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2015年7月 1日 (水)

山内史朗「天使の記号学」(22)

2.<存在>の一義性

一義性は、それ自体で考えれば、神と被造物であれ、他の事例に関してであれ、差異を強調しようとするものでも、同一性を強調しようとするものでもない。少なくとも<存在>の問題が媒介の問題であるということは、私には確実なことに思われる。すでにここまで見てきたように、媒介の問題は基本的にかなりパラドキシカルな姿をとる。一義性がそれ自体では単純明快でも、媒介の問題であるとすれば、錯綜したものにならざるを得ない。

さて、議論の大前提として、<存在>はあらゆるものの述語となり、<存在>の外部に立つものは存在しないところから始める必要がある。換言すれば、「<存在>はあらゆるものの述語となるが、類ではない」ということになる。これは「<存在>の一義性」の前提をなすものである。スコトゥスは「一義的な概念」とは、同一のものに肯定と否定を同時に行なった場合に、矛盾を引き起こすだけの統一性を備えた、単一の概念であるという。スコトゥスは注意深く、「一義的な概念」と述べている。この要点は、おそらく、<存在>は神と被造物、つまり無限存在と有限存在に共通の上位の類ではないこと、<存在>は無限存在と有限存在に共通の成分とはならないことである。さらに、すべてのカテゴリーを越える超越概念である<存在>の規定となっている神と被造物に共通なことは何であろうと、有限と無限に中立無記的なものとしての<存在>に該当するものなのである、と述べている。ここで注目すべきは、とりあえず、<存在>は神と被造物とに中立的である、というとだ。もちろん、中立無記性だけでは、<存在>の一義性の一要因にしかならないのだが、少なくとも<存在>の中立無記性を考えることで、一つの困難を解消することができる。「中立無記性」とは、例えばAかBかのどちらか一方になりうるが、どちらへの傾向性も持たず、また現実にはそのいずれでもないということだ。中立無記性は、何らかの共通性ではあるが、しかし上位の類を想定するわけではない。したがって、<存在>の中立無記性は、<存在>を類にするのではないか、という疑念をかわすことができる。

媒介の問題に立ち戻って考えると、中立無記性は、神と被造物の距離を大きくするものには決して見えない。神と被造物の関係としてでなくても、私と他者の関係のモデルとして、共約不可能性を立てるとすれば、<存在>の一義性と共約不可能性は両立するはずもないように見える。しかしながら、共約不可能性の本来の形式は、共通性がないということではない。共約不可能性とは、共通の尺度が存在しない場合より、成立していた共通性が媒介する絆の帰納を失った場面に登場するのではないか。共通性がないがために共約不可能性が生じるのではなく、むしろ、共約不可能性とは、言葉を交わしながらも、目の前にいながらも、成立しうる共通性の機能停止のことではないのか。したがって、共約不可能性は共通性が多ければ多いほど、大きなものとなり得る。人間が無限の距離を感じるのは、あれほど親密に心を通わしていた人間が目の前にいながらも、何も応答せぬ状態、いや豊かに与えられ応答が異言語にしか聞こえない場合であろう。

神と被造物の関係に関して、<存在>の一義性を語ることは、<存在>をいわば両者に共通なものとして語ることになるが、これは両者の間に近道を造ることではない。むしろ逆に両者の間に共約不可能性の条件となるものだ。一義性を語ることは、かえって両者の懸隔が離れたものになることを示しうる。神と被造物が無限に離れていることは、<存在>の一義性を損なうものではないし、コミュニカビリティを否定するものではない。無限に離れていることは、共約不可能性の一つの現れであるが、未展開のあり方にすぎない。逆に、近みにあることが、絆になるとは限らず、場合によっては、近みにありながら、共約不可能性が現われでることもある。さらに接近しようとする力と、接近しながら常に必ず残る差異とが両立し合っていて、しかもその両者を二つながら保持したままで設定される共通性の尺度が存在する領野をここでは語っている。共約不可能性そのものが絶望の原因となる乖離・断絶なのではなく、固定化し動かなくなった共約不可能性が、呪われるべき乖離ということだろう。それは、接近した状態にあろうとも、さらに接近する力を失った場合、または、接近した状態にあろうとも、共通の尺度が失われた場合に足下に奈落が開けるように現われてくると思われる。

第3章で見たように、神は人間の中に内在する、しかも無限の距離を保持したまま内在するという論点がある。つまり、神との一致であれ、神の三位一体と人間の三位一体の対応でも良いのだが、神は無限に遠いものであるばかりではなく、同時に最も近いものであるというモチーフである。知識と信仰を分離して、知識においては最も遠いが、信仰においては最も近いというように、超越を知識に、内在を信仰に振り分ける手持ちももちろんある。そして、スコトゥスには明確に主意主義的な側面があるから、知識・知性における落差を埋めるものとしての意志という構図を読み込むこともできそうだが、どうも彼の立場は極端な主意主義への批判を出発点にしている以上、知性と意志の対立を強調するのは誤解であろう。

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