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2015年7月 4日 (土)

山内史朗「天使の記号学」(24)

4.偶然なるものの神学

<存在>の一義性において要となるのは、潜在性ということだ。<存在>はあらゆるものを潜在的に含んでいるというのである。これは神がすべてのものを創造したという神学的前提の上で話しが進められている。しかしながら、<存在>が、内容の濃い、空虚な概念にしか見えないか、「沈黙」や「闇」と同じように充実したものと見えるかが、大きな岐路となる。

<存在>の一義性の問題は、神学の捉え方、つまり、神学とは知識なのか、ハビトゥスなのか、人間に許された神学はいかなるものになるのか、という論点を出発点に持っている。そこで、スコトゥスは、神学を、神学自体と、我々人間の有する神学とに分けている。<神学自体>は最初の対象は「神」であり、この神はあらゆる神学的真理を潜在的に含んでいるとされる。そして、この<神学自体>は、その神学の対象にそれぞれ固有な関係を持つ知性─に応じて、それぞれの知性に応じた認識を与えるものとされる。ところが、<人間の神学>は、あくまで現世において肉体を伴った状態での知性が、神学の対象について有する認識である。問題となるのは、<神学自体><人間の神学>の関係である。

<人間の神学>は、当然のことながら、現実的にすべてのものを対象にすることはできない。せいぜい、聖書に書かれたことと、そこから導き出せることを対象とするにすぎない。そして、「<人間の神学>は、対象から明証性を獲得することのない、ハビトゥスである」とされる。対象から明証性を獲得するといのは、認識に必要な材料をすべて対象の方が供給してくれることで、そういうものであれば、人間の方は受動的に待ち受けていればよい。ハビトゥスである以上、概念として理解するのみならず、適用することもできなければならない。<人間の神学>がハビトゥスであるということは、認識の成立する条件に、人間の認識能力も含まれ、しかもその能力には欠落がある以上、<人間の神学>は限界を持ったものとなる。したがって、無限者である、神の内に潜在的に含まれるすべてを認識できるわけではないことになる。

一般に第一の対象は、動物学における動物のように、最初に考察されるべき対象と考えてよいが、すべての真理を潜在的に含んでいるとされる。<人間の神学><神学自体>と対象は同じである。つまり、神が対象であることについては共通であり、しかも、「神は無限存在者である」という第一真理も、人間に直接的に知られていると言う。しかしながら、神学の第一の対象である神が、潜在的にすべての真理を含んでいるとすると、第一の対象=神からすべての真理は必然的に導出されること、ひいてはすべての事柄は必然的に生じる、ということになりかねない。すべては必然的に生じる、自由意思はありうるかという問題は措くとして、第一の対象=神からすべての真理が導き出されることが当然求められるが、これは、人間の能力が限定されているからということではない。そこでスコトゥスは、神学を対象の違いに応じて、必然的なものに関わる神学と偶然的なものに関わる神学に分類する。多分、スコトゥスの狙いは偶然なるものの神学を打ち立てることで、人間が啓示の光によって照らされることがないにしても手にしうる、学・知としての神学を思い至ったのだ。そして、そのために、<存在>の一義性に思い至ったのだろう。

偶然的なものには、神に対する真理も含まれている。神の三位一体に関する真理であれ、神のそれぞれの位格・ペルソナについてであれ、例えば「神は創造した」「子が受肉した」というように、神の本質以外のものに関係づけられた場合には、偶然的なものとなる。ここで、要点となるのは「本質以外」ということである。本質以外ということで、人間の場合であれば、肌の色とか身長とかいった「偶有性」とか、他の事物との関係だけが考えられているのではなく、笑えることというような「特性」ないし「様態」も含めて考えられているのである。この「特性」「様態」というのは、「様態」で話を進めると、様態は基体の本質に含まれないものだが、外延は重なるので、互換的=代入可能である。本質の外部にある、つまり本質に含まれないが、互換的であるということを、スコトゥスは「潜在的に含む」と説明し、そういった様態に関わる真理は偶然的であると考えるのである。そして、そういった偶然的なものについても、知識はあり得るとスコトゥスは考える。

<存在>の場合について考えよう。<><事物><或るもの>という超越概念は、<存在>と互換的であるが、<存在>の概念規定を越えているので、<存在>の様態とされているが、スコトゥスは超越概念を拡張し、そこに「無限または有限」、「必然または偶然」などという、矛盾対立する両項からなる離接様態というものを含めている。超越概念を拡張することでスコトゥスは新たな地平を切り開いたのだ。そして、<存在>自体は、無限/有限、必然/偶然のいずれにも中立的であると考えている。つまり、すべてのものは、それらの両項のどちらか一方でしかないが、<存在>それ自体はそのいずれでもなく、中立的であるというのだ。中立的であるということは、両項いずれも、<存在>の概念規定に分析的に含まれてはいない以上、<存在>からの離接様態のどちらか一方への下降は、偶然的なものとなるのである。しかし、偶然的な真理の認識の出発点とすることはできる、という。

偶然的真理における主語・述語という二つの項と、それらの結合を直観することで、それらの明証的真理に関する明証的な確信を得ることができる。例えば、「神は無限である」というのでもよい。したがって、神学に属する偶然的な事柄は、必然的な事柄について獲得される知識よりも完全な認識があり得るのだ。神がすべての真理を潜在的に含むからと言って、そのことによって<神学自体><人間の神学>との差異、必然的なものの神学と偶然的なものの神学との差異が解消してしまうのではない。

以上のようなことが<存在>の一義性の背景である。背景には、神学の区別、様態の捉え方、直観的認識、形相的区別といった道具立てが潜んでいるのだが、<存在>の一義性の構造の骨組みだけ取り出せば、<存在>概念が矛盾対立を引き起こしている統一性を持った概念であることは、<存在>の一義性の<十分条件>であり、<存在>の中立性は、その必要条件であり、<存在>の潜在性における第一次性ということが、その必要条件である、ということだ。さらに言い換えれば、<存在>は自明で最普遍者で空虚であるから、我々にとっても最も遠いものであるにもかかわらず、我々の知性に刻印されるものであることは、矛盾することではなく、同一の事柄の表裏なのだ。<存在>が共通性の第一次性のみでなく、潜在性の第一次性も有しているとスコトゥスが述べたことは、そのことと相即している。

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コメント

NHKBSの「コズミック・フロント」をときどき見ていますが、わたしの粗雑な頭では宇宙の果てについてや宇宙の創成の謎についての話と神学論は似ているような気がします。神学論の究極はこの宇宙の存在とはなにかを語ることではないかとこの空気頭で妄想しているのです。

OKCHAN さん、コメントをありがとうございます。次回から全体のまとめに入り、これまでの議論のおさらいをしますので、とりあえず見てみてください。

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