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2015年7月23日 (木)

マグリット展(3)~第2章 シュルレアリスム(1926~1930)

Mag2015sailマグリットが徐々にマグリット風になり始める時期ということになるのでしょうか。結論から言えば、このころの作品には、絵画自体の官能性といえばいいのか、ある種の生々しさというのか、動感のようなものが残されていて、マグリット風のだまし絵のような謎解きとか、言葉で考える常識にショックを与えるとかいうこととは別に、純粋に視覚の感覚のみで単純にキレイとか愛でるといえるような要素だけでも成立するような作品であった、と私には思えます。

『困難な航海』という作品は、ジョルジョ・デ=キリコのいわゆる形而上絵画─昨年のパナソニック・ミュージアムのキリコ展で見た『謎めいた憂愁』や『ビスケットのある形而上的室内』といった作品─を想わせる作品です。遠近法を極端に強調した室内は奥行きを感じさせるよりも、空間が歪んだように見えます。室内の壁の線と幾何学的に位置関係を計算したように配置された物体たち、その物体たちは空間とは異なる比率あるいは軸で歪んでいて、その組み合わせをみていると、全体として歪んでいるという以上に奇妙な違和感を抱かせる。そして、テーブルの脚が人の足であったり、中央のボーリングのピンのような物体の上部に人の目があったりと荒唐無稽な、この空間との関係が想像できないものが配置されて異化作用を起こすような仕掛けがなされている。こうして言葉にして説明すると、まるでデ=キリコの作品のように聞こえてくるようです。解説の説明によれChiricomisterryば、マグリットはデ=キリコの作品の複製を見て衝撃を受けたそうなので、その衝撃のままに影響を受けて、デ=キリコ風の作品を倣うように描いたということだったのでしょうか。全体としての描き方も、まるでデ=キリコをコピーしたようなヘタうま風の稚拙な塗りとか、一時はかなり傾倒したことがうかがわれます。しかし、私が見る、このキリコの影響を契機としたこの『困難な航海』をはじめとしたデ=キリコ風の作品は、マグリットの作風にとって大きな画期となったと思います。それは、一言で、クリエイトからデザインへとでも言えばいいでしょうか。詳しく説明しましょう。この前の第1章で見たマグリットの作品は、何かを描こうとして、その描くものの形とか色とか、描き方にとどまらず見方といったレベルまで、自分はどうすればいいかを試行していた作品だったと思います。それは、自分はどのように描くのかとか、自分はどのように見るのか、という点で、いうなれば自分のかたちを創ろうとして探していたと思います。だからこそ、突飛な抽象化やキュビスムっぽいものを試したりと。そこには、迷いとか以前に、新しいものを創り出そうとする力が溢れていた、と言ったら持ち上げすぎでしょうか、色彩が鮮やかだったり、官能的なエロティシズムが垣間見えたりと、作品の画面にはちょっとした混沌としたエネルギーのようなものがあったと思います。これに対して、デ=キリコの作品がマグリットの前に現れます。このデ=キリコの作品は、初期のマグリットの作品に比べると、既存のパーツをつかっChiricobisketてその組み合わせや配置で、従来の絵画とは異質な画面を作り出していた作品だったと言えます。ここで、マグリットは何もないところから、自分の形を創造するという作業ではない方法で絵画をかたちづくる方法に気がついたのではないか、と私には思えるのです。これは、言葉の芸術である詩に通じるものではないかと思います。詩は言葉でつくられますが、言葉は一人の人が独自に創造するということはできません。人々の間に共通していなければ、言葉は伝わらないので意味をなさないのです。一人の人がまったく独自の言葉をつかっても、他の人が分からなければ単なる雄叫びに過ぎません。詩は、人々に共有されている言葉を土台にして、その共通であることから、読者をまったく違った風景に連れて行ってしまうものです。その一つの方法として、人々に共通している言葉を用いて、その組み合わせを工夫して、既存の共通したものからズレたものを作り出すこがあります。これを異化という人もいます。デ=キリコの作品は、本人にその意図があったどうか分かりませんが、結果的に異化の効果を見る人に起こさせるものになっていたのでないでしょうか。しかし、その雄叫びであっても、声という音とか抑揚とか拍子によって他の人が、その雄叫びそのものに酔い痴れることもあります。それが音楽です。音楽は、ある意味で人々に共通した知識とか経験とは無関係に、一人の天才が独りよがりのような独断であっても人々を惹きつけてしまうことができるのです。絵画でも、色彩とか形態とかいった絵画的な感覚の要素だけで、何を描いているといったような人々に共通した情報とは無関係に見る人の感覚に訴えることは可能かもしれません。初期のマグリットの抽象的な作品などには、そのような絵画への志向性があったのではないかと思います。それを、マグリットはデ=キリコの作品との出会いを通じて、言葉による詩のような、既存の人々に共有されている情報を使いまわすことで、新たな世界をつくり出すことができることに気がついたのではないかと思います。それは、もともとマグリットが持ち合わせていた志向性に適うものであって、それを突き詰めていったのが、後年のマグリット風のだまし絵みたいな作風になっていったのではないかと思ってもいいのではないでしょうか。

Mag2015face『天才の顔』という作品です。この作品を見ると、マグリットが過渡期のなかで揺れ動いていたことが分かります。画像では分かりにくいかもしれませんが、現物を実際に見てみると、この作品には最初のところで述べたアウロが感じられるものだったのです。真ん中の彫像は細工がされていますが、彫像そのものは誰が見てもそうであると分かるもの、誤解を怖れず言えば、誰にでもわかるように陳腐化した形に描かれています。彫像の乗った木材の板もそうです。しかし、実際にこの作品を見ると、彫像に施された仕掛けとか、ピンに枝をつけて立ち木のように見せている工夫からうまれる異化の効果とかなどよりも、彫像の白が生々しく迫ってくるのです。その白と対決するような背後の暗い緑のピンに枝葉をつけた立ち木のようなもの。これには絵の具が厚く筆跡が盛りあがって美術館の照明を反射するように光るのです。それが彫像の白という色自体が光るように見えるものと対照しあうような様は、私には他の画家には見られない、色彩の強い緊張のドラマに見えました。私の誤解かもしれませんが、ここにはマグリットの感覚が生に近い形での発露があるように思えます。実は、私には、今回の展覧会では、この作品で、これに続く数点の作品が最も素晴らしいものに見えたのです。誤解を怖れずに言えば、私には、マグリットはこれらの作品でアーチストとして一つのピークに達したのでいかと思えるのです。その後のマグリットはアーチストというより、むしろアルチザンとして歩んだのではないか、と思えるのです。

Mag2015arashi『天才の顔』以外に、過渡期の作品ならでは魅力ある作品があります。『嵐の装い』という作品を見てみましょう。『困難な航海』と構成は似ているようで、遠近法の書き割りの舞台のような空間の背景には嵐の海の風景が描かれています。その手前には、幾何学的とも不定形とも言えるようなオブジェ?のような意味不明の物体が6体、無秩序に立っています。これは、模様の切り取られた紙で、切り取られた模様は折りたたんだ紙に切り込みを入れて開くことでできる模様だと解説されています。マグリットは、この切り紙模様を立たせて、影までつけて立体感を与えてオブジェのように描いています。このような切り紙模様は、他の作品でも、『喜劇の精神』では人形で、『告知』では中心に、Mag2015comedy_2『火の時代』では変形されていますが、使われています。いわゆるマグリット風の作品では、画面上に構成要素は、それぞれが意味のあるもので、それが本来の意味とはズレて使われることによって、見る者に異化の効果を及ぼすというパターンで作られています。しかし、この切り紙模様は、意味がありません。マグリットは、この形状そのものを画面に入れていることが特徴的です。これらの作品でのマグリットは、この形状そのものを愛玩して、形状が独り歩きして作品の主題とか意図とか、そんなものは措いて、とりあえず形状が面白いから描いてしまえ、とでも想像してしまうほど、この形状が無意味に浮きまくっています。このような絵画的感覚が先行して、作者の意図などお構いなしに即興的に作品が出来上がってしまうというような行き当たりばったりの感じがするのです。このような感じは、過渡期ならではのものではないか、と思います。

Mag2015fire『嵐の装い』などの作品が、マグリットとしては過渡期の特徴的な作品であるということについて、少し長くなりますが、説明を試みたいと思います。マグリットに典型的な作品は、日常的な現実の物が、日常的な風景とは異なる場面に、日常とは異なる置かれ方をすることによって生まれる齟齬感が、もともとの事物から独立したもうひとつの現実、つまり超現実をイメージするというものです。そのためには、まず見る者が受け入れ可能なものとして、事物を描かなくてはなりません。日常的な常識に齟齬を起こさせるには、その前提となる常識を意識させる必要があるのです。例えば、『恋人たちの散歩道』という作品を見てみましょう。前景に建物と森が描かれて、背景の青空と雲が額縁に枠取られて、その背後が真っ黒にぬられて壁のように見えます。このときに、建物は建物として、森の木は木として、青空は青空として見る者に認められることが第一です。それらMag2015meaningを画家として何らかの表現をするということは、ここでは必要がありません。見る者の常識に添って“らしく”見えることが大事なのです。『恋人たちの散歩道』を見れば、建物はリアルな実在感とか、美的とか、そういうことはなくて、薄っぺらで、ビルの建築現場に掲げてある完成予想図のようです。それは、その部分だけを取り出してみれば、類型的なパターンで、いわゆる絵画的とか芸術的とかいう要素とは無縁のものです。だから、この作品での建物は絵画の構成要素というよりは、一種の記号なのです。このような行き方を、マグリットがもっと推し進めたのが、ことばをそのまま画面に入れてしまった『本来の意味』のような作品でしょう。これは、絵画ではありますが、詩の方法を絵画にそのまま当てはめたと言えないでしょうか。実際、この後の展示で見ていくマグリットの作品では、絵画作品の中の事物を、いかに個性だの芸術性だのを取り除いて、誰にでもそれとわかる類型的で、意味を考えさせないものに描いていくかに心を砕いていくようになります。一方で、それは視覚の感覚的な楽しみを感じるとか、見る喜びといったことから次第に離れていくことになると思います。感覚的に感じるのではなくて、ワンクッションを置いて、知性で考えるという知的な作業を解して興味深く思うというタイプの楽しみという方向に突き進んでいくことになるのです。

Mag2015loversそのような傾向に対して、色彩が鮮やかであるとか、形状が面白いとかいうことは、知性で考えることには役立ちません。むしろ、余計なものです。だから、後年のマグリットの成熟した作品では、ほとんど消失してしまうものです。それが、この過渡期には、『天才の顔』や『嵐の装い』などの作品には、かろうじて残されているのが、私には、たいへん興味深いのです。おそらく、マグリット自身も画家として、後年の作品よりも、これらの過渡的な作品の方が描く喜びを感じていたのではないか、と私には思えるのです。そういう、マグリットの生身の声が聞こえてくるように私には思えてならないのです。それは、これらの作品にある生々しさとか、アウロが漂っているといったような、具体的でない説明になってしまうのです。

逆に、これらの作品から、マグリットの有名な作品を逆照射してみると、絵画は知的な操作の契機にすぎないのか、と言うこともできるのではないか、と思ったりもします。

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