無料ブログはココログ

« 6年目に入ります | トップページ | 不正会計事件あれこれ »

2015年7月29日 (水)

マグリット展(6)~第5章 回帰(1950~1967)

ここからは、マグリットの代表作が目白押しです。まずは、作品を見て行きましょう。

Mag2015hikari『光の帝国Ⅱ』という作品です。白い雲が浮かぶ真昼の青空と、ぽつりとひとつ街灯がともる街路の夜景という、現実にはありえない不思議な組み合わせの情景です。前回に見た『夢』という作品と比べながら見て行きましょう。『夢』では中心にヌードの女性があって、背後の壁に映った影に陰影が描き込まれ、実体である女性とその影が虚であるはずなのに実体であるかのように描かれています。しかし、この場合の影は実体の女性を押しのけることはなく、影としての位置を超えることはありません。これに対して、『光の帝国Ⅱ』の夜と昼とは対等に描かれています。両者は描かれている題材が異なるので単純に比較することは適当ではないのかもしれませんが、ものごとの捉え方、表現の姿勢に違いが現れているように、私には見えます。そして両者を比べて見て、『光の帝国Ⅱ』に特徴的に見られるのが、マグリットの大きな変化であるとともに、彼が紆余曲折を経ながらも、志向していた方向ではないか、と私には思えるのです。単に反対物を両方画面に描いて、その比重が違うだけではないかと思われるかもしれません。しかし、『光の帝国Ⅱ』の夜と昼が等価でどっちつかずというのが、私には大きなことと思われるのです。この展覧会において、1930年代のマグリットに作品に、私は現実というものが虚仮威しであるであることを、そのまま虚仮威し的な表現方法を用いてニュアンスで伝えようとしている、という感想を述べました。この『光の帝国Ⅱ』では、その志向をさらに進めたものになっていると、私には見えるのです。

少し抽象的な話しをしましょう。大地があり、山や川があり、建物や家屋があって、そこに私や彼、彼女が住んでいる。現実というものをステレオタイプで表わすとすると、こんなものでしょうか。そこで、この基本となるのが実体というものです。私という実体があって、存在し、他の存在を見たりして認識する、そこに確固たる現実があるように思える。しかし、その「私」というのは確固たるものなのでしょうか。私が何かを認識し何らかの判断をするというのが、実体という考え方です。ひとりの人間の組織というのは、身体や内臓の各細胞が別個に働き生きていて、それぞれが生き残ろうと生存活動していると考えられないでしょうか。私が空腹を感じれば、食事をとり、満腹すれば満足すると思うでしょう。しかし、そう考えれば、各細胞が自らが生き残るため栄養を補給するために、あたかも意志があるかのように私という集合体に食物を摂取させている、と。そう考えれば、私の身体というのは様々な臓器や細胞が独自に活動し、そのバランスによって、かろうじてまとまりとして存続できていると考えられないでしょうか。また、意識というものは、もっとあてはまるのではないでしょうか、むしろ、意識の方が、そのようなバランスを崩しやすいといえると思います。そのような中で、あたかも実体があるかのような体を成しているのは、私があるという意味の価値観がフィクションとして作られているからです。つまり、「何がよいのか」という基準がつくられ、それにしたがって物事が解釈されていると、あたかも元から秩序があるように見えるわけです。とりわけ、芸術などというのは価値観によってのみ成り立っていると言えないでしょうか。

『光の帝国Ⅱ』に戻りましょう。昼か夜かというのは、言ってみれば明るさの程度の問題でしかありません。絶対的な明るいとか暗いというのではなくて、人間が感じることのできる光の波長の範囲内での相対的な程度のことです。そこにある種の明るさの基準という価値観が存在しているように見える。そのように描いてしまうのは、現実を成り立たしめている価値観に対する、マグリットの深い絶望がある、私は思います。1930年の彼の作品には現実への絶望があったのでは、ということを述べましたが、その後、戦争という極限状況を体験するなかで、彼は追い込まれたが故の生の実感をありありと感じることができたのではないか、と想像します。それは、生き永らえたことに日々感謝するような決死の状況ではあったのかもしれませんが、生きるありがたさとか、生き生きとした充実感に満ちたものでもあったはずです。それが、この時期のマグリットの作品には、彼には珍しいほどの明るさや官能的なほどの色彩に満ちたものとなっていたと考えられます。そこには、生に基づいた感覚の実感があったのではなかったでしょうか。しかし、そんな日々も、戦争が終わり、徐々に日常が回復してくるわけです。それにしたがって、一時は剥き出しであった生というのが、かつてのように埋もれていってしまうように感じられてくる。それは、かつて絶望していた生に、一度希望を与えられたかのように見えたものが、今度は、その希望のように見えていたのが、実はまやかしだったと暴露されたようなものだったのではなかったでしょうか。その時の、マグリットの絶望は、一度、希望を与えられた後だっただけに、よりいっそう深刻なものだったに違いありません。それが、ここで展示されている諸作品、ここでの章立ては「回復」と称されていますが、言ってみれば、絶望への復帰ということであったと思うのです。だから、ここでの作品は、『光の帝国Ⅱ』のように、現実の虚仮威しを暴露するという、現実の存在を認めた上で、それが変だという迂回を経るやり方から、現実そのものを絶対として見ないで、相対的に斜に構えて見て行こうとするものになったと、と私には見えます。

Mag2015gol『ゴルコンダ』という作品を見てみましょう。今回の展覧会のポスターにも使われた作品であり、主催者がシンボルとして採用したものでしょう。ごく平凡な街の風景のなかに、ごく平凡で個性のない山高帽にコートを着たコピーのような同じような男性が無数に、空中に浮かんでいます。この画面のデザイン自体には、もう何らかの象徴的意味を画家が意図する、例えば現実が虚仮威しであるとか、ことはなくなっています。『光の帝国Ⅱ』での現実は絶対ではないという視線から、この『ゴルコンダ』では最初から現実にそもそも意味を求めないという視線に変わって(進んで?)いるかのようです。『光の帝国Ⅱ』では、夜の建物はそれなりに個性や建物の手ざわりの残滓がありましたが、この『ゴルコンダ』の建物は、単に建物に見えればいいという、かたちをなぞったようなものでしかありません。また宙に浮いている無数の人物も、コンピュータでコピー・アンド・ペーストとして増殖させたように見えてしまうものです。それぞれのパーツのリアリティとか存在感とかは限りなく稀薄です。だから、ある意味では現実のリアルとか意味とかとは無縁の抽象的なものといえなくもありません。しかし、マグリットは抽象画を描こうとはしませんでした。人物とか建物とかいった「かたち」を放棄することはありませんでした。むしろ、類型的で、中身の実体性は空っぽな形骸化したものになっていましたが「かたち」を放棄することはなく、むしろ、その外形が作品の重要な構成要素として機能したといえます。それは、多分、抽象画というのが、マグリットには、「かたち」を放棄することによって、中身の実体的な意味とかそういうものをむき出しに、直接追求するものとして捉えられていたのではないかと思われるからです。実際に、カンディンスキーにしても、モンドリアンにしても抽象画家と言われる人々は、精神主義的あるいは神秘主義的な傾向があって、その精神性といったものを直接表現しようとした形跡が抽象画にあります。それは、マグリットにとっては正反対の方向性だったと思います。その意味では、この『ゴルコンダ』は、抽象画の一派である抽象表現主義を厳しく批判して登場したポップアートのウォーホルの作品、例えばシルクスクリーンに無数に複写されたようなキャンベルのスープ缶に、よく似ている印象を受けます。

Magdaikazoku『大家族』あるいは『王様の美術館』という有名な作品では、より一層の空疎さが進みます。画面はより平面的な書き割りになって、画家の筆触も感じられません。いまだったら、パソコンのフォトショップか何かのソフトで画像を切り貼りして一丁上がりとでもいったような作品です。それは、現実とか意味とかいった主要なものがたりが、なくなってしまったというような中で、無秩序に個別のパーツがあるといった状態、うすっぺらさそのものと解釈することも可能です。

そこで、私が思うのは、マグリットという人は、そうまでして描く理由が分かりません。たしかに、初期の作品は描く喜びが作品の画面にありました。それが、自らの方向性を見出し方法を洗練させていくにしたがって、徐々に感じられなくなり、それが第二次世界大戦に遭遇し死に直面した際に、活き活きとした実感を作品にぶつけるように感じられることもありました。しかし、ここに至って、無意味さがそのままに表われているような作品を見ていると、マグリットの深い絶望はあるだろうと想像することはできます。とはいうものの、マグリット自身、自身の絶望を他人に理解してもらおうなどとは露ほども考えなかったのではないかと思います。というのも、意味ということに対する絶望ということであれば、それはコミュニケーションに対する深い失望を含んでいるはずですから。もっと言えば、表現ということを、もはや信じていなかったかもしれません。そうであれば、描くということに何の意味があるのか。マグリットの有名な作品にクールさを感じるとることはできるのですが、そこに、どこか入っていけない、一見はいいのですが、じっくり見ると退屈を避けられないのです。

Magkingその意味で、今回の展覧会は、訪れた時には閉館時間が迫って、この部分の有名作が目白押しのコーナーが駆け足になってしまったのは、むしろよかったと思っています。全体として、初期の作品に絵画らしさ(という言い方はおかしいのかもしれませんが)を見出すことができました。

« 6年目に入ります | トップページ | 不正会計事件あれこれ »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/61981893

この記事へのトラックバック一覧です: マグリット展(6)~第5章 回帰(1950~1967):

« 6年目に入ります | トップページ | 不正会計事件あれこれ »