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2015年7月15日 (水)

ジャズを聴く(26)~ジョー・ヘンダーソン「テトラゴン」

Jazhendersonジョー・ヘンダーソンというテナー・サックス奏者は、晩年に脚光を浴びたが、全体として地味な印象を強く持たれていた。彼のテナーは独特もので、ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンといったメジャーなテナー・サックスを聴いて、素直にいいと思う人は少ないのではないか。それは、まず彼の特徴的なサウンドによる。彼のテナーのトーンには派手さがなく雄弁さもない。ぼぞぼそと呟くようなこもったような音質で、派手にブローしたり、咽び泣いたりしない。実際にライブを聴いた人の話によると音量も小さく他に共演者がいると掻き消されてしまうこともあるという。これはたぶん、ずっと使用しているセルマーのエボナイトのマウスピースがかなり開きの狭いものなのではないかという人がいる。ライブではマイクをサックスのベルにずぼっと差して吹いていたらしい。だから、低音もテナーっぽくボゲッとした感じではなく、高音も叫ぶような朗々とした感じではなく、いわゆるジャズテナーのサウンドイメージからはかなり遠い、あるいは真逆の音だが、それをあえて選択し(わざとそういうマウスピースその他のセッティングにしていたようだ)ずっとそれにこだわり続けたという点で、これは意図的だったと言える。

それが逆に、彼のファンに言わせれば独特の美しい音色を生み出しているということになる。テナー・サックスの音域は、低い方はドスの効いた迫力が、倍音を使った高音部は切り裂くような鋭さが望ましい、とされている。しかし、ヘンダーソンの音は低域から高域までほとんどブレがなく、どのレンジでも実に安定している。サックスの中にある円筒形の空気がベルから外に出てくるさまがそのまま目に見えるような、温かみを感じさせる彼の音は、サックスという楽器が「木管楽器」である、という事実を改めて思い出させてくれる。ということになる。つまりは、一聴するだけで、ヘンダーソンのサックスと分かる特徴的な音色で、その良さが分かる人には独特の美しさを秘めているということだ。

そのようなトーンで繰り出されるヘンダーソンのフレイの特徴は、強弱をあまりつけないのでダイナミクスを感じさせない、同じ音型を繰り返す、高音から低音まで同じ感じで吹く。とくに低音を低音らしくない感じで、フレーズのなかの一音としてあっさりと吹く、という吹き方をするので、他の新主流派のプレイヤーが使うと目立つようなフレーズを吹いても地味で目立たない。それは本当に彼のフレージングを愛する「理解者」にしかその真価が分からないように聴こえる。それは、いったん彼のファンになったものには堪らないものなのではないか。それが、演奏全体としては抑制の効いたスタイルとなり、かと言ってクールなわけでもないので、一瞬で燃え上がる真っ赤な炎というより、青白い炎のように内に秘めた強烈な熱量を感じさせ、演奏が進むにつれて徐々にテンションが高められていくという、つくり方をする。彼のファンは演奏全体のテンションを高めていくプロセス、ヘンダーソンの語り口を堪能できるため、繰り返して聴いても飽きることがない。

しかし、彼の作り出すフレーズそのものは、基本的にはジョン・コルトレーンの影響を受けていると言われるが、バップの基盤がしっかりした上で、他のプレイヤーが普通はやらないような独特のコード・チェンジを好んでみたり、リズムを意図的にズラしてみたり、代理コードを使ってみたり、トリルを多用してみたり、と多種多様な技巧を駆使している。新主流派の用いるフリージャズっぽいトグロを巻くようなスパイラルなフレーズは彼のつくったものに起因することが多い。

つまり、彼の特徴というと、一般的には否定的な言辞を並べることになるのだが、一度、彼の良さが分かると、それがすべて反転して彼の魅力になるという類のものなのである。

 

Tetragon    196年月日録音

Jazhederson_tetragon_2Invitation

R.J.

Bead Game, The

Tetragon

Waltz for Zweetie

First Trip

I've Got You Under My Skin

 

Don Friedman(p)

Jack Dejohnette (ds)

Joe Henderson(ts)

Kenny Barron(p)

Louis Hayes (ds)

Ron Carter(b)

 

ジョー・ヘンダーソンのバイオグラフィーを見ていると、1960年代前半はトランペットのケニー・ドーハムに認められてブルー・ノートと契約して、自身のリーダー・アルバムも含めて様々なレコーディング・セッションに参加したという。ハード・バップの中心として推進したブルー・ノートのレーベルのカラーも影響しているだろうし、共演したプレイヤーもそういう人だったのだろうから、この時期のヘンダーソンのアルバムはハード・バップのサウンドの中で、ヘンダーソンが独特のプレイをしたものとなっている。

そして、60年代後半に新興のレーベルであるマイルストーンに移籍すると、ブルー・ノートの枠から解き放たれたように新主流派に近寄るサウンドを制作していく。ただし、ヘンダーソン自身のプレイは一貫していて、スタイルを変えているわけではない。このアルバムはピアノのドン・フリードマンやベースのロン・カーターといった、それまでとはテイストの変わった人たちとヘンダーソンのプレイが程よいバランスでまとまった、ハード・バップとはひと味ちがった作品となったものと思っている。

それは、このアルバムを聴き始めて最初の「Invitation」が出会い頭の一発とも言うべきもので、アルバム全体の印象を決めてしまうようだし、この出会い頭のテンションで気を引き締めてプレイに対峙させられてしまう、とも言えるのだ。ドン・フリードマンのビル・エバンスをより硬質にした感じのイントロから、サブ・トーン気味のジョー・ヘンダーソンのサックスが入ってきて、そこにロン・カーターのアンティシペーション気味の伸びのあるベースが絡んでくる・・・。「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」を想わせる物憂げなテーマは、ジョー・ヘンダーソンのぼぞぼそと呟くようなこもったようなサウンドにピッタリで、続く即興が転調の効果を巧みに生かして劇的な盛り上がりを見せて曲を展開させてしまう。トリルを多用するヘンダーソンのプレイに続くようにフリードマンのピアノがブロックコードを微妙にずらして崩れた分散和音がぱらぱら降ってくるようなソロをつなげる。その背後ではボーンボーンとベースの音が生々しく迫ってくる。ミディアムテンポのプレイは、妖しさに満ちている。ヘンダーソンのソロのアドリブ自体は、トリルばっかりのようなのだけれど、フリーという感じは全くしないで、テーマの変奏のようにも聞こえてしまう。

次の「RJ」ではテンポが上がり、ドラムが煽り出す、リズム・セクションがすごいベースがよく伸びて弾むようなトーンで音程はフワフワして、伸び縮みするような乗りを生み出し、クリスタルのような硬質で透き通ったタッチのピアノが繊細かつ強いコードを刻む、そこにメロディに聞こえない、最初からフリーのアドリブのようなヘンダーソンのソロが乗っかる。3曲目の「Bead Game, The」では、さらに曲のテンポが上がり、演奏全体のテンションもさらに上がって、曲全体はフリー・フォームのインプロヴィゼイションの様相を呈する。しかし、アルバムを通して最初から聴いていると、テンポが徐々に上がって、テンションが高まってくるので、アルバムを通しての緊張感と乗りのうねりに乗るような感じになるので、フリーという感じがしてこない。このように、徐々に聴く者を巻き込むように、緊張感を積み上げていくのが、ヘンダーソンの演奏の真骨頂なのだろう。だから、彼のプレイの一部分を抜き取ってどうこう言うのではなくて、全体の設計を考えるのがヘンダーソンの魅力だろう。アルバムでは、この数曲後の「Waltz for Zweetie」でテンポを落として、緊張を少し抜くことまでして、聴く者のバイブレーションをよく考えて構成している設計している。知的に構成されたアルバムではないかと思う。聴く者は良く考えられた流れに身を任せるというのが、まずはこのアルバムに親しむ近道ではないかと思う。 

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