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2015年7月 5日 (日)

山内史朗「天使の記号学」(25)

ここで分かったことは、<存在>の一義性において語られる<存在>は、コミュニカビリティの原型であることだ。

<存在>の一義性には、共約不可能性という論点と、コミュニカビリティという論点が含まれている。そして、<存在>の一義性のもとでは、<存在>は、コミュニカビリティの異名になると考えたいのである。天使の言葉にこだわったのは、天使の言葉への憧れの中で、何が忘却されるのかを明らかにするためだった。このコミュニカビリティは、コミュニケーションの単なる条件ではなく、不透明さを備えたものだ。その不透明さは、単に言葉の問題にだけではなく、<存在>の問題に登場する。その<存在>の不透明さは、<存在>の一義性に見て取ることができるものではないか、と言うのが出発点だった。その内実は、共約不可能性とコミュニカビリティが必ずしも矛盾対立するのではなく、相補的な関係にあると捉えることで示すことが出来るのではないか、というのが本章のねらいである。

しかしなぜ、<存在>の一義性という、<存在>の平板化を目指すように見えるものに、共約不可能性という落差を取り入れねばならないのだろう。そして、それを天使の言葉や聖霊論や欲望論・身体論と結びつける必要があるのだろう。私が知りたいのは、「私」と<存在>の関係なのだ。それは、いわば「超越的内在」というあり方を基本にし、だからこそ忘却されることによってしか、自らを示さないということがあるのではないだろうか。しかし、忘却されることによってしか、姿を現わさないことは、考えてみると日常的な場面にありふれ、身体論において論じられる問題に見出されると思われる。それこそ、一般者の自己限定という構図で考えないとなかなか見えにくい事柄だ。もし、そのような見通しが正しければ、<存在>の自己顕現・自己限定ということを語ることも可能になってくる。

最初に与えられるものである以上、最も近しいものであることは確かだ。しかし、それは潜在的にすべてのものを含むが故に、展開されねばならず、<存在>が完全な明るみに立つのは、そういった展開の終了した後だが、展開に終局はない。このような構図の中で、個体化の問題や普遍の問題が論じられていたのだ。私が求めているのは、<見えないもの><見えるもの>に転じていく生成の過程の中で、己を持するための<>についてなのだ。

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