使の記号学」(15)

4.コミュニカビリティの文法

ベンヤミンにおいては、名前を与えることが、純粋な伝達可能性の現れとされていることを見た。そうなると、聖霊とコミュニカビリティの関係が気になってくる。

純粋な伝達可能性とは、無規定性や無性というはずもない。伝達ということは、黒い雲が雨を示そうと、表情が怒りを示そうと、単語が意味を示そうと、<自己・自ら>以外のものを示すことだ。したがって、純粋な伝達可能性にしろ、言語が自己を伝達することにしろ、自己以外の者が表現されていなければならない。すると言語が自己を伝達するというのは、そこに言語以外のものが入り込んでくるのだ。伝達することは必然的に記号を使用することであり、記号を使用すれば、そこに差異が現れる。記号とは事物そのもののあり方に、留まらない。別のあり方なのだ。純粋な伝達可能性も、差異を包含しているもののはずだ。問題は、その差異のあり方だ。しかし、始源の状態では、その差異は顕現していない。最初にある者が、最初に現れるのではなく、むしろ後になって、徐々に現れる構図が問題なのだろう。

人間が行なう表現行為は、言葉による表現でさえ、複数の層があるが、表情、身振り、態度などの非言語的コミュニケーションにおいても、多様な層が見られる。もちろん、非言語的コミュニケーションの層は、制御が難しく、その層でウソをつける人は案外少ないため、本音が出やすいわけだが、それはともかく、幾重にも及ぶ層において、表で読むか裏で読むかを色分けする。

論ずべき点はこの先にある。こういった複数の層は必ずしも同時に生じるわけではない。落ち着かない眼の動きの後に、ウソが語られることを思い起こせばよい。総てウソしか述べない人間とか、ウソとホントをランダムにまじえながら話す人間は存在しない以上、ひとまとまりの話しはシークエンスをなし、シークエンス毎にウソかホントかが定まっているのが通だ。シークエンスが転調し、ホントの話がウソ・皮肉・お世辞に移行するとき、ほとんどの場合、シークエンスを仕切るシグナルが用いられる。声色の変化でも、身振りからでも、笑い声でも、「冗談だよ」という言葉でもよい。ところが、このメタ・コミュニケーションに属するシグナルをコミュニケーションとして受け取ること、つまり言葉をすべてバカ真面目に受け取ることも十分可能なのである。転調のシグナルは瞬時に悟られる場合もあるが、話しの途中の進展の中で、時間差を置いて気付かれる場合が多いということだ。そればかりではない、話し手の方でも、自分が何を話したいのか分からぬまま、話を始めて、話が進むにつれて、なぜ自分が先ほどの話を始めたのか気付く場合もあるが、その場合、コミュニケーションとメタ・コミュニケーションの区分を制御できるわけではない。

ここから導き出されることは。予め話の筋を決め、どのような話しぶりね表情をするかのシナリオを決めておく場合、モノローグの一種なので話しは別だが、対話の場合、つまり、話の進展に応じて、語り手の意思もまた変化していく場合、初めからコミュニケーションとメタ・コミュニケーションか分離していくのではなく、渾然として融合している。この両者のレベルが融合している状態を、私はコミュニカビリティと呼びたいのだ。さらに言えば、コミュニカビリティが分節化することで、コミュニケーションとメタ・コミュニケーションに分かれてくるということだ。コミュニカビリティの自己展開としてコミュニケーションがあるという構図を読み込んでよいかもしれない。結局、コミュニカビリティの層を持ち出すのは、語ることをそもそも可能にする前提条件が、語ることに先立って存在するという装いを取りながら、語ることの中で整えられていくこと、おそらく、可能性の濃度が現実のプロセスの中で充実されていく過程があるということが述べたかったのだ。

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