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2015年7月26日 (日)

マグリット展(5)~第4章 戦時と戦後(1939~1950)

Mag2015airマグリットは、前章の展示で見たように、自身の方法論を確立しました。しかし、前章の説明で述べましたように、私には、マグリットの方法論には、その根底にはネガティブな契機があるように見えます。だいたいにおいて、そのようなネガティブなルーツに根ざしたものというのは、どうしても過渡的なものになってしまい、そのこと自体が安定しているということは、ありません。だからというわけではありませんが、マグリットの作品は方法論が確立されたといっても一時的なことにとどまり、その一時的な安定を過ぎると、変化を始めます。そもそも、現実が虚仮威しであることを示すといってもネタはなかなか見つからないし(だからこそ、マグリットは他の人の真似のできない独自の世界を作り上げることができたのでしょうが)、その表現のしかたは、どうしても回りくどいものになってしまいます。これは端的に言ってしまえば、現実が虚仮威しであるということを直接的に言うことは、論理的にありえないからです。どういうこととかと言うと、現実が虚仮威しであると、そのまま言えば、虚仮威しであると言う現実が虚仮威しであることになってしまいます。これによってその言説は二重否定の体裁をとることになり、否定のはずが強い肯定に様変わりしてしまうことになってしまいます。だから、このような場合、ストレートに表現することはできず、現実がリアルに存在しているかのようなことを示して見せて、それに疑問を呈するような仕掛けを施して、受け取る者に疑問を起こさせるような表現しかないのです。だから、ストレートに言えないということは、表現がまわりくどいものにならざるをえません。

Mag2015absolut『空気の平原』という作品、そして『絶対の探究』という作品です。ここでは、対で見て行きましょう。両方とも、広々とした空を背景に、荒涼とした大地の上に木が1本立っています。その木はまるで1枚の葉っぱのような形をしています。それが何か変ですが、二つの木は対照的です。『空気の平原』で描かれているのは、細かなひびの入ったような葉脈が枝のように繁茂している木で、全体に逆行で手前側が影になっていることで、葉脈の間に葉っぱの肉が厚く詰まっていることが強調されています。それだけに真昼間の明るい時間が設定されています。これに対して、『絶対の探求』の方は、すっかり枯れてしまったかのような、葉脈の細かな枝だけが残された、まるでアクセサリーなどで用いられる透かし細工のような姿です。かりに、『絶対の探究』だけをまず見せられたとして、まったく先入観のない人であれば、そこに不思議とか、ズレた感じを持てるでしょうか。たしかに、『絶対の探求』の1本の立木は全体のプロポーションが葉っぱの形をしているし、枝が細く分岐している様は葉脈のようです。しかし、それは、それとして見るからこそ、それが分かるものではないでしょうか。これをそうとは知らず眺めても、変わった木だと思うのがせいぜいのところで、そう思うとしても、それはかなり敏感な人で、そうでない場合には、単に素通りされてしまう可能性の方が強いと思います。逆に言えば、だからこそ、それに気がついた人の満足感は高く、マグリットの作品は、そういうスノビズムを刺激するところがあって、それをネタに話題するという優越感をくすぐるところは、たしかにあります。さて、話しを元に戻しますが、このような『絶対の探究』を『空気の平原』をまず見て、その後で見るとどうでしょう。『空気の平原』での立木は葉っぱが立っているかのように見えます。『絶対の探求』の立木は、その『空気の平原』の立木のバリエィションのように見えてくるので、容易に葉っぱと気付くことが出来ることになります。なんと回りくどいのでしょうか。べつに、立木が葉っぱであると分からなくても、絵画作品の楽しみ方は人それぞれであるのは確かです。ただし、マグリットの作品には、そういう幅の広い包容力は、あまりなくて、それは感覚的に美しいとか直感的に感じる作品になっていないためで、作品の意味とかメッセージのようなものをあれこれ思い巡らすところに、その楽しみ方の比重を置いているところがあります。それが、ある意味、よく表わしている作品であると思います。

このような作品を不断に作り続けている当のマグリットその人は、実際のところどうだったのでしょうか。私は、マグリットではないし、サラリーマン生活の合い間に、こうして有名になった絵画作品を眺めては、あれこれと無責任な戯言をほざいている、クリエイティビティのかけらもない凡庸な人間ですが、このような回りくどいほどのヒネリを利かせたアイディアを不断に要求されるような生活ということを考えてみると、苦しいのではないかと想像してしまうのです。常に、物事を他人とは異なる角度から見ることを要求されるわけです。作品を描いている間だけに限らず、絶えず緊張を強いられているようなものです。だって、作品のアイディアがいつ湧き上がってくるのか分かりませんし、マグリットの場合には、そのアイディアが作品の成否を決めてしまうようなものなのですから。だからというわけではないでしょうが、マグリットの作風が、頭で捏ね繰り回したアイディア勝負のようなものから、感覚的な要素が比較的あらわれてくるものに変わってきます。

Mag2015marmaidもうひとつは、この時期の第二次世界大戦でマグリットの住んでいたベルギーが戦場になって一時ドイツに占領され、その後解放されたということが大きく要因しているのではないかと考えます。以前に述べましたように、マグリットの作品の一見知的な操作の根底には、目の前にある現実が、そのまま存在しているとは信じられない、一種の絶望があるのではないでしょうか。マグリット個人には、そういう現実に対してリアルな実感を持てない、フワフワと浮遊しているような、漠然とした不安を常に抱えていたのではないか。そういう自分を、突き放して客観的に直視しようとするところから、マグリットの作品は生まれてきたのではないか、ということをです。しかし、戦争というのは、そんなマグリットを一転生死の境目のような極限状況に追い込んでしまったのではないか、思えるのです。その場合、現実に懐疑を抱くひまなどなく、死なないために必死になる。そこでは否応なく、リアルな生を実感させられるわけです。ハイデガーを持ち出すまでもなく、死という極限状況に直面した時に人は頽落状態から脱して本来の存在を取り戻すということになるのでしょうか。そのときに、現実とのズレを苦労して意識的に描いていたような作品を、同じように描くことができるでしょうか。マグリットは、その時の実感を手放すことはできなかったのではないか、と私は思います。それは、ひとりの人間として現実とか存在とかを実感できたことを忘れることはできないのではないかと思います。

『禁じられた世界』という作品は、長椅子に横たわる人魚という非現実の題材を扱っています。しかし、その描き方は、これまで見てきたような図案のようなあっさりとした描き方ではなく、暖色の淡い色彩を中心とした色調で、その色彩が作品の空気を第一に決めてしまっているような作品です。絵の具をパレットで混ぜないで、キャンバスに点描のように置いていく技法は印象派のようでもあり、全体的な色調や色彩中心で輪郭をはっきりさせないのはルノアールの技法を真似ているようだと解説されていました。まあ、描かれている女性の人魚はルノアールの描く女性たちのように豊満なところはありませんが、肌の色などはたしかにルノアール風ではあります。これは、何よりも感覚という感じることに改めてマグリットが重視しようとした表れではないか、と私には思えます。感じるということは現実に在るということがあってはじめて成り立つものです。それを前面に出すために、印象派というアカデミズムに対して理念とか物語とかいったものを捨て去るように無視して、能天気なほどの感覚優先の何も考えていないかのようなポーズをとった運動の技法をあえて真似て見せたのではないかと思えるのです。そのしるしとして似合わないほど色彩を前面に押し出しているというわけです。だから、この作品は、描かれている題材等は、実はどうでもよくて、色彩に注目して、あれこれと考えるな、という作品をあえて制作したのではないかと、私には思えます。

Mag2015alice『不思議の国のアリス』を見てみましょう。タイトルのわりには、アリスにあたる少女の姿はありません。それよりも、点描による、マグリットらしからぬ色遣いは『禁じられた世界』よりも、マグリットの従来の作風からいっそう離れていっています。ここには、マグリット独特のヒネリも見えず(私が見つけられないだけなのかもしれません)、画面のデザインとか構成の面では、あえて言えば凡庸です。それを救っているのは、色彩と点描風の描き方です。だが、これをマグリットの作品として見たときに、彼のファンはどのように思うでしょうか。彼の一連の作品の中では特異な位置を占めるものかもしれませんが、果たして、マグリットの作品を一点だけといったときに、はたしてこの作品を選ぶ人はどれだけいるでしょうか。マグリットも挑戦してはいるのでしょう。樹木の幹や背景の空の色の遣い方などは印象派風になるように努力している跡が窺えます。しかし、雲は、あるいは右上の緑色の手招きしている顔の色遣いはどうでしょうか。実験が息切れしているように、私には見えます。

Mag2015dreamしかし、マグリットの努力は続きます。『夢』と題された作品を見てみましょう。リアルを求めるマグリットは感覚的なものから、もっと根源的なエロスの世界に近づこうとしたのではないか、と思います。マグリットとしては、可能なかぎりリアルに女性ヌードを描こうとしている古典的なヌード像のような描き方で、生身の息吹を持たせようとして苦労しているように見えます。私には、漸く手にした存在の実感を何とか表現に定着させようと必死になっているマグリットの姿が見えてくるような気がするのです。というのも、この作品でも、マグリットらしい屈折したヒネリが加えられていて、女性の影が背後の壁にうつっていますが、単なる影ではなくて、立体的な陰影があって実体のようになっています。しかし、典型的なマグリットの表現であれば、影でない方の女性をむしろ平面的にしてしまって、影と実体の逆転のような形にしてしまうか、あるいは影と実体を同等に描き込んで、どっちが影でどっちが実体かという、いずれにしても実体という存在と影という虚の区別がどっちもどっちという作品にしようとするのではないかと思います。ところが、この作品では実体の表現を追求してしまっています。ここにマグリットの作品世界のバランスが崩れている、私には見えます。しかし、そこで敢えてそうしていることによる効果は出ているのでしょうか。マグリット自身が、悪戦苦闘しているように私には見えます。

私には、矛盾に見えますが、この努力の結果として現れてくるのが、この後の展示となる「回帰」ということになってくるのではないかと思います。

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