無料ブログはココログ

« マグリット展(1) | トップページ | マグリット展(3)~第2章 シュルレアリスム(1926~1930) »

2015年7月22日 (水)

マグリット展(2)~第1章 初期作品(1920~1926)

Mag2015landscape_2会場に入って、正面に真っ先に目に飛び込んできたのが、この『風景』という作品でした。この作品は、今まで私がマグリットに対して抱いていたイメージを覆すものでした。いわゆるマグリットらしいとでも言うような展覧会ポスターにあるようなスタイリッシュで分かりやすい図案のような作品というものとは、ほど遠いものでした。板にテンペラで描かれたためでもあるのでしょうか、後年のマグリットに見られない原色の鮮やかな色彩が強い自己主張をしていたのです。とくに、真ん中に垂直に伸びた茶の曲線と、これを取り囲むような黄色の輝きと、アクセントのように点在する赤の存在感はどうでしょう。これらは、後年の隅々までコントロールされたような画面上の破綻が全く見られないマグリットとの正反対の色彩の生々しいまでの自己主張です。まるで、マグリットの絵の具を乗せた絵筆が、彼の思惑をはなれて勝手に動き出してしまったかのようなのです。とりあえず、作品全体の構成は幾何学的な図案のようになっていますが、図形を形成する線は定規で引いたキッチリしたものではなくフリーハンドを強調するようなフラフラした不安定な線で、これもまた筆が勝手に動いたのか、線で区画される色彩がそれぞれに自己主張した結果、境界線を押したり引いたりしてしまったようにも見えます。

Mag20153women『女たち』という作品を見てみましょう。キュビスムの影響をうけた単純化された曲線による輪郭と、直線によって断片化された色面というスタイルと説明されています。たしかに、構成はピカソの「アヴィニョンの娘たち」に倣ったようにも見えますが、キュビスムにあるような空間を観念的に捉えたような感じは希薄です。ピカソの比べて見ると、マグリットの、この作品の方が色彩が鮮やかで印象的です。ちょっと意外な気がしますが、ピカソの方が統制された感じがするのに対して、マグリットの方が奔放に見えてきます。描かれた女たちが、ピカソの方が挑発的なポーズをしているのに、マグリットの女たちの方が官能的に見えてくるのです。マグリットの作品の女たちの輪郭の曲線が立体を構成する線というよりは、女の艶めかしさを表す柔らかい線になっているように見えます。その上、背景がマグリットの方は『風景』とはまたちがった趣向で色彩が自己主張してそれぞれの領域を取り合った結果こんな図柄になったような色彩が生々しくみえてくるのです。それが女たちを前に押し出して、見るものに迫ってくるように見えます。

Mag20153women2この2作品を見ていると、後年のマグリットには見られないものが数多くあるように思います。最初のころに、マグリットはこのようなものを描いていたことは、私にとっては驚きですらありました。この2作品ほど直接的ではないにしろ、初期のマグリットの作品には、この作品にあった要素が残されていたのを、今回の展示で発見することができました。たとえば、『水浴の女』という作品で描かれた女性は、後年のマグリットの描く女性に比べてはるかに幾何学的な図形のようです。しかし、その図案化された女性に柔らかな陰影が息づいていて、官能的です。このようなものは、この後、画家が作風を確立し、成熟させていくにつれて、徐々に切り捨てられるように失われていったものです。

この2作品は習作期のマグリットが様々な傾向の作品を描いて試行錯誤していた証拠としての資料的価値で見られ、ここでも展示されていたというところなのでしょうか。抽象的な作品にしろ、キュビスムにしろ、これらの芸術運動は理論的に出自で制作され始めたものであるので、マグリットという人の性格からいって、そのような理論で人々があつまって集団をなして何点もの作品を制作することになれば、だんだん教条的になっていくもので、そういうものから引いてしまうところがあったのではないか、と想像することはできます。

Mag2015birthこれは作品そのものではなく、付随する現象的なことです。しかし、後年のマグリットの作品が見る人に与える効果を重視するものであることを考えると、マグリットには、これらのような作品が独善的に映ったのではないかとも考えられます。つまり、見る人に対する効果ということは、見る人に受け入れられることが前提になります。見る人とのコミュニケーションが成立して、この上に見る人の反応を予期し、その反応をコントロールしようとすることになるわけです。だから、どうしても作品の制作の主体は見る人に傾きがちです。それは、企業が商品をより多く売るために消費者の動向や傾向を知ろうとマーケティングに精を出すのと同じです。そのような傾向は、マグリットの作風が確立してくるに従って、明らかになってきますが、もともと、このような志向性は持っていのでしょう。ただし、この作品を描いていた習作期においては、潜在的で画家本人も自覚はなかったのでしょう。おそらく、マグリットという画家が本来的に持っていた性格なのでしょう。だから、絵画作品が、自身が独立して作品自体の論理で作られるようなもの、とくに、当時の見る人を置いてきぼりにして、自分だけはるか先に進んでいってしまうような抽象絵画やキュビスムの絵画には、結局随いていけないものを感じたのではないかと思います。

その上で考えると、見る人に受け入れられるには、見る人に違和感を強く抱かせることがないということ、そのためには見る人のパースペクティブ(視界)に近い見た目を提示することや、受け入れの助けとしてものがたりを語ることができるようなものであること、などが有効となってきます。そう考えると、抽象絵画やキュビスムの絵画には、常識的なパースペクティブを否定するようなところがあったり、純粋絵画とでもいうように絵画の独自の論理というのでしょうか言葉による物語は絵画からは不純なものであるとして排斥してしまったようなところがあります。とくに、後年のマグリットの作品は駄洒落に近いような言葉の論理で考えを組み立てて、それを絵画に描くようなところが強くなっていきます。そういう傾向に対して抽象絵画やキュビスムは正反対の方向性と言う事ができます。マグリットという人の想像力の性格は、純粋に視角的というよりは、言葉によって組み立てられる要素が強い性格だったのではないか、と私には思われます。そのような性格は、未だ、この展示作品が制作された当時は本人にも自覚はなくて、何となく無意識のうちに抽象やキュビスムに入り込めなかったということなのではないかと思います。

それにしても、ここで見られる作品の生々しいほどの官能性は何なのでしょうか。見る者の目に飛び込んでくるような印象的な色彩はどうでしょう。後年の鈍い色調で、均一の塗り絵のように平面的に塗られたものにたいして、マチエールの感じられる重量感があって色がそのものとして存在しているような…。その色彩の存在感が画面構成を構築しているといったら言いすぎでしょうか、絵筆が勝手に動いてしまったように感じられる、視覚の論理で組み立てられた感覚的な画面は、見ていてワクワクするほどの動きと艶があります。このような絵画を描いていた人が、後年のスタティックで平面的な作品を描くようになったとは、考えにくいというのが正直な感想です。もしかしたら、ここで見られる作風は、後の作品の底流に潜在化していったのかもしれません。そう考えると、これからいわゆるマグリット風の作品を見ていくに際して、あらたな視点を見つけたような気がしました。

« マグリット展(1) | トップページ | マグリット展(3)~第2章 シュルレアリスム(1926~1930) »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/61937237

この記事へのトラックバック一覧です: マグリット展(2)~第1章 初期作品(1920~1926):

« マグリット展(1) | トップページ | マグリット展(3)~第2章 シュルレアリスム(1926~1930) »