無料ブログはココログ

« マグリット展(3)~第2章 シュルレアリスム(1926~1930) | トップページ | 花火考 »

2015年7月25日 (土)

マグリット展(4)~第3章 最初の達成(1930~1939)

最初の達成という章立てのタイトルから見て、シュルレアリスムの運動からも身を措いて、マグリットは自身の独自な作品世界を確立して行ったということでしょうか。事実、マグリットの有名な作品は、これ以降に制作されたものがほとんどです。それは、一方では私が通俗的に抱いているマグリットらしさという雰囲気にハマる作品を、この時期から量産するように描き出したということになります。どんな画家でも、自分を見つけたところと言うときは、その画家の生涯の中でもひとつのピークをなしていて、その時期に制作される作品数は飛躍的に増えて、作品の質についても力に溢れていることが多いと思います。たぶん、マグリットについては、この時期が彼にとって、そのような時期にあたると思うのですが、私の個人的な印象なのですが、作品からはそのような壮年期の力強さというかエナジーのような印象は感じられず、いたってクールなのでした。

これまでに何度も触れてきましたが、これ以降のマグリットの作品からは、絵画作品の現物の生々しさ、何度も引用しましたがベンヤミンの言うところのアウラが感じられないものとなっていくように感じられるのです。それは、さきほど引用したベンヤミンの『複製技術時代の芸術』という著作の通俗的解釈から敷衍するわけでもないのですが、産業革命によるオートメーションによる工業化が進展し、工業規格品の大量生産による大量消費が実現し、都市に多くの人々がなだれ込む一方伝統的なコミュニティが失われた結果、都市に孤立した個人が大量に出現する、いわゆる大衆です。経済的な消費主体は、このような大衆に移っていったというのが通俗的な見方です。もとより、このような大衆はかつての芸術のパトロンだった貴族や王族のような見識や教養を持たず、裕福なブルジョワのような余裕も持ち合わせていません。このような人々に比べて趣味とか主体性に薄く、流行という軽薄な風潮に流されてしまう人々は、もはや、自らの見識でひとつ作品にじっくりと対峙して鑑賞する余裕はありません。自らの見識を育てる暇もなく、人々の間ではやっている流行を追いかけるのが精一杯。例えば、この時期に最盛期を迎えた映画は、ベンヤミンの著作のタイトルそのものの複製技術を駆使した、スタジオという現実らしさの世界で1時間かそこらのパッケージのドラマをスタジオ・システムという一種の流れ作業でパッケージのようにつくり、フィルムをコピーして一度の各所でたくさんの人々におなじものを見せることができるものです。これは、劇場の舞台で生身の俳優が観客と一緒の空間で同じ空気を吸ってコミュニケーションをとりながら共同作業で演劇空間を作り上げるのとは異質のものです。このようなライブに特有の生々しさのようなものをベンヤミンはアウラと呼んだものでした。これと同じようなことは絵画の世界にもあったのだと思います。いぜんより、絵画作品を版画にして販売するということはあったと思います。例えば、近世日本の浮世絵という絵画の平面的でデフォルメされた図案のような特徴は版画にして大量に頒布するという販売形態と無縁ではないでしょう。とくに、この時期のころから印刷技術が発達し、版画にあった絵画の再現の限界を大幅にクリアし、しかも生産量も比較にならないほどの大量生産が可能になっていたはずです。画家の生活は、もはやパトロンに庇護されて注文に応じて制作するというものではなく、制作した作品を消費者に販売するというものに変化していった。それが、大衆社会の大量消費の出現や印刷技術の進化によって、画家は作品の売り方が変化していったはずです。マグリットも従事していたといいますが、商業チラシや出版物のカット描きも時代のニーズによって生まれたものでしょうし、そのような媒介の変化によって、絵画制作も変質していったのではないかと考えられないでしょうか。マグリットの作品が、そのような時代の影響の中で、彼が意識してかどうかは分かりませんが、ひとつの対応ではなかったのかと思います。

Mag2015slave_2そして、このような性格はマグリットという画家の制作の方法論に根底のところで通定していたのではないかとも思えるのです。それは、マグリットの作品のだまし絵のような、現実の風景をズラしてみせて、そこに「あれっ?」と思わせる一種の異化効果を見る者に起こさせるという特徴的な性格にとって、その「あれっ?」と見る者に思わせるためには、その前に安定した常識的な世界が前提されていなければならない。そのために、作品を見る者が、容易に違和感を起こす前提となる常識的な世界を持ってもらわなくてはならないわけです。そのときに、その常識的世界が、あまりに存在感がありすぎたり、個性的すぎたりすると、その印象が強すぎて、そのあとの「あれっ?」が起こらなくなる可能性が生じる。もしくは、そんな「あれっ?」を求める必要がなくなって、その常識的世界で自足してしまうかもしれない。だから、常識的世界は、そうであるということが分かり、それ以上にならないことが、実は必要になってくるのです。むしろ、月並みで類型的な表現の方が、この場合は効率的なのです。

Mag2015conditionこれを一方で、作品を見る側からはどうなのでしょうか。貴族の邸宅や裕福なブルジョワの豪邸のような広大なスペースとちがって、都市の中産階級やあるいは大衆の人々のつつましい暮らしのなかで、アパートに居間や寝室にちょっとした贅沢として絵画を飾ろうなどと考えたときに、主張の強い存在感のある作品を飾るということは、作品としてはいいのでしょうが、絶えず緊張感があるようなものではないでしょうか。このような場合、部屋のインテリアとして邪魔にならないと言う程度で、しかし、それを部屋に飾った人が月並みでないという程度に個性的(変わっている)という、「一味違った」テイストを感じさせるものとして、マグリットの作品は、知的が感じとか、ユーモアな感じとか、があってある種の優越感を満足させるようなところがあるのではないでしょうか。一種のスノビズムとでも言ってもいいのではないかと思います。しかも、作品自体に存在感とか生々しさがないので、複製を飾っても本物と味わいがあまり変わりない、ということであれば、コストパフォーマンスは、そこそこであるということになります。

そうであれば、下世話な話かも知れませんが、マグリットは作品の支持もそうですが、複製を頒布することで著作権で稼ぐことができる、ということになるのではないでしょうか。話は美術展から離れてしまいました。だけど、私には、これがマグリットの作品の大きな魅力であると思っています。

で、前置きが長くなってしまいましたが、作品を見て行きましょう。『美しい虜』という作品です。屋外にイーゼルが立てられ、そこにかけられたキャンバスに風景の一部が描かれているという作品です。一種の嵌め絵になっています。それは、実際の風景とキャンバスの中の風景が連続しているように見えるからです。しかし、よく考えてみれば、このようなことは現実にはありえないはずです。それは、現実の風景の中に、それと見紛うような絵画を入れ込んで連続してみせることは不可能だからです。ここでは、それがあたかも当然であるかのように、見せています。ここに、マグリットの巧みな詐術があります。つまり、この作品で風景の中に、その風景を描いたキャンバスがあるのではなくて、風景を描いたキャンバスがあって、それにしたがって風景がつくられている、ということです。だから、画面の中のキャンバスと風景は連続しているように見えるのです。言われてみれば、「なぁんだ」という程度のことでしょう。これは、世界を描写するのではなくて、絵画のツールを使って、画面の中に風景を作ってしまうと言うことになります。これは、マグリットが好んだといわれているマラルメが詩の世界で試みたことに通じるのではないでしょうか。マラルメは、端的に言えば、何かを言葉で表わすということではなくて、言葉というものによって何かをつくってしまうことを試みた、と言えます。いわゆる純粋詩といわれる、その方法論は、言葉だけで組み立てて、その以外の要素、例えば表現すべき何か、などという物を不純物として排除していこうとしたものです。ここには、何かを表わすための言葉が、言葉によって何かがあるようになるという転倒が起こっています。これと同じようなことがマグリットの、この作品では試みられていると考えられないでしょうか。その鍵となっているのが、画面にあるキャンバスです。仮に、この作品から、このキャンバスを取り去ってしまったら、どうでしょうか。そこには、何の変哲もない、凡庸な風景画があるだけです。それが、ここにキャンバスを意味ありげ置いてみせると、一種のメタ絵画とも受け取れてしまう作品に変貌してしまうのです。

Mag2015key同じような『人間の条件』という作品を見てみましょう。この後に見る『野の鍵』も含めて制作の時点が近いので、マグリットは一連のシリーズのように描いていたのかもしれません。『人間の条件』では、部屋の窓の前にイーゼルが立てられ、その上のカンバスに窓の外の風景が描かれているという点で、『美しい虜』と比べてワン・クッション置かれています。このワン・クッションが視点という問題を表面化させているように見えます。というのも、さきの『美しい虜』という作品についての説明の中で、キャンバスに描かれた風景と現実の風景が連続することはありえないということを述べましたが、それは、キャンバスに風景を描く時には必ず、画家の視点というものがあるからです。画家は、風景の中にいて、自身の視点で風景を切り取って作品にします。だから、キャンバスに描かれた風景と現実の風景が連続するためには、キャンバスを描く画家が風景の中にいるかぎり不可能なのです。そして、『人間の条件』では、キャンバスを室内において、部屋から窓越しに見える風景と連続させるということで、画家の視点があるということを、ここで表わすことになったと言えます。窓から外の風景を見るという視点と、そこでキャンバスに描くという視点が重なるというように視点を重複させることができている点で、『美しい虜』に比べて精緻になっていると言えますが、その分だけ理不尽さが後退して、衝撃は少なくなっているように思います。

しかし、それは次に見る『野の鍵』に至るためのワン・ステップだったのかもしれません。ここに至ってカンバスは姿を消してしまいましたが、部屋の窓ガラスが大きく割れて、その割れた破片には、窓の向こうに見えている風景の一部が描かれていた痕跡が見えています。と言うことは、前に見た『人間の条件』に見えていた窓の外の風景は窓に描かれた風景だったのかもしれません。そういうことになると、見えている風景というのがじつはフィクションであったということになってきます。『美しい虜』では、現実の風景と描かれた風景の転倒をインパクトとして表わしていましたが、『人間の条件』や『野の鍵』では、実は現実の風景というものもフィクションでてきているという形にかわってきます。それを敷衍して考えてみれば、何気なく窓の外に広がって見える風景も、実はその通りなのであるのかどうか、たまたまそのように見えているだけではないのか。極端なことをいえば、量子力学でいわれる観察者の論理のようなことが、ここでは想起されるような構造が実は見えてくるかもしれない。『野の鍵』では、見えるものと見ているものが一致しているということの、構造がひとつのフィクションとして提示してしまう、一種の脱構築とでもいえる契機と解釈することも可能です。たぶん、マグリットの作品を見て、あれこれと知ったかぶりの議論をしてみせるのは、半可通のスノビズムを心地よく刺激するものとして、流行の先端を気取る大衆にとっては格好のツールとしてもてはやされることがあったのではないか、と思います。

Mag2015seeこの傾向を違った方向から見ることできる作品として『透視』という作品があります。製作中の自身を描いた自画像というらしいのですが、テーブルに置いた卵を見て画家がキャンバスに描いているのは羽ばたく鳥の姿です。ここには、さきに見た風景画には登場しなかった画家の描く姿が、ここでは中心になっています。このように、マグリットには描くという行為を取り上げたり、さきに見た三作品のように直接描くという行為を題材としてわけではないけれど、対象を描くということを間接的に想起させるようか、描くということはどのようなことかということを描くことの中で問う、いうなればメタ絵画という作品が多く見られます。あえて言えば、マグリットの作品に通底していると言えるかもしれません。その背後には、さきの三作品がそうなのですが、ありのままの現実、つまり、見えているものと見ているものが一致している現実というのを、マグリットは無条件に信じることができなかったのではないか、と推測することができるのではないでしょうか。

Mag2015direそれは第1次世界大戦によって伝統的なヨーロッパの社会や文化が崩壊し始めたことによって、それまで当たり前と考えられてきたことに疑問が呈されることとなり、不安が常態化したという社会的な風潮も影響していたのかもしれません。目の前の現実があるということを説明しようとした現象学という哲学運動が現れたのも、現実とか存在ということに疑問が生まれなければ、それを説明しようなどとは思わないはずです。量子力学の原理的な発想の根本に同じような懐疑があったといわれても否定できないのではないか。そのような環境に身を置いて影響を受けたからかもしれませんが、『野の鍵』に描かれているように、窓の外に広がる風景は、窓に描かれたものである。しかも、その窓ガラスが割れて破片が飛び散ってしまっているのです。そこに、もしかしたら、そういう現実をもはや信じることのできない絶望が根底にあったのではないか。描くべき何ものかをもはや信じることができなくなってしまった。それでもなお、描こうとすれば、描くべきものを自分で作ってしまうことが一番手っ取り早い。そのためには、どうすればいいかという方法に頭を絞る。だから自然と描く方法論に関して自覚的になっていかざるを得なくなります。また、一方では、現実の存在そのものを信じることが出来なくなってしまっているのであれば、存在感を表わすとか、生々しさを表現するということに意味を感じなくなってしまうのは納得できることではありませんか。このように、目の前の現実に懐疑を抱いてしまって信じることができなくなってしまったら、人にはどのような選択肢があると考えられるでしょうか。私に考えられるのは、現実から目を背けて非現実の想像の世界に逃避すること、例えば幻想の世界や復古的な想像上の古代世界を題材にして作品を制作した画家たちもいると思います。例えば、ギュスターヴ・モローとか幻想絵画と言われる画家たち。あるいは、そうであるからこそ現実の世界にしがみついて余計なことを考えないこと、例えば現実のディテールを事細かに描写することに固執したり、迎合的に作品を制作するような画家、たとえば唯美主義の画家たちが当てはまるかもしれません。どちらにしても、現実逃避、言ってみれば自己欺瞞です。そして、マグリットは、そのいずれにも属さずに、現実世界が虚仮威しであることを、そのままに描こうとした、と言えないでしょうか。そして、そのように現実を虚仮威しと見ている、自分の現実の見方をも作品に表わそうとした、と。ただ、それが絵画そのものとしての魅力という点と、直結しているかというと、私にはにわかに首肯しかねるところがあます。そこに、私自身がマグリットの作品に対して、ある意味で留保したスタンスを取ってしまっている由縁です。

 

« マグリット展(3)~第2章 シュルレアリスム(1926~1930) | トップページ | 花火考 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/61956486

この記事へのトラックバック一覧です: マグリット展(4)~第3章 最初の達成(1930~1939):

« マグリット展(3)~第2章 シュルレアリスム(1926~1930) | トップページ | 花火考 »