ボッティチェリとルネサンス─フィレンツェの富と美(2)~第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ─繁栄する金融業と商業
『ケルビムを伴う聖母子』という作品です。ボッティチェリの作品であることが19世紀になって判明したということで、なんとなく分かるような気がします。この後で見るボッティチェリの作品に比べて、彼の特徴的な不自然さが目立たないと言えます。たとえば、関節がありえないほど無理した姿勢とか、半開きの空ろな目をした痴呆のような顔(男性向け雑誌のグラビア写真で水着を着た女性が見せている、媚態とも無防備とも痴呆ともとれる顔つきによく似ている)とかいった要素が、あまり見られないし、色遣いも落ち着いたものだったので、変に引っかからずに作品に正対できるものでした。このような作品であれば、中世のイコンの形式に縛られながらも、ルネサンス絵画のような人間的なリアルが少しずつ浸透しつつあったルネサンス前夜の祭壇画として、あまり違和感なく見ることができます。例えば、この後のコーナーで展示されている偽ピエル・フランチェスコ・フィオレンティーノの『聖母子と洗礼者聖ヨハネ』と並べてみても、『ケルビムを伴う聖母子』が変わっているとは見えないでしょう。
さて、この『ケルビムを伴う聖母子』の聖母は、後のコーナーの展示作品『聖母子と二人の天使、洗礼者聖ヨハネ』の聖母と同じ人物がモデルになっているように見えるほどよく似ているのですが、ボッティチェリの描く女性の中では珍しい丸顔で、多少童顔のようでもあります。それが下方の幼いキリストに向いているように目を伏せているのが、表情をうまく隠しています。それは、ボッティチェリの描く女性の顔は表情が痴呆のようだったり、人形のようにこわばってしてしまうのですが、ここでは結果的にそのような弊害を免れています。そして、それゆえに、この作品では、聖母の頬に心持ち帯びている朱の控えめな色合いと、肌の柔らかく、瑞々しい色が感覚に訴えてきます。抱かれたキリストの顔は見たくありませんが(正直言って、不気味です。性格悪そう。)、その肌の色が嬰児という言葉のイメージにぴったりの柔らかく無垢な印象で、聖母も同じ色調であることから、聖母の無垢で純粋さが肌の色調からイメージされるほどに、この肌色は印象的です。現在のところ、私がボッティチェリの作品を見ることがあるとしたら、この肌色を見るだろうし、これ以外に見るべきものがみつからないです。私には、ボッティチェリがフィレンチェの他の画家に比べて抜きん出ていたとはっきり言えるのは、この肌色です。
この肌色は、後年のボッティチェリの作品では、徐々に鮮やかさを増していきますが、それに反比例するように柔らかい感触や瑞々しさが失われていきます。このことに、気づくとボッティチェリという画家は、キリスト教とか新プラトン主義とかサヴォナローラの敬虔主義とかの様々な理念の盛衰と関係づけて知的な面から解説されることの多い画家ですが、実は、考える人というよりは、直截的な感覚の人だったのではないかと思ったりします。だから、自身の工房での職人たちに対するマネジメントは上手ではなくて、ここで展示されている工房の作品の品質にムラがあるのは、そういうことが原因しているのではないか、と思えてきます。
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